人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

WPPCについて

2014-03-21 14:49:21 | スピリチュアル
 (質問) WPPCについて、今はこれが中心
となっていますが…。


 (答) WPPCというのは、形式的な説明
から始めれば、世界平和の祈りを世界の人達に
広めようということなんですけれど。

 実際は、世界人類というものは、その
世界平和の祈りというものを本体では
知っていて、一緒に祈るというそういう時期を
皆が待ち望んでいる。それは会に入る入らない
にかかわらず、その人の魂が知っている。本体が
知っている。だからその先がけとして、ある一団
の人達が祈っているけれども、縁として、その
時期々々に一緒に共に祈って来たけれども、今や
世界のみんなが共に祈ってやってゆく時期に
突入して来ている。

 ただし、我々は毎日毎日祈り込んで来て
いますから、他の人よりは身体が微妙に
なっている。同じ肉体を持っているけれど、より
感じやすく受けやすくなっている。波動が細かく
なってるんですね。

 色々な人たち、様々な信条、思想を持った
人たちが参加して来ますが、世界平和の
ものすごい平和の光を浴びると、
一時(いちどき)に波動が細かくなる。すると
粗いものがフヮーッと出る。その粗いものを
あなた方が受ける、そして洗濯をするのね。
 洗濯石鹸の粉ですよ、あなた達はね。色々な
汚いものが出てくる。それを洗濯してあげる。
 WPPCとは、そういうものね。
 洗濯されてきれいになって、気持ちが
よくなったなあーとね。

 それぞれの人々の本心の中に、世界平和の
祈りの種がまかれて発芽してゆく。その時に
一緒に一回でも二回でも共に祈ったことに
よって、その人の奥深く魂が覚醒されてゆく。
 それから先、もし一生祈らなかったと
してもね、世界平和の祈りの光明は、その人の
生命をつき動かしてゆき、その持ち場持ち場で、
神様が愛行をその人になさしめようという、
そういうものなんです。ですから、例え参加
して祈って、その後忘れて通り過ぎても、
それでもいいんです。
 ある家族の一人が来て祈ると、他の家族は
知らなくても、魂的に見れば、霊的に見れば、
他の家族も一緒に引き連れて一緒に祈っている。
 本体は全部わかっている。だから来ようと
来まいとどっちでもいいんです。一人の人が
つながったということは、その家族全部が
つながったということ。会に入る入らないは
全然問題じゃない。もし全員を会員にしようと
思ったら、戦争しなくちゃならないね。(笑)
 今、ソ連だってユーゴだって、民族問題で
あれだけやってるということは、長年の積年の
恨みだとか色々なものが吹き出してきて、もう
自分達でやりたいという、民族自立の思いが
吹き出して来ているから、ああなって
いるんでしょう。

 ところが、世界平和の祈りというのは、
それを全部一つにしてね、統一するというん
じゃなくて、我々は神と共なる生命だから
一緒に祈りませんか、という、そういう
ことですよ。ですから、それぞれが違っていい、
だけれども一つになりましょう。神によって
一つになりましょう。神の愛によって一つに
なりましょう。それが世界平和の祈りです。
 だから参加人数は問題じゃない。その人の
過去世の縁によって、ある一人の人が
結ばれると、その人の縁につながるすべての
人の魂が、霊体がそこへ来るのね。霊体で
参加して、ネズミ算式に増えてゆく。こういう
ネズミ講はいいんです。とってもいい。(笑)

心構えとしては?

2014-03-20 08:26:14 | スピリチュアル
 (質問) 心構えとしては、何も来ないという
信念みたいな、善念を起こすということですか…。


 (答) 念じゃだめ。念ではなくて、やっぱり
信仰を持つこと。信念ではなく信仰を持つ。
 自分が祈る時に、自分を強くして下さいと。
 強くやさしくして下さいと祈る。何があっても
強くたくましく岩のようにと祈ると、ただ強い
自分だけが出て来て片寄ってしまうけれど、強く
やさしくという祈りだと、そこにやわらぎの心が
出てくるでしょう。やわらぎは平和ということ
ですからね。

 やわらぎを忘れて、ただ平らかになるという
ことだけが平和ではありません。ブルドーザーで
いくらでも道は平らに出来る。だけど、それで
草木をなぎ倒して、生命を根こそぎにすることが
神様のみ心ではない。人間だけが生きればいい
というものじゃないでしょうね。すべてが神様の
息づきの中にある生命なのだから、人間だけが
救われればいいというのでは本当に平和に
ならない。動物も植物も海も山も空気も、すべて
神様のものであって、我々人間もそこに共に
生きる生命であるから、共存して行かないと
いけませんでしょ。
 神様と共なる生命なんだけれど、神様と共なる
生命は、神様対人間だけじゃあない。
 全部がそう。全部が生きている。そういう
地点に立ってやってゆくと、平和にならざるを
得ないですね。やわらぎを持たざるを得ない
ですね。人間がって思うから、私がって思うから
大変になり変なことが起こってくる。

 斎藤秀雄さんがここで書いたでしょ、「俺が
俺がの我を捨てて、おかげおかげの下(げ)で
暮らせ」とね。みんなが生かされている。みんな
というのは人間だけではなくて、天地のすべて
万物が宇宙そのものが生命であり、それがみんな
鳴り響いていて、その宇宙全体の中に、世界平和
の祈りが鳴り響いていて、我々はその響きの中の
一つの粒子として、個性を持って生きている、
生き通しの生命だということを忘れてはいけない。
 そういう風に思える時に、そういう風に信じ
れる時に、人間というものは本当に解放されて、
本当に朗らかになってゆける。人間の本当の
真性(神性)、朗らかな真性(神性)という
ものがそこに現れて来る筈です。

 何度も言いますけれど、人間というのは、
チャチなものではない。天地、万物、宇宙、極天、
極地、全部を貫くーそれ位の存在なのです。
 だけれど今は、この地球という所にいて地上に
いて、肉体というものをまとい、飲んだり
食べたりしゃべったりしている。この小さな
ことも愛するようにならないと、生活という
ものも大事にしてゆくようにしないと、同時に
天地を貫いてゆく宇宙を貫いてゆく、タテにも
ヨコにも縦横無尽に朗らかに現れてゆく自分が、
その生命だということがなかなか思えなくなる。
 だから、小さなことを大事にしないと
いけません。ささやかなことを大事にしないと
いけません。謙虚であって欲しいし、感謝を
忘れないで欲しい。そういう思いで世界平和の
祈りをしてゆくと、スーッとエレベーターに
昇ってゆく。感じなくても、天界の霊人と一緒に
祈りをすることになりますね。

投げ出したつもりでも・・・

2014-03-19 06:57:36 | スピリチュアル
 (質問) いつも霊光写真を痛いところへ
当てて、世界人類がーとやっていますが…。


 (答) 世界人類がーでいいんですよ。


 (質問) 投げ出したつもりでも、やっぱり
半分は恐かったり、治してもらおうという
気持ちが強くてー


 (答) それでもいいから、世界平和の祈りを
したり、霊光写真も持っていれば、いい加減な
ところは消してくれますからね。
 人間というのは、いっぺんに強くなれない
けれども、本当は強いんですね。その強さを自覚
して欲しいのです。強くなって来たなという
のではなくて、すでに強いんですよ。すでに
たくましいんですよ。
 元々人間は神様の器ですから、肉体なんていう
チャチなものではなくて、その奥に大変なもの
霊妙なものが存在している訳でしょう。そういう
存在なんですよ、だからりきまなくて
いいんですよ。フワーッとしていればいいんです。
 それが私の教えですよね。ですから何でも
出来る。不幸も来ないということでね。でも、
やっぱり自分が迷ったり悩んだりするのね。

毒性のものが体内に入った場合・・・

2014-03-18 06:51:29 | スピリチュアル
 (質問) 例えば、毒性のものが体内に入った
場合、祈り心でもって流したらいいんですか。


 (答) いいんです。何も気にする必要ない。
 天と地をつなぐ者に書いたでしょう。結核の
膿(うみ)をさわったその手のままで食べても
何ともならなかったと。あれは、自分がもし
神様の御用を何もしなくていいんだったら、
そこで、死んでもいいし、生かして下さるん
だったら、まだ生かして下さるだろうと思う
つもりで治療してるから、何にもならないのね。
 恐いとか、どうしようとか、そういうものが
有ると、つけ入られるんです。

 どういう風にしようと、たとえ無菌室で
仕事をしていようと、そこで自分の中にふっと
迷い心なんか出て来ると、それが細菌という形
をとって中へ入って来ます。これだけの事が
あったのに、なんで私は神様に守られなかっ
たんだろうと。でもそうじゃないんですね。
 やっぱり迷ったところに乗じて何かがふっと
取りつく。そういう時に、肉体がふっと
弱まる時、弱まらない為には、やっぱり祈って
ゆく。どうなっても構わないと投げ出す。

C型肝炎の人に使った注射針を自分に刺した場合・・・

2014-03-17 08:47:02 | スピリチュアル
 (質問) 今、肝炎もHB型からC型まで出て
来ていて、C型はまだ人間界では抗体がないと
言われていますが、C型の人に使った注射針を
誤って自分に刺したという場合、光の中にいると
消されますか?


 (答) 神様は全部消せる。何であろうと
消せる。しかしその人間が果たして行かなきゃ
ならない宿題というものがある場合には、それが
病気になって出て来たり、不幸と見える状況に
なって出て来たりする。つまりそれは、その人が
不幸になる為に何かが起こって来るわけじゃ
ない。その人が進化する為に出て来る。何か
背負わされる場合には、そうなんですね。
 借金払いの場合もあるけれど、その人の魂が
より進化されて澄み極まって、もう肉体を
持たなくてもよろしいという、つまり、
肉体波動が無くても自由自在に行ったり来たり
出来る、その位自由自在になるという、その
目的のために出て来る。

 例えば、うんと貧乏になったり、何でこんな
病気になったんだとか、あるんですよ。また、
こんないい人が何で早く死ぬんだろうと
いうような場合ね、これは天の方から見ていて、
守護神の方から見ていて、これはもう天の方へ
迎えた方が、地上と連けいがうまくとれて、この
魂を使ったほうが光が送りやすいというような
場合があるんです。神慮の場合がある。

 しかし、人間の感情は、こんないい人が
死んじゃってという場合、とてもじゃないけれど
悲しみがあるわけですよね。だけど、神様が
守って下さるから、とにかく、私の天命が完う
されますようにと祈っている以上、絶対悪く
なって行きませんから。その不安も全部含めて、
神様は消して下さるので、信をかたくもつ
ということはそういうことです。

 どうなるのかしらどうなるのかしらと思って
いたら、そりゃつけ込まれてしまう。それは
神様がつけ込むんじゃない。幽界の生物とか、
何か不安に乗じて何かをやろうとする、そういう
ものがつけ込んで来る。それは神様の心でも
なんでも無いです。自分が不安になって自分が
ぐらぐらしていると、その時に痛みでもなんでも
来る。

 ですから、そういうものを払って払って
いこうと思ったら、大切なことは、その時
自分が力まないで、神様を呼んで祈って
やっていく、これが一番いい。