年の暮れも押しつまった頃になって、大阪の祖母殿が肛門がんという病気に罹っていることがわかって、急遽手術が行われることになった。12月の26日に入院、28日に執刀ということが慌ただしく決まり、伯父殿(父殿の兄君)ご一家は比較的近くに住まわれているものの乳児を抱えていることもあり、祖母殿やや不安に感じられているご様子。父殿はというと29日まで仕事の予定が入っていたため、27日から私と母殿で馳せ参じることとなった。新幹線でお昼過ぎに大阪入りし、早速大阪駅からほど近い済生会中津病院の病室の祖母殿を訪う。私たちの顔を見てややほっとされたよう。お家のカギを預かり、母殿と二人でその夜はお泊りし、翌28日朝から再び病棟に詰めて、手術の経過をひたすら、待つ。肛門を切除し、人口肛門を設けるまで、10時間以上に及ぶ大手術であり、ぜんそくなどの持病もある祖母殿にとって大変な時間だったろうが、執刀された豊田昌夫医師はこの種の手術に関して折り紙つきの名医であり、結果としては「素晴らしくうまくいった」手術となった。夜の10時を過ぎてようやく祖母殿手術室を出て麻酔から覚めるのを見届け、私たちも大いに疲れたが一安心して寝に戻る。
29日も朝から病室を見舞う。祖母殿は無論まだ水一滴口にすることはできず、点滴、痛み止め、導尿などのチューブがぶら下がり、お顔もややむくんで痛々しい。母殿が足をさすったりお洗濯をしたりして付き添われ、私は所在なくもゲームをしたりお昼寝したりしてどうにかおとなしく時を過ごした。父殿は夕刻までお仕事をされて、終わるや大急ぎでいったん帰宅し、猫のチャペルをお腹の前に吊るすソフトキャリアーに押し込んで東京駅へ、チャペルのためにはちゃんと普通手回り品切符(270円)なるものを買って、帰省ラッシュで指定席は満席だったが自由席ののぞみに飛び乗ってその日のうちに大阪着、夜11時過ぎには顔を合わせることができた。チャペルも長旅にも疲れた様子もなく、はじめて訪れる祖母殿の家で心地よさそうに手足を伸ばし、ニャー、と鳴いた。
30日は寝不足でお疲れ気味の母殿を残し私と父殿でお見舞い、伯父殿ご一家もやってこられて、いとこのはるかちゃん、りょうた君とも久しぶりに顔を合わす。1歳になったりょうた君、病室の中で色々なものに興味を示し、さかんに何やらおしゃべりしてみせ、父殿に抱っこされても人見知りもせず終始ご機嫌であった。伯母様から、「猫、どうしたの?」と訊かれ、「連れてきた!」というとびっくりしておられた。病室は7階の3人部屋だが、病棟自体も新しい上に、広々として内装もホテルのようにきれいで、大人数で押し掛けても狭苦しく感じることがない。窓からの眺めも実によろしい。入院患者向けの本当の温泉施設まであるそうで、祖母殿も入れるようになるのを楽しみにしておられた。至れり尽くせり、といった感のある病院である。
午後、お鮨を食べにいく。祖母殿の家のほど近くの天神橋筋商店街には、春駒寿司や寿司政など安くておいしいと評判のお店が多く、店の外までお客さんが並んでいたが、父殿のお勧めは「奴寿司」さんである。他界された祖父殿もお気に入りの店だったそうである。本店の方にいくともう店仕舞いかけで、ネタもあまり残っていないとのことで、近くの支店の方に行く。こちらも丁度お客さんが切れたところで、店内は私たちだけで貸し切り状態、大層愛想の良い板さんに勧められるまま、マグロ、カンパチ、シマアジ、ボタンエビなど、いつも行く回転寿司とは比べ物にならないおいしいネタを堪能。私も調子に乗って、「タマゴ、サビぬきで!」「サーモン、サビぬきで!」と威張って次々に自分で注文して、一人で10皿余りも食べた。十分過ぎるくらい満足したが、お勘定は決して高くない。
31日、早めの時間に3人そろって祖母殿を見舞う。お水が飲めるようになって点滴が取れて、その代わり水分をたっぷり取るのがいいとかで、ポカリスエットのペットボトルを大量に買って持ち込む。腹帯などの汚れものを洗濯室で洗う。乾燥室のハンガーにかけておけば数時間で乾くのですこぶる便利である。午後、JR環状線に乗って、新今宮というところで降り、ジャンジャン横丁なる商店街に赴く。本場の串カツを食べてみたいという母殿のご希望で、軒を並べる店を品定めしながら歩いてめぐる。カウンターだけの店構えの、大勢お客さんが並んで待っている店がおいしそうだったが、あんまり待つのも疲れるばかりなので比較的空いた、お座敷のあるお店に入った。注文すると、幾らも待たされることなく揚げたてが運ばれてくる。二度づけ禁止というソースにたっぷりひたして食べると、これが実においしい。山もりのキャベツは、いくらおかわりをしてもタダだそうで、シャキシャキしておいしいものだから、私はずいぶんと食べた。串カツだけでなく焼き鳥などもやっていて、こちらもまたおいしい。大阪の食べ物屋さんはどこも安くておいしく、また店員さんも気持ちが良くて、満足させてくれる。通天閣の下をくぐって、難波の方に歩き、買い物客でごった返す黒門市場をのぞいて、帰宅。
夜お蕎麦を食べて、紅白歌合戦を終わり近くまで見て、天満宮まで歩いて二年参りに出かける。父殿が大阪住まいだった頃(20年も前だ)はさほどの人ごみでもなく、門前で待って年が変わるのとともに打ち鳴らされる太鼓で開門すればすぐに参詣できたそうだが、今回行ってみるとそれどころではない。参道の遥か手前の商店街の中ほどから人がぎっしり居並んで、通行規制が行われているのか遅々として前に進めない。待っているうちに12時を過ぎてしまい、群集の間からおめでとう!の歓呼が盛んに上がるが、その後も列は容易に動かない。ついに1時を過ぎる。ようやく密集した列のまま境内に入る。遠くに本殿が見え、何やら神楽を舞っている姿が垣間見られるが、相変わらず人の群れの動きは遅くてお賽銭箱の前までもとても行きつけそうになく、やむなく遠くの方からさっと拝んで、早々に帰り道のほうに逃れ出た。こちらの方は容易に歩ける。妙なものである。こんな時間にも威勢よく売り声をあげる露店をのぞき、ピザなど買って食べる。帰りついたのは2時過ぎ。私としては過去最長の夜更かしである。
明けて元旦も祖母殿の病室に顔を出すと、ようやく顔のむくみもとれて、見るからに元気が戻ってきているようだったのでほっとする。お医者さんに言われるまま、一生懸命歩いているそうで、お年のわりには体力もあるようで、回復が早そうなのは何よりである。痛みもかなり減ってきているとのこと。病院を出て大阪駅のほうに歩いていると、Y叔母様(母殿の妹だから、正確には大叔母様)がお見舞いにやってきたのとばったり会う。私はお年玉をいただく。私たちのために、お節料理を詰めたお重をもってきて下さっていて、ありがたく頂戴する。ここの家のお節は前にもいただいたことがあるが、実にうまいのである。行き違いにならなくてよかった。私たちはそのまま、JRの大和路快速というものに乗って、奈良まで出かける。猿沢の池のほとりに腰かけ、いただいたお節のお重を開き、お弁当代わりにいただく。天気も上々で、すっかりピクニック気分である。興福寺の境内を歩く。ほうぼうにたたずむ鹿は、皆角を刈られていて、気性も和らいでいるのか実におだやかで、触ってもおとなしくしている。鹿せんべいを買っていただいてあげてみる。春日大社まで行こうと思ったが、疲れてもきたのと、昨晩の天満宮に負けず劣らず大変な行列に並ばないとお参りできそうもないので、割愛して帰る。近鉄線に乗って、鶴橋で乗り換えて帰った。電車の中でよく寝た。
2日は帰京の日である。伯父殿ご一家は1日2日を伯母様の故郷である名古屋方面で過ごされて、3日からは病院に寄れるということなので後を任せられる。荷造りをし、チャペルの散らかした後を掃除し、買い込んだまま傷みそうな食品は始末し、ゴミを出してしまって、チャペルを含めた大荷物を抱えて病院へ。祖母殿、何ともう導尿のチューブがとれたばかりか、重湯や副食物まで食べられるようになったそうで、とても術後間も無い姿に見えないくらいのたたずまいである。ねんごろにお別れし、大阪駅へ。早Uターンラッシュであり、指定は全く取れず、自由席券を買って新大阪のホームで並ぶことにする。幸い幾らも待つことなく、始発の「こだま」が来たのでこれに乗って帰ることにする。「こだま」であるので、そうそう混むこともなく、時間はかかるがゆったり乗ってこれて、チャペルはずっとソフトキャリアーの中でやや窮屈そうであったが、不平を言い立てて鳴くこともなく、7時近くに東京駅着。在来線、東武線を乗り継いで、我が家に帰った。さて明日からは、手をつけていない冬休みの宿題にしっかり取り組まねばならない。
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