こんにちわ
ひとすです
現在ロンドンに留学に来ています。
英語教育法TESOL Pre-service MA (教員経験なしの学生向け)のコースに登録しています。
10月から授業が始まり、現在冬休みで、1月からまた授業再開します。来年9月に修士論文を提出し、卒業します。その後はどうなるのか!!??いったいどうなるのか!!??なにかとんでもないことをやりたいと思っています。無計画すぎる。学校を建てる、教育団体を立てる?(脳内の)安定保守派は、日本に帰って就職、教員として就職などを推進しています。
ここまでの感想は
◎授業
双方向的でおもしろい。ディスカッションなどがたくさんあります。意見を求められます。クラスは15人で男は自分を含めて二人で、あとはみな女性です。教育は女性主導の業界なのかな?
◎興味がでてきたこと:言語と態度の関係について興味が出てきました。たとえば、日本語を話す日本語母語話者にとって、英語圏に行き、英語という言語を話すということは、ただ単に英語を話すということだけではなく、母語の影響、母語の文化の影響を受けながら、外国語として英語を話すことになると思います。たとえば、ある国で、なにか褒められたら、それに対して、「いえいえ、そんなことないです」と返すこともあれば、また別の文化圏では「ありがとう」と返すこともある。なんでと言われても説明がつかない。そうだから、そうなの、という感じもあります。
◎社会言語能力、暗示的知識と明示的知識
英語を話すということは、ただ文法と単語が入っていればいいというものではない。単語や文法は非常に大切ですが、それに加えて、そうした知識(学校で教わる知識、意識的に学習する明示的知識)をどう使うのか、具体的に生活のなかでどんなふうにつかえばいいのかという知識(生活の中で自然に無意識的に身に着ける、暗示的知識)が必須であるといわれています。社会言語能力は社会的に、なにが受け入れられるのか、なにが普通なのかについての能力、感覚のようなものです。ある国で、先生に対して、尊敬の尊称を付けて接すること、敬語を使うことが求められるとして、外国人にとってそのような目に見えない法則、習慣は、わからない、気付かない、ことが多い。
◎英語教育
国によって、英語教育のあり方が異なることもおもしろいです。
自分は①日本で英語の授業を受けていたときは、文法中心の読解中心の訳読授業でした。先生主導型です。会話能力が身に着かないという批判もある一方で、与えられたテキストに対して、懸命に、精密に、読み込もうとするので、深い文章理解力が身に付きやすいと、思われます。ただ、現状は、退屈に思われがちで、英語嫌いを増やす要因になっているとも言えます。
②フィリピンでほんとに短期間で、語る資格はないかもしれないですが(この点は指摘を受けました。悔しかったですがその通りと思います。これからの人生で教える経験を積んでいきます)、一か月英語を教えたことを振り返ると、いわゆる貧困地域において、英語は自尊心を育むツールとして用いられていました。何かトピックを決めて、生徒にクラスの前で短いスピーチをしてもらう。生徒は懸命に話し、クラスも熱心に聴き、反応する。愛がテーマのディスカッションでは、論争を含みながらも、キリスト教の愛について意見をやりとりしながら、理解を深めていく。今まで自分が夢にも思わなかった形の英語教育の姿で、こうした教育に携わりたいと強く思いました。
③ケンブリッジの語学学校、ロンドンのIOEにおいて、先生はもちろん情報を伝えるのですが、それを知識、血肉化するのはこちら学生側の仕事でした。そのためにプレリーディングがあり、ディスカッションがあったと思います。自分の思考、経験を参照しながら、内容に踏み込んでいく感じです。学んでいるという実感があります。自分がなにかを表明しないと、向こうからも反応が返ってこない。
◎日本で英語に対するモチベーション
日本国民大多数において、英語に対するモチベーションが上がらない要因として、日本では日本語で高等教育が完結し、就職もできて、一生を終えることもできます。ほかの言語、特に英語の力、を借りないで、人生が完結するというのは実は世界でも珍しいことなのかな、という実感があります。英語をやる必要がないから、学ぶ気が起きない。全く自然と思われます。2014年現在、いくつかの大きな会社で英語力の必要性を訴えている組織もあるということですが、日本人全体にとって、英語を学ぶ絶対的動機にはなっていないと感じます。
前提として、英語を学ぶとはどういうことなのか?どのくらい英語ができたら、よいのか?なにを持って英語ができるというのか?会話重視なのか?海外企業とEメールのやりとりができればよいのか?(ライティング重視)必要の度合い、英語の種類は、各人によってさまざまであると思います。それとも普遍的にこの程度まで必修という、ラインを設けるべきなのでしょうか。グローバル化が叫ばれていますが、言葉が抽象的で、どの程度、どんな英語を身に着けるべきかが、目標が不明瞭です。言語と思考は密接です。英語がペラペラでなくても、自分の文化歴史をしっかり説得力をもって語れる人物が、世界において認められるのではないでしょうか。
読んでくださりありがとうございます。
ひとすです
現在ロンドンに留学に来ています。
英語教育法TESOL Pre-service MA (教員経験なしの学生向け)のコースに登録しています。
10月から授業が始まり、現在冬休みで、1月からまた授業再開します。来年9月に修士論文を提出し、卒業します。その後はどうなるのか!!??いったいどうなるのか!!??なにかとんでもないことをやりたいと思っています。無計画すぎる。学校を建てる、教育団体を立てる?(脳内の)安定保守派は、日本に帰って就職、教員として就職などを推進しています。
ここまでの感想は
◎授業
双方向的でおもしろい。ディスカッションなどがたくさんあります。意見を求められます。クラスは15人で男は自分を含めて二人で、あとはみな女性です。教育は女性主導の業界なのかな?
◎興味がでてきたこと:言語と態度の関係について興味が出てきました。たとえば、日本語を話す日本語母語話者にとって、英語圏に行き、英語という言語を話すということは、ただ単に英語を話すということだけではなく、母語の影響、母語の文化の影響を受けながら、外国語として英語を話すことになると思います。たとえば、ある国で、なにか褒められたら、それに対して、「いえいえ、そんなことないです」と返すこともあれば、また別の文化圏では「ありがとう」と返すこともある。なんでと言われても説明がつかない。そうだから、そうなの、という感じもあります。
◎社会言語能力、暗示的知識と明示的知識
英語を話すということは、ただ文法と単語が入っていればいいというものではない。単語や文法は非常に大切ですが、それに加えて、そうした知識(学校で教わる知識、意識的に学習する明示的知識)をどう使うのか、具体的に生活のなかでどんなふうにつかえばいいのかという知識(生活の中で自然に無意識的に身に着ける、暗示的知識)が必須であるといわれています。社会言語能力は社会的に、なにが受け入れられるのか、なにが普通なのかについての能力、感覚のようなものです。ある国で、先生に対して、尊敬の尊称を付けて接すること、敬語を使うことが求められるとして、外国人にとってそのような目に見えない法則、習慣は、わからない、気付かない、ことが多い。
◎英語教育
国によって、英語教育のあり方が異なることもおもしろいです。
自分は①日本で英語の授業を受けていたときは、文法中心の読解中心の訳読授業でした。先生主導型です。会話能力が身に着かないという批判もある一方で、与えられたテキストに対して、懸命に、精密に、読み込もうとするので、深い文章理解力が身に付きやすいと、思われます。ただ、現状は、退屈に思われがちで、英語嫌いを増やす要因になっているとも言えます。
②フィリピンでほんとに短期間で、語る資格はないかもしれないですが(この点は指摘を受けました。悔しかったですがその通りと思います。これからの人生で教える経験を積んでいきます)、一か月英語を教えたことを振り返ると、いわゆる貧困地域において、英語は自尊心を育むツールとして用いられていました。何かトピックを決めて、生徒にクラスの前で短いスピーチをしてもらう。生徒は懸命に話し、クラスも熱心に聴き、反応する。愛がテーマのディスカッションでは、論争を含みながらも、キリスト教の愛について意見をやりとりしながら、理解を深めていく。今まで自分が夢にも思わなかった形の英語教育の姿で、こうした教育に携わりたいと強く思いました。
③ケンブリッジの語学学校、ロンドンのIOEにおいて、先生はもちろん情報を伝えるのですが、それを知識、血肉化するのはこちら学生側の仕事でした。そのためにプレリーディングがあり、ディスカッションがあったと思います。自分の思考、経験を参照しながら、内容に踏み込んでいく感じです。学んでいるという実感があります。自分がなにかを表明しないと、向こうからも反応が返ってこない。
◎日本で英語に対するモチベーション
日本国民大多数において、英語に対するモチベーションが上がらない要因として、日本では日本語で高等教育が完結し、就職もできて、一生を終えることもできます。ほかの言語、特に英語の力、を借りないで、人生が完結するというのは実は世界でも珍しいことなのかな、という実感があります。英語をやる必要がないから、学ぶ気が起きない。全く自然と思われます。2014年現在、いくつかの大きな会社で英語力の必要性を訴えている組織もあるということですが、日本人全体にとって、英語を学ぶ絶対的動機にはなっていないと感じます。
前提として、英語を学ぶとはどういうことなのか?どのくらい英語ができたら、よいのか?なにを持って英語ができるというのか?会話重視なのか?海外企業とEメールのやりとりができればよいのか?(ライティング重視)必要の度合い、英語の種類は、各人によってさまざまであると思います。それとも普遍的にこの程度まで必修という、ラインを設けるべきなのでしょうか。グローバル化が叫ばれていますが、言葉が抽象的で、どの程度、どんな英語を身に着けるべきかが、目標が不明瞭です。言語と思考は密接です。英語がペラペラでなくても、自分の文化歴史をしっかり説得力をもって語れる人物が、世界において認められるのではないでしょうか。
読んでくださりありがとうございます。
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