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【#文春オンライン】「お金をあげるから事務所に来なさい」慰安婦支援団体がいかに日本政府の調査を妨害したか

2020-06-15 20:50:35 | コラム
(補足)
以前紹介した記事の続き。どっちみちこの日本人、今まで黙っていて(暴露すると自分が取り組んでいる慰安婦問題に不利になると判断して沈黙していた物と思われる)今更言い出した時点で信用度ゼロどころかマイナス振り切ってるわけですが
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元慰安婦支援30年の日本人が語る「第1号」金学順さん、証言がブレ続けた理由 から続く

 挺対協(現・「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」)の不実について告発した元慰安婦李容洙(イ・ヨンス)氏の記者会見によって韓国社会は大揺れに揺れている。

 はたして挺対協とはいかなる組織なのか。彼女らの実態をよく知る日本人がいる。

 その女性の名前は臼杵敬子氏という。ライターとして女性問題に関心を深く持っていた臼杵氏は、半生を韓国太平洋戦争犠牲者遺族会を支援するための活動に費やした。90年代から議論が始まった日韓歴史問題を、最も間近で見つめてきた日本人の一人であるともいえよう。

 本連載では臼杵氏から見た、なぜ慰安婦問題が歪んでしまったのか、その真実について回想してもらう。そして挺対協とはどのような組織だったのかを、当事者として批評してもらおうと考えている。(連載3回目/ #1 から続む)

挺対協は被害者や遺族を差別してきた
 挺対協が被害者や遺族を差別してきた、という場面を私も何度も見てきました。

 私と韓国太平洋戦争犠牲者遺族会が国会で座り込みのデモを行っていたときのことです。弁護士で活動家の戸塚悦朗氏と挺対協代表の尹美香(ユン・ミヒャン)氏が突然、視察に来ました。差し入れをするのでも、激励するのでもないのです。

 尹美香氏は「こんなことやって効果あるんですか?」とでも言いたげに、馬鹿にしたかのような笑みを浮かべていました。彼女の笑みに蔑んだものを感じたことを覚えています。

 話は少し過去に遡ります。韓国太平洋戦争犠牲者遺族会と私は運命的な巡りあわせで出会いました。

 1990年6月、韓国太平洋戦争犠牲者遺族会のメンバーが、問題を訴えるために釜山からソウルまでを徒歩で500キロの大行進を行いました。当時、ライターをしていた私は取材で駆け付けました。

 遺族の人々はこう叫んでいた。

「お父さん! 生きてるんですかー? 死んでいるんですかー? 」

 当時、私は日韓基本条約で問題は全て解決しているはずだと思っていました。しかし、戦後40年以上が経過しても、まだ生死すら確認できていない韓国人兵士や徴用者が多数いることを始めて知った。基本的な問題である生存確認すら出来ていないのかと驚きました。これで「全て解決した」といえるのかと疑問を持ちました。

「英語も話せないくせに、何で来た」
 遺族会共同代表(当時)の梁順任(ヤン・スニム)氏と出会ったことで、私は遺族会が起こした東京裁判を支援することになりました。私は弁護士選定から原告の聴取までをバックアップして手伝い、遺族会の様々な相談にも乗りました。

 そうこうしているなかで、1993年春、ジュネーブの国連人権会議で慰安婦問題を訴えるという話が出たのです。

 国連で問題を訴えるという手法は、挺対協に近い戸塚悦朗氏の発案だったようです。戸塚氏は92年にも国連人権委員会で慰安婦問題などを提起したことがあった。ジュネーブへは韓国政府の支援のもと、梁氏や挺対協のメンバーが行くことになっていました。私も「一緒にきてほしい」と梁氏に誘われましたが、日本国内で活動することに意味を見出していたので乗り気になれず、同行を断りました。

 ジュネーブでは慰安婦問題や遺族の問題が提起される予定でしたが、挺対協は梁氏を「英語も話せないくせに、何で来た」と蔑んでいたそうです。梁氏は、現地で開かれた食事会にも呼ばれず孤独な思いをしたと、後に聞きました。

日韓歴史問題を“乗っ取ろう”とした尹美香夫婦
 驚いたのはジュネーブに尹美香と金三錫(キム・サンソク)夫婦がいたと聞いたことです。夫婦はホテルで一緒の部屋に宿泊していたというのです。

 尹美香は挺対協の事務局長なのでわかります。夫がなぜいたのか聞くと、当時、彼は韓国太平洋戦争犠牲者遺族会の事務局長職に潜り込んでいたというのです。

 彼らは夫婦で日韓歴史問題を“乗っ取ろう”としていたのではないか、と私は思っています。

 尹美香氏は後に挺対協の代表となり慰安婦問題を利権化していったことは周知の通りです。一方で金三錫氏は事務局長職を得たものの、1万6千人もの会員がいて、かつ口うるさい老人老婆が多い遺族会を束ねきれず、三か月あまりで退任し逃げだすことになります。

 金三錫氏は民族解放派とか、セクトだとかいう噂が付きまとう人物で、遺族会事務局長を辞めた後の1993年、北朝鮮の工作資金を受け取ったとして、妹とともに軍事機密漏洩などの罪で起訴、服役しています。この兄妹スパイ疑惑は再審請求により、国家保安法違反は認定されましたが、その他は無罪となりました。とにかく尹美香氏夫婦の背景には後ろ暗い物がいつも見え隠れしていました。

日本政府による元慰安婦への聞き取り調査を拒否
 私は運動家ではありません。それでも銀座デモや国会座り込みを敢行したのは、まだ解決していない問題が残っていることを日本人にも訴えたかったからです。元慰安婦や軍人軍属遺族たちの悲しみや苦痛を解決できるのは、日本政府しかないのです。

 元慰安婦のハルモニ(おばあさん)も「言いたいこと言って、胸がスッキリした」とか「デモって楽しいね」と言ってくれた。一方で、活動資金には苦労しました。

 資金を作るためにキムチを売ろうとなりました。私の自宅の風呂場を使って、元慰安婦のハルモニ指導のもとキムチを作り、国会前で販売したこともあります。私は遺族会の人たちや元慰安婦のハルモニと交流を深めていくうちに、彼らの希望――“戦後処理”を正しく行うべきだという考えを一層強くしていきました。

 1993年7月、日本政府も慰安婦問題への取組を本格化させるようになりました。 在韓日本国大使館・参事官だった武藤正敏氏は、まず挺対協と交渉を始めました。挺対協は「日本政府は調査をしろ」等と訴えていたので、日本政府として元慰安婦の聞き取り調査を行いたいと打診したのです。

 しかし「日本は信用できない」と言って挺対協は調査を拒否した。このとき、なぜ拒否をしたのか私には未だに理解ができません。

「お金をあげるから事務所に来なさい」挺対協の妨害
 武藤氏はその後、遺族会に話を持ち掛けました。梁氏から相談された私は「当然、やるべきだ」と即答しました。

 調査は龍山(ヨンサン)にある遺族会の事務所で行われました。私も急遽、ソウル入りして遺族会の手伝いをすることになりました。

 龍山は軍の街で、当時は戦争の名残を色濃く残した街でした。駅前には軍人用の集合広場があり、事務所裏には赤線地帯が広がっていました。

 7月26日から30日までの5日間で調査は行われました。金学順さんや金田きみ子さんを始めとする16名の元慰安婦が参加しました。

 挺対協は「日本政府の真相調査を受けるな!」とピケを張り、反対デモを行っていました。調査が終盤に入ったある日、ハルモニから挺対協が更に悪質な妨害工作を行っていることを聞きました。

「ハルモニたちに挺対協から『お金をあげるから事務所に来なさい』と連絡があり集められた。『250万ウォンあげるから、日本政府の調査に協力しないと誓約書を書け』という話だった。でも、私は話を聞いて欲しいからここに来た」

 現在、李容洙氏の告発をきっかけに挺対協が元慰安婦を利用し金儲けをしていたという疑惑が浮上しています。疑惑への反論の一環で、挺対協が李容洙氏へお金を払っていると主張したことがありました。公開された古びた領収書のうちの一枚が93年のものでした。李容洙氏は調査に参加していません。まさに、当時口封じのために挺対協が配ったカネの領収書だと私はピンと来ました。

被害実態の調査なくして、補償の話は成立しない
 この調査を受けて、93年 8月、河野官房長官が「慰安婦関係調査結果発表に関する内閣官房長官談話」、いわゆる河野談話を発表しました。

 梁氏はこの調査に意義を感じ、日本政府側に「今後も調査を継続して行うよう」とお願いして、私も立ち会って日本政府側に調査継続の誓約書を書いて貰うことにしました。しかし、直後に日本で政権交代が起き、話は宙に浮いてしまう。残念なことにこの調査は、最初で最後の日本政府による慰安婦調査となってしまったのです――。

 私は基本的に被害実態の調査なくして、補償の話は成立しないと考えています。

 例えば交通事故はどうでしょう。被害を受けた本人の申告だけでは、保険から賠償はされませんよね。審査が入り被害実態が確認された上で、賠償額が決められます。戦後補償問題も実態調査をしたうえで補償することが望ましい。

 挺対協は「加害者が被害者を調査するとは何事か」と主張します。でも、その問題がウソか本当かも分からないのに、どう償えばいいというのでしょうか? 慰安婦問題の捻じれてしまった大きな要因は、挺対協が日本の実態調査を妨害し続けたことにあると私は考えています。

(#4 「『性奴隷』という言葉を“良し”とする元慰安婦はいない」支援30年の日本人が見た挺対協の仕打ち を読む)

(インタビュー・赤石晋一郎)

赤石晋一郎 1970年生まれ。南アフリカ・ヨハネスブルグ出身。「フライデー」記者を経て、06年から「週刊文春」記者。政治や事件、日韓関係、人物ルポなどの取材・執筆を行ってきた。本記事を最後に、19年1月よりジャーナリストとして独立

勝山泰佑(1944~2018)韓国遺族会や慰安婦の撮影に半生を費やす。記事内の写真の出典は『海渡る恨』(韓国・汎友社)。

「当事者は“良し”としていないのに『性奴隷』と……」慰安婦支援30年の日本人が見た挺対協の仕打ち へ続く

赤石 晋一郎


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