いとうみくさんの新刊。
いつごろからかな。
「こども食堂」という言葉を耳にするようになったのは。
子どもの孤食。
つまり、ひとりでごはんを食べる子どもの状況のこと。
私は、小学校から大学まで、住む土地が変わってもなぜか、すべて学校が住居から遠かった。
真冬の猛吹雪の朝は本当に辛かったので、私の子どもにはそういう思いはさせたくないと、学校のそばに住むというのが、住居を決める第1条件だった。
それで、小学校も中学校も徒歩5分以内のエリアにある分譲マンションを買った。
にも関わらず、息子は中学校はバス、地下鉄、バス、の一時間半もかかる中高一貫の私学へ行きたいと言った。
「目の前に中学校があるんだよ!」と言っても、息子の意志は変わらなかった。
それで、私は5時には起きて、息子のお弁当と朝食をつくりながら、息子を蹴飛ばすが如く叩き起こす日々が始まった。
勿論、夫はまだ爆睡中。
6時過ぎ、ようやく起きた息子が、寝ぼけ眼で、朝ごはんを食べている最中、私はまだお弁当のおかずの進行形で、台所に立っている。
台所から息子に声をかけるが、姿は視界にない。
その息子の中高6年間、つくづく、対面式のキッチンではないことに悔やんだ。
息子は、ずっと、ひとりで食卓につき、ひとりで朝ごはんを食べていた。
そんなら、私がもっと早くに起きてお弁当をつくれという話しだが……。
バス停7時発のバスに乗るために、息子は制服に着替え、お弁当をリュックにいれて、家を出る。
大学生ぐらいになって、ひとり暮らしを初めて、ひとりで食事をしているのとは、訳が違う。
こどもの、ひとり食卓での食事は、悲しい。辛い。
だけど、「こども食堂」という言葉、なんか、実は抵抗がある。
なんだか寂し過ぎるし、
なによりも意味付与過ぎる感があるじゃん。
……善人大人の善意満載?っていうかね……。(ああ、私って、基本ヨコシマ思考なんだよね)
と、そう思いながらも、このページの主人公のハルさんには、ほっとさせられる。
「ストーブを つけて
あたたかくなった へやの まんなかで、
ばたんと 大の字になりました。」
北海道人には、この感覚、すっごく、わかるよね。
ストーブの火をつけて、そのあたたかさは、至福です。
そして、部屋のまんなかで大の字ですぜ。
大の字、いいですよー。
思考も、大の字になって、あったかくなりますよ、そりゃあ。
視覚的にもストーブの、炎の効果絶大。
東京人なのに、いとうみくさんの作家魂を感じるセンテンスです。
ハルさんは、へやのなかをごろごろ、していると、壁に飾ってある、子育てをしているころの
家族が大賑わいの写真を、見るのである。
ごろごろ、ってほんとにいいよね。
思考とか思案とかの態って、
頬杖つくとか、窓の外の風景をながめてとか、雨の降る日とかあるよね。
そういうありきたり想定内の表現じゃないところに、すっごく、日常の実感が溢れていて、いいな。
ハルさんは、毎日、山のようにごはんを作って、それは、ちょっぴり大変だたけれど楽しかったと、
作家は綴っている。
その通りなのです。
私も6年間のお弁当作りは、大変だったけれど、実は楽しかった。
息子が友だちに、おかずを取られるから、もっといっぱい作ってと言った。
息子の通う学校は半分ぐらいが寮生だったので、そんなことで、おかずが取られるのかなーと思って、だいたい3人前ぐらいのおかずを作った。
そのうち、息子のお弁当のおかずを取る級友からのリクエストもくるようになって、お弁当のおかずの量は増える一方だったけれど、それが嬉しく楽しかった。
* * *
ハルさんは、ひとりでごはんを食べている子と、一緒に食べようと、あたたかいごはんを作って公園へでかけます。
それが、こども食堂を始めるきっかけなのです。
私の大量お弁当作りも、それと、多分、同じ心境だったように思います。
息子は、食卓にずっとひとり朝ごはんでしたが……。
日常は、一筋縄ではなくて、単純なステレオタイプにはならなくて、なんだかんだと絡み合い、混み合って、泥沼で、水平線で、朝焼けで、かはたれの、そんなもののようです。
子どもの本は、大人が読むべきかも知れません。
自分が子どもを育てている最中、こっそりと、心に塞がらない小さなすり傷みたいなものが、いっぱいできてくる。
それが、ちょっと辛いなと思っている人にとって、児童文学は、とりわけいとうみくの作品は、そのすり傷にとてもやさしく触れる軟らかいガーゼのような、そんな風なのです。
いとうみく文学は、いつも、私の心に塞がらない小さな傷の痛みがあることを、気付かせてくれて、そして、やさしくガーゼをあてるように、ひそひそと流れる血を止めてくれる……と実は、思っているのです。
『あおぞら こども食堂 はじまります!』も、そういう作品でした……。