政治に汚染された司法で政治の顔色を伺う「技巧司法」続出
殷秀美(ウン・スミ)城南市長の職位維持を認めた大法院判決が論議を呼んでいる。大法院は殷市長の政治資金法違反を有罪としながらも、検事が控訴状を不実記載したとして、二審の当選無効刑(罰金300万ウォン=26万7000円)を破棄した。手続き上の問題の事件そのものの判決が覆されたまれな事例だ。大法院は「検事の控訴状に具体的な控訴事由を書くことを定めた刑事訴訟の原則を確認したものだ」とした。ところが、検察出身の弁護士によれば、控訴状は「量刑不当」という4文字だけで通るケースが少なくなかったという。殷市長の事件にだけ選択的に厳しい法律の物差しを適用したという疑念が生じる。大法院に勤務したことがある人も同様のことを言っている。事実とすれば重大な問題だ。
「技巧司法」という言葉がある。裁判の結論をあらかじめ定めておき、法律的な技術を使い、証拠を当てはめるという判事社会の隠語だ。無理に当てはめるものだから、判決には非常識的な論理が使われることもある。過去に民主労働党議員のいわゆる「空中浮揚」事件に無罪を言い渡した判事は国会事務総長室のテーブル上で活劇を演じた議員が「極度の興奮状態」だったため、犯罪の故意はなかったと指摘した。
最近の判決を見ていて、技巧司法が再び思い出された。常識では納得し難い内容があまりに多い。代表的事例が大学構内に大統領批判の壁新聞を張った青年に裁判所が有罪を言い渡したケースだ。裁判で警察が被害者として扱った大学職員は「被害を受けてはいない」「処罰を望まない」と証言した。青年には決定的に有利な証拠だった。ところが、この重要証言は判決文には登場しない。判事は「青年が未明に壁新聞を張ろうとして建物に入ることを事前に知っていたならば許可しなかったはずだと被害者が認定した」と記した。「被害は受けていない」という明確な証言は無視し、ありもしない状況を仮定した誘導尋問の内容を有罪の証拠にしたのだ。大韓民国の民主主義の時計を第5共和国時代(1981~88年)に逆戻りさせる「強引な有罪判決」はそうして下された。
次に「柳在洙(ユ・ジェス)釈放」判決だ。大統領を兄と呼んでいた柳在洙元釜山市副市長は公務員になってから知り合った業者4人に自ら持ちかけ、賄賂4200万ウォンを受け取った。ソウル・江南のマンションを購入すると言い、2億5000万ウォンを無利子で借り入れ、「相場が下がった」と言って一部を踏み倒した。減刑すべき理由はどこにもないのに、世にもまれな減刑論理が判決に登場した。「柳氏は(業者に)季節ごとに父親が栽培したトウモロコシ、ジャガイモなどを送った」--。一方的に受け取ったのではなく、与えたこともあるという意味だ。公職者と業者の不適切な癒着が「親交」ということにされてしまった。これからは収賄公職者が農作物を送ることが流行するかもしれない。裁判では「親交があって受け取った」と主張するはずだ。そのたびに執行猶予で釈放するというのか。
高位公職者犯罪捜査処(高捜処)法の処理過程での常任委員の強制的な交代を「合法」と判断した憲法裁判所の決定は「技巧司法」の極致と言える。大統領が任命した裁判官は国会法が「臨時会の会期中には(当事者の意思に反し)辞任・補任することはできない」と明確に定めているにもかかわらず、「委員が選任された会期と同じ会期のみ交代できないという意味と解釈すべきだ」という論理を押し通した。法解釈ではなく、新しく法律をつくるようなものだった。よほどでなければ反対意見の裁判官が「国語学者に聞いてみよう」などと言わなかっただろう。
法曹界ではこうした状況を指して、「曲判阿文」という新語が生まれたという。判事が判決を曲げ、大統領に阿(おもね)るという意味だ。法律を出世手段や政治の道具と考える人々が法服を来て判事のまねごとをしている。ともすると、法律をねじ曲げてもてあそぶ。
李明振(イ・ミョンジン)論説委員
殷秀美(ウン・スミ)城南市長の職位維持を認めた大法院判決が論議を呼んでいる。大法院は殷市長の政治資金法違反を有罪としながらも、検事が控訴状を不実記載したとして、二審の当選無効刑(罰金300万ウォン=26万7000円)を破棄した。手続き上の問題の事件そのものの判決が覆されたまれな事例だ。大法院は「検事の控訴状に具体的な控訴事由を書くことを定めた刑事訴訟の原則を確認したものだ」とした。ところが、検察出身の弁護士によれば、控訴状は「量刑不当」という4文字だけで通るケースが少なくなかったという。殷市長の事件にだけ選択的に厳しい法律の物差しを適用したという疑念が生じる。大法院に勤務したことがある人も同様のことを言っている。事実とすれば重大な問題だ。
「技巧司法」という言葉がある。裁判の結論をあらかじめ定めておき、法律的な技術を使い、証拠を当てはめるという判事社会の隠語だ。無理に当てはめるものだから、判決には非常識的な論理が使われることもある。過去に民主労働党議員のいわゆる「空中浮揚」事件に無罪を言い渡した判事は国会事務総長室のテーブル上で活劇を演じた議員が「極度の興奮状態」だったため、犯罪の故意はなかったと指摘した。
最近の判決を見ていて、技巧司法が再び思い出された。常識では納得し難い内容があまりに多い。代表的事例が大学構内に大統領批判の壁新聞を張った青年に裁判所が有罪を言い渡したケースだ。裁判で警察が被害者として扱った大学職員は「被害を受けてはいない」「処罰を望まない」と証言した。青年には決定的に有利な証拠だった。ところが、この重要証言は判決文には登場しない。判事は「青年が未明に壁新聞を張ろうとして建物に入ることを事前に知っていたならば許可しなかったはずだと被害者が認定した」と記した。「被害は受けていない」という明確な証言は無視し、ありもしない状況を仮定した誘導尋問の内容を有罪の証拠にしたのだ。大韓民国の民主主義の時計を第5共和国時代(1981~88年)に逆戻りさせる「強引な有罪判決」はそうして下された。
次に「柳在洙(ユ・ジェス)釈放」判決だ。大統領を兄と呼んでいた柳在洙元釜山市副市長は公務員になってから知り合った業者4人に自ら持ちかけ、賄賂4200万ウォンを受け取った。ソウル・江南のマンションを購入すると言い、2億5000万ウォンを無利子で借り入れ、「相場が下がった」と言って一部を踏み倒した。減刑すべき理由はどこにもないのに、世にもまれな減刑論理が判決に登場した。「柳氏は(業者に)季節ごとに父親が栽培したトウモロコシ、ジャガイモなどを送った」--。一方的に受け取ったのではなく、与えたこともあるという意味だ。公職者と業者の不適切な癒着が「親交」ということにされてしまった。これからは収賄公職者が農作物を送ることが流行するかもしれない。裁判では「親交があって受け取った」と主張するはずだ。そのたびに執行猶予で釈放するというのか。
高位公職者犯罪捜査処(高捜処)法の処理過程での常任委員の強制的な交代を「合法」と判断した憲法裁判所の決定は「技巧司法」の極致と言える。大統領が任命した裁判官は国会法が「臨時会の会期中には(当事者の意思に反し)辞任・補任することはできない」と明確に定めているにもかかわらず、「委員が選任された会期と同じ会期のみ交代できないという意味と解釈すべきだ」という論理を押し通した。法解釈ではなく、新しく法律をつくるようなものだった。よほどでなければ反対意見の裁判官が「国語学者に聞いてみよう」などと言わなかっただろう。
法曹界ではこうした状況を指して、「曲判阿文」という新語が生まれたという。判事が判決を曲げ、大統領に阿(おもね)るという意味だ。法律を出世手段や政治の道具と考える人々が法服を来て判事のまねごとをしている。ともすると、法律をねじ曲げてもてあそぶ。
李明振(イ・ミョンジン)論説委員
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