黒猫チャペルのつぶやき

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出生

2004年12月06日 | みのりのつぶやき-成長の足跡
 今日もたっぷりとお乳をいただいた。満腹状態である。私は間もなく深い眠りに入るであろう。
 概ねのところであるが、今のところ私は1回に70から多いときで100ミリリットル程度、1日に6回から7回くらいの授乳をされる。母殿は母乳の信奉者であり、積極的におっぱいのマッサージなどをして、夜など眠気をこらえつつ懸命に母乳をくれようとするし、私も決して嫌いではないのだがいかんせん私自身の体力が乏しい。おっぱいに余力があっても、30ミリリットル程度をいただくと結構疲労こんばいしてしまう。よってあとは市販のコナミルクで補うこととなり、哺乳瓶で飲む訳だが、こちらはのどごしの快さは母乳に劣るものの、吸う力が要らずずっと飲み易い。母殿が頭を痛める所以である。

 眠りに落ちる前に先の出生の話の続きをしよう。

 計算上、私の出生予定日は11月17日となっていた。まあこんなものは目安程度のものであり、過ぎたところでどうというものでもないのだが、母殿はこの1週間前くらいから落ち着かず、過ぎても何の兆候も起きないと途端に不安に陥っていたようであった。
 前回触れた大いなる運動が功を奏したか、私はうまい具合に揺られ、臨月に入る前にうまく頭を下にして、筋腫に阻まれることもなく産道の入口に納まっていた。医者どもはここに至っても、ようやく自然分娩の可能性は認めたが、依然として経過次第で手術を要する確率が高いという見解を崩していなかった。
 母殿は賢明な女性ながら、ものごとを楽天的にとらえるのが不得手で、予定日を過ぎて、胎児が3キログラムを越えると途端に自然分娩が困難になるだろうという先入観にとらわれていた。父殿にさかんにそんな訴えをしたりするので、(この父殿は後に触れるがまた極端なくらい楽観的な性格の持ち主なのであるが)私としても早く出ないと申し訳ないような気になっていた。だがこればかりは私にどうにかできることでもない。私自身、体重があと少しで母殿の言う3キロを上回りかけていることが近日の診察状況その他からほぼ推定できていたので、なおさら気が咎めた。

 11月19日、母殿、父殿そろって墨田区の都立墨東病院で診察を受けた。この日も、子宮口は開いてきているものの、予定日を余り過ぎるようであれば帝王切開の準備も考えざるを得ない、と余り喜ばしからぬ診断を受け、次回の診察を予約し終えた。
 驚嘆すべきは、この日に至っても、母殿としては不安を紛らわす意図もあったのだろうが、帰宅してから衣装を改め、また銀座までブティックなどを冷やかしに出かけている。父殿とともにまた何時間も歩き、浅草まで戻ってケーキを食ったりしている。一般的に言って素晴らしい体力と言えよう。
 この浅草で立ち寄ったカフェーのテーブルからの風景は絶品だったらしい。もちろん私は目にすることはできないのだが、母殿のイメージは漠然とした格好ながら私にも伝わる。隅田川に面したテラスのテーブルで、夕暮れの川面、雲の流れ、行き交う船の姿、そこに秋の風がそよぎ、一日の疲れを洗うものであったらしい。私も是非再訪し自分の目で眺めてみたいものである。

 翌20日早朝、6時過ぎのことである。突如異変が起こった。急激な子宮の収縮である。従来も、前触れもなく子宮の筋肉が硬直したり、軽い収縮が起きたりすることは私の意識が芽生えて以降ままあったが、今回のものはより強烈であった。母殿もすぐに異変に気づき、これが陣痛の始まりであることを冷静に認識した。
 陣痛の周期が次第に短くなり、10分程度になったところで病院に行く、というのが兼ねて想定していた流れであった。ところが事態はそのようには進まなかった。午前7時頃、二度目の陣痛が起きた。この時、同時に破水したのである。母殿飛び起きて、事態に驚愕し、父殿を揺り起こした。状況を確かめた後病院の夜間受付に電話を入れ、タクシーで急行する。その間私はと言えば、みるみる周囲の羊水が減っていくのではじめは慌てたが、落ち着いてみれば多少寝心地が悪い程度で、生存に支障がないことがわかると安心して身を任すこととした。

 病院に着いたのは8時少し前である。幸い移動中激しい収縮はなかった。受付で氏名を述べると、産科のナースが車椅子を持って迎えにきてくれる。母殿車椅子に乗って、診察室へ。父殿はしばし家族待合室で待機の後、入院手続き等を行い、白衣を着用の上、診察を終えて陣痛室に移った母殿と合流した。
 分娩監視装置なるものと点滴が母殿には装着され、私の心音と、子宮の収縮の度合いがモニターに表示され続ける。当初はある程度時間の余裕もあるものと観測され、母殿には朝食も運ばれてきたが、いくらも経たぬ内に陣痛の間隔は急速に短くなっていった。モニターに映る数字が一定のレベルを超えるごとに、母殿は激痛を迎える。私にしてみれば身ごと押しつぶされんばかりである。父殿が盛んに母殿の腰を押してみたりするが痛みが軽減される訳ではない。懸命にかねて教えられていた呼吸法を繰返す。

 助産士が様子を覗きに来て、急な進展に気づいて母殿の体を診て、
「この分だと、午前中に産まれますよ。」
と告げた。余りと言えば急な話ではないか。
父殿 「よかったね、みのりが、ぎりぎりまで我慢して、一番いいところで出てきてくれたんだよ。」
母殿 「みのり、ありがとう!」
 私は自分でやってる訳ではないので何とも面映いばかりである。母殿、朝食を摂るどころでなく、直ちに分娩室に移される。

 分娩台に母殿が固定され、父殿は枕もとに立って見守る中、医師が到着し、陣痛の高まりを待つことしばし。そして、
「次来たら、思い切りいきんで下さい。」
 母殿、叫びそうになるのをかみ殺し、その瞬間、強くいきむ。壮絶な光景であったろう。私もこのときは必死で、母殿の動きに併せて少しでも前に進もうとのたうっていた。これが繰返される。母殿、息も絶えだえになっている。私自身参ってきて、一瞬気が遠くなった。
 この時、モニターによると私の心音は急に低下していたそうだ。で、通常の分娩であればもう少し時間をかけ、出口が自然に拡がるのを待つ方法もあるのだが、危険と判断した医師は
「次で一気に出しちゃいます。」
と決然と言い放った。そして言葉通り、引き続いた収縮とともに
「強くいきんで、もう少し・・・」
と、母殿に休むことを許さず、一息に私を引っこ抜くように外の世界に送り出したのである。
 後に父殿の語るところによれば私は全身紫色に近く、声も上げず、動きもしなかったそうだ。まだ気を失っていたままであったろう。手際よく臍帯が切られ、背中やあちこちをひっぱたかれ、ようようにして私は初めて肺の中に空気を吸い込んだ。そしてほんのわずか、弱々しい泣き声をあげた。
 さらに背中をたたかれ、押されて、もう一息、もう一息、どうにか次第に強く、ようやく目覚めた私は息を吸い込み、力の限り吐き出して泣き声を上げた。
「ほら、抱いてあげて」
と助産士が血まみれのままの私を母殿の胸に運び、既に乳首の先にほんの少しにじんでいた最初の母乳を口にふくませた。
「みのり・・・ がんばったね・・・」
母殿の安堵の声を聞く。

 これが私の生まれ落ちた顛末である。

 出生時間は午前10時28分。後、助産士から
「経産婦の半分、初産の3分の1の時間でしたね。」
と言われたが、事前に散々脅かされたにしては、記録的なまでの大安産だったということになろう。
ひとえに母殿に備わった体力と、日々の節制の賜物と言える。


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