人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

宇宙神と同格ということについて(1)

2022-12-26 11:16:40 | スピリチュアル
今まで何度か説いてきましたように、人間の
生命の流れというものは、本来、宇宙神の
ずっと深いところまで繋がっているんだという
ところまでお話ししたかと思います。
それでこの間、直線的に昌美(現会長)が
宇宙神と皆さんとは同格であると、そういう
ことを言ったかと思います。
それで今聞いていると、諸説紛々だというので、
じゃあちょっとこちらからのメッセージを
言ってみようかと思うんですけれど。

同格というと、同格という言葉にまた把われる
のが人間なんですね。
じゃあ同格というと宇宙神とまるで同じ
ということになると、じゃあ宇宙神というのは
何かというと、すべてのすべてなんですね。
生命の元の元。
人間の生命だけじゃなくって、この宇宙
全体を造った、もう造ったも何も造る
前からいた。
それと同じかということになると
仰天しちゃう訳なんです。

何故かというと、人間というのは、この肉体
という不自由なものを持ってまして、一日の
内でも、何度も何度も言うように、気分が変わる
喜怒哀楽が出てくる。
そういうものと宇宙神が同じだと言われて
しまうと、とんでもないという気持ちが
まず出て来る。
それでなくったって我々は凡夫なんだから、
いただき直しの生命なんだからといって
ずっと説いて来て、そして皆さんも祈っている。
そういう中で、そういうふうに言われてしまうと
わあ─と思う。
思うけれども、昌美が言ったのはね、その
生命の現われとしての宇宙神と一緒なんだ
というふうに捉えてしまうと、つまり、
全体の存在と同格だというふうに捉えて
しまうと、皆困るんですね。
そうじゃない。
じゃあ昌美は嘘を言ったのか、そうじゃあ
ないですね。
        (つづく)

心のながれについて(4)

2022-12-25 10:05:03 | スピリチュアル
   (前日からの続き)
私に言わせれば、さっき言ったように、
人間の生命というのは神様の分生命(わけ
いのち)ですから、神様の光を一瞬でも
滞らせちゃったら、これは生きて
いけないんです。
人間というのは。

だから、器としてどういう風に用いら
れるか分からないけれども、その用い方は
皆違うんだけれども、しかし、この人間は
まだこの世に用があるという場合は絶対に
御用済みにならない。
今日目覚めて、そして生きてるという
ことがわかったら、あーこれは生かして
下さってるんだ、生きてるんじゃない、
生かして下すってるんだと。

だから、自分がどういうふうに器となって
いくか分からないけれども、全身でですね、
お任せします、よろしくお願いしますと
言って、守護霊さん守護神さんに
言い続けてごらんなさい。
あるいは、五井先生に言い続けて
ごらんなさい。
そうすると、実際に、食べるために
着るために、あるいは住むためにね、
仕事でもお金でも入ってきますよ。
肉体を養うにはね。

何故かといったら、霊の生命だけじゃ
この世の中はやっていけないから、この
世の中で、神様のために働かせるために、
神様が必要であれば生かしていくという
ことは、肉体を養っていかないと生かして
ゆけない訳だから。
そうすると、この人間には何が必要で
あるか何が必要でないかというのは、
向こうの方でよくご存知ですから、そこで、
絶対に自分が生かされていくんだという、
そういうことですね。

私は何にも取柄がなかったけれども、
とに角任せてしまったね。
そうして、何もかもゼロ以下になって、
それでも、人間というのは神様が養って
下さるから生きてゆけると、そのくらいの
素直さだけ持てた。
そうしたら、貧乏にもならずに何とか
この世の中生きて、子供も授かって孫も
授かってゆけた。
その時その時、私はこうして下さいと言って
望みはしなかったんですね。
いろんな夢とか希望とかいうのは別にして、
是非ともこうならなくては困ります
というふうには望まなかった。
そうすると、自分が想い描くよりも
もっと以上のものを神様は与えて下すった。
そういうことなんです。

つまり、自分の本心の中へ、自分の
本心の中へというのは、神様の心の中へ
ですね。
その心の中に一致して、一致させて祈り言を
いってゆくと、世界人類が平和であります
ようにとずっと祈りつづけてゆくと、そこで
神様というのは、その一人一人の人間にとって
一番大事なものを下さる訳なんです。
ですから、そこを信じて私どもは
世界平和の祈りを成し続けてゆきたいと
思いますし、また成し続けていらっしゃる
ように、私はこちらから光を送り続けて
まいりたいと思っています。
     昭和63年6月13日(月)
         五井 昌久

心のながれについて(3)

2022-12-24 10:44:27 | スピリチュアル
            (前日からの続き)
人間の生命というのは、神様の霊的な
そういう健やかなところからの流れが
来ないと止まっちゃうんです。
生命というのはね、神様の分かれだから。
だから、神様の方で、この人間を
何かの形でまだまだ生かして、器として
動かしてゆかなきゃと思うかぎり、
我々は死にたいと想ったって生きて
いかなきゃいけない。
死ぬことを許されないわけなんですね。
霊界移行をかってにできないように
なっている。

例えば、お金がない、明日からどう
しようという所までいっても、そこで、
あれっと思うところで道が開けてくる。
神様なんだから、お金でも何でも自分の
思うままに湧かせることが出来るんじゃ
ないかとか、いろいろあるんですけれどもね。
ただ人間の生命というものは前生も
前々生も生きてここにこうして存在して
おりますから、いろんな借金返しが
ありますね。
その借金返しを済ませるというのは
大変なことなんです。
何が大変かといったら、人間にはまず
欲があるんですね。
欲が絡んで人間関係が拗れるとか
というのは、これは一番やっかいな訳ね。

例えば、前の世の中で喧嘩別れして、
もう絶交だとかあるいは生命のやりとりを
やったとかね。
あんまり穏やかではない話だけれども、
そういう相手ともう一回、守護の神霊が
後でくっつけて、それで何とか
この世の中でしようと思ったって、相手が
猛烈な金持ちでこっちがそれほどお金
持ってないなんていう、そういう極端な
環境の中で合わせたとしたら、これは
なかなかねー。
僻み根性というんですかね。
例えば、片っぽが一千万持ってる、
片っぽは五十万位しか持ってない。
五十万対一千万じゃね。
この世の中でパッと見はですね、一千万の
方が多いから、五十万の方は萎縮しちゃう
わけね。

ですけれど、その五十万をどう生かすか
なんですね。
今手許にあるものをどう生かすか、自分の
生命をどう生かすか、ね。
それによってお金というのは増えもするし
減りもするんです。
その一千万というのは、私から言わせ
ますとね、つまり、その人の努力の賜物
でもあるかもしれないけれども、前の
世の中からずっと積善をしましてね、
陰徳積んで貯金を増やして来て、それで
現われてきた環境の中の一千万かも
しれない。
そうしますと、その一千万の上に
あぐらをかくと、一千万なんてお金は
たちまちに消えてなくなる。

なくなった時にどうするかというのは、
その人の心の現われになる訳なんです。
そこで本心を輝き出させるということが
これは並大抵の事じゃないんです。
人間生きていかなきゃいけませんので、
なかなかそれが大変なんですけれども、
でも出来るだけ素直にね、任せ切るなんて
いうことはなかなか出来ることじゃない
けれども、でも、「すいませんよろしく
お願いします」と言ってしまって、祈って
祈って祈っていきますとね、そうすると
いつの間にか、ああこういうお金が
入ってきたなあとか、ああこういう人に
会って助けられることになったなあとか、
そういう何か援助がね、まわりについて
くるんですよね。
その辺が、自分には一千万あるから大丈夫
だと思ってあぐらをかいてしまって
何にもしない人。
しない人というのは、いわゆる心やさしく
まわりに対しても自分に対しても気配りを
しない人。
それでこの世の中を渡ろうとしてしまう。
欲で渡ろうとしてしまうと、これが一番
駄目なことなんですね。
          (つづく)

心のながれについて(2)

2022-12-23 08:43:50 | スピリチュアル
    (前日からの続き)
この肉体は食べなきゃ我々は死にます。
飢えれば大変なことになりますね。
そのために働かなきゃなんない、お金を
得なきゃなんない。
そういう想い煩いが霊界に移行すると、
一回こうすっと抜けるもんだから、
いろいろな痛みや煩いがないぶん、余分な
ものがなくなって働きやすくなるわけね。

で、働きやすくなるというのはもっと
厳密にいいますと、これは素のまんまに
なる。
素直になる。
その人の本心が現われてくる。
そういうことなんですね。
我々世界人類というのはですね、人間
一人一人というのは神様の御心の分かれ
なんです。
生命の分かれなんですけれども、その
御心と心を一つにしていく、本当の
ところをいえばそうですね。
それで生きてる。
神様の生命を貰って生きてる。

生命を生き生きとさせる。
心をひそめてずっと自分の心の流れを
みていくと、本心に連らなっているから、
その連らなっている自分自身というものが、
先程も申しました様に、非常に大きく深い
ものなんですね。
そうしてその人間の心の流れというものは、
自分の中の例えば、これが飲みたいとか
あの人に会いたいとか、そういう欲求とか
いうものだけじゃなしに、もっともっと
深い深いところで繋がっていて、実は、
深いところから我々の肉体を養なう、例えば、
暑いとか寒いとかそういういろいろな欲求が
出て来る訳ですね。

今こうして世の中で生きるための、必要に
応じたものがちょっちょっとこう出てくる
けれども、しかし、本当を言えば、本来心の
深いところからの声というものを聴く、
そのために我々は生きている。
あるいは、もっというと、その目に
見えないほどの世界、奥の奥の体というのは
常にそういう本来の深い声を聴いてる訳
ですから、我々の肉体が覚知しようが
しまいが、その霊の生命を聴いて心を受けて
生きている。

そういうものが我々の肉体の実は養い親に
なってるし、肉体を養ってる元になってる
ということを思いますとね。
キリストが言ったね、「何を食べようかとか
何を飲もうかとか想い煩うな」というのが
ありますよね。
「あの空の鳥をみるがよい」というふうな
ことを言いますね。
それは何かというと、黙ってても棚ボタに
お金が入ってくるとかじゃないんです。
          (つづく)

心のながれについて(1)

2022-12-22 10:45:07 | スピリチュアル
我々が毎日誰よりも親しく付き合って
いるものというのは、考えてみますと、
心ではないでしょうか。
朝起きて、さわやかに目覚めることが
出来たとか、あるいは、ちょっと
睡眠不足で体がだるいなあとか、
そういうことを感じる。
覚知して、そしてくたびれているにしろ
何にしろ、起き上がるというのは、
それはやはり気持ちの働き、心の働き
であります。

我々はよく自問自答なんてことを
申しますけれども、自分に問うて
自分に答えるというのは、毎日毎日
自分で無意識でもやっている訳ですね。
自分で考えて、ああお茶を飲みたい、
誰かに会いたい、こういう予定がある、
というのはそれは記憶ということも
あるけれども、それをしたいとかしたく
ないとか、面倒くさいなあとか疲れたなあ
とかということも含めて、それは自分の
気持ち、心と対応し続けながら、毎日
肉体を養っている訳であります。

親兄弟というのは絆が深いとか申します
けれど、私なんかに言わせると、親兄弟
よりももっともっと自分の中で深い
関わり合いを持っているのは、自分の
そういう自分自身を覚知する心で
ありますね。
ところが、いつも申しますように、
心というものはずっと奥の深いところで
神様と繋がっている。

神様の世界なんていうと、この世と
あの世という遠いかけ離れたところの
ように思う。
ある宗教の信者さんだと、極楽に
行くとか地獄に墜ちるとか墜ちない
とかね、あるいは、聖書などで
ゲヘナの火とか何とかいうけれども、
しかし、そういう何か想い焦がれる
とかいう世界じゃなくて、厳然として、
あの世というか霊界と申しますか、
そういう所はある訳なんですね。

向こうの世界とこっちの世界というのは
ずっと繋がっている。
一つづきになっている。
だから、霊界移行という言葉を申しますけど、
それは実際に移っていくのであります。
我々自身がこの肉体を脱ぎ捨てて、
向こうの世界に移って、そしてさらに
自分の生命を豊かにしていく。
そういうための移り住み、それが霊界移行、
死なんだと。
だから、この世の誕生と向こうの往生
というのは、これは二大祝賀行事である
と私がいつも申しますのは、そういうこと
なんですね。
         (つづく)