◎ <書道展の感想は?=選択投票>
★書道関連<WEB検索>……下記クリックして参照のこと。
・上田桑鳩関係画像集(Yahoo検索) ・田宮文平の書評論<歴史の中の「書」> ~~・上田桑鳩『愛』
・「知られざる比田井天来」(天来書院ブログ) ・ ・
※書(書道)について日頃思っていることを、まとまりなく記述してゆきます。
◆【009】<書道に関する第2の質問~選択投票>
◎前衛書道についての疑問
私/管理人の「書道」に対する思い・追求は中々結論がでません。特に最近注目を浴びている?パフォーマンス的(前衛)書道や、色彩を使った非文字的作品は「書道芸術」と呼べるのだろうかという点です。
◎前衛書道の狙いは
戦後の1940年代から上田桑鳩師を筆頭にして発生した前衛書道ですが、上田桑鳩師の狙いと相当かけ離れた方向に進んでいるような気もします。上田桑鳩師の弟子の一人であった岡山の前衛書道家河田一臼(私/管理人の師)は「書道」を「道=生活」として捉えていたと思います。前衛~後衛など無関係であり良いものは良いということだと思います。要は「書道」の深奥は何かではないでしょうか。
◎第2の質問
そこで私の曖昧な論拠を進める参考にするため、別途の通り書道に関する第2の質問を皆様にしてみたいと思います。ご気楽に選択回答・コメントを頂ければ幸いです。
※<書道展の感想は?=選択投票>
◆【008】<書道は芸術なのか?>(選択投票結果)についての考察
◎回答結果は次の通り「思わない」<5件>コメントは次の通り。
=日本伝統の「道」なので、西洋的な意味でのアートとはニュアンスが違うからでは? (男性/40代/長野) =
=芸術性が低い事は無いのでは? (男性/50代/東京)=
=書はアートですね (男性)=
=書道は芸術です (男性/50代/神奈川)=
=文字という直接的なアートだと思ってます。ロックです。 (男性/30代/山梨)
=「どちらとも言えない」<2件>コメントは次の通り。
=アートより奥が深い。道。 (男性/30代/愛媛)=
=小中学校では毛筆を使った「書き方」の指導しかしていないところに、芸術より低く見られる原因が (男性/40代/東京)=「そう思う」<1件>コメントは次の通り。
=剣道はスポーツではなく武道だと思う。書道も表現ではなく窮めてゆくものな気がする (女性/20代/東京) =
◇以上の如き回答結果について、質問の意図が今一つ曖昧なこともあり、夫々のコメントニュアンスに納得できると思いました。
◇特に回答者皆様が若い世代の方々であり、質問提起した私/管理人が最年長(68才)であることに驚いた次第です。
◇私/管理人の「書道」に対する思いは、「東洋的な芸術であり、いわゆる西洋的アートといわれるものよりも哲学的要素を含むもの」ではなかろうかと思うのですが、結論はでません。
このような意味合いからは、「書道」は「表現(作品芸術)」ではなく「窮めてゆくもの(道=生活)」であろうという点であり、回答内容と共通するところがあります。
◆【007】古典の「書」から何を吸収し学び取るか
◎古典の筆跡の素晴しさ
法帖などで示される古典の筆跡は一部特権階級の書表現文化とはいえ、運筆に優れているばかりか新規性においても後世の人の心を響かせるものがあります。文字伝達の手段を超えた運筆表現文化の粋(最高峰)とも賞賛できるものです。
◎間合い(筆脈=呼応=息吹き)
これらの優れた運筆表現文化から我々が学び取るものは、文字の<美しさ=間架結構=バランス>は勿論ですが、<線質の物理的解明および、眼に見えない間合い(筆脈=呼応)の読み取り>だと思います。 「間合い」というのは抽象的な記述ですが、いわゆる「息吹き」とも表現される思想的なものであり、これこそ芸術家の命となるものでしょう。従って表現する人によって異なる個性ともなります。これこそ「書(道)」が東洋的芸術となりうるポイントであり、西洋には見られない、簡素深遠なる墨液による毛筆芸術分野なのだと思うのです。
◎「習字」教育の見直し
素晴しい芸術要素を含む「書(道)」だからこそ、最も感覚鋭敏な小学生の子供に対して「習字」という形での「文字の習い事」のような教育をすることは、特に近代文明躍進の現代にあっては百害有って一理なしと思うのですが如何でしょうか。用具である筆の物理的解明・説明なしに文字の概念的実践のみに重点を置くのでは、昔の寺子屋教育以下であるといっても過言ではありません。東洋の簡素深遠なる芸術書道の扉を開いているのだという気持を子供たちに持たせるべきだと思うのです。
◆【006】古典の「書(道)」の継承について
◎「書」は特権階級の文化
漢字文字の発祥源である中国は勿論ですが日本においても、昔における「書(書道)」は一部特権階級の文化であったと思います。 文字による文面の伝達が主目的ですから、芸術性など眼中になかった筈です。しかるに、墨液を使った筆による運筆表現手段となったため、運筆(筆使い)技術に優れた書記官(書家)が注目されたのです。王羲士、顔真卿、褚遂良~などなど、日本でも嵯峨天皇、橘逸勢、藤原行政、などなどですが、殆ど皆一部特権階級の人達でありました。 彼等の筆跡は石碑ほかの形で残り、拓本・法帖として後世の我々に伝えられています。
◎古典の筆跡伝承
優れた古典筆跡表現者達は芸術的価値のあるものを残そうとしたのではなく、自己の運筆を優れたものにして秀でた文字表現・筆跡となることを願っていたでしょう。 これらの素晴しい運筆表現は、明朝体・ゴシック体などとして<美しさ=間架結構=バランス>に優れる活字の形で現在に採用されています。
◎現代人の「書(道)」文化の継承
我々現代人が古典の筆跡を手本として文字の上達に努力することは個人にとって大切ですが、芸術として「書」を発展させるには、用筆である「筆」の性状についての考察・研究が疎かになっているのでないでしょうか。 「筆」についての認識を深め発展実践してゆくことが、古来の一部特権階級の文字伝達文化であった「書(道)」を、東洋の芸術的文化価値のあるものに育成できると思います。
◆【005】 「書」と「書道」の相違点
◎「書」とは<書く>こと
「書」といえば「文字を書く」意味が大義だと思います。文字を書く目的は色々あるでしょう。単なるメモ的な用途から、正式な文書の記録・報告など様々あるでしょう。 基本的には<文字>を<書く>ことだと思います。日本において戦後(1945年以降)に発生した半文字的または非文字性前衛書道なるものが「書」と呼べるのか否かは別途考えてみたいと思います。
◎「~道」
ここでは「書道」について考えましょう。この「道」なるものがなかなかやっかいなもののようです。東洋的/哲学的なものを含んでいるようであり、生活に密着した道徳観とも結びついているみたいです。 日本にはかなり昔より「書道」以外にも、「華道」「茶道」「剣道」「柔道」「合気道」などなどの「道」がつくものが多々あります。 これらに共通しているものに、礼儀=道徳=モラルがあります。上達が目標ではあるが、前提として人間性の向上があり、場合によっては上達よりもむしろ人間としての高次元化のほうが大事だと説く指導者もいます。
◎芸術「書道」
筆による運筆表現が生活の中で殆ど見られなくなった現代に、文字の上達を目的とした「習字」または「書」をするよりは、墨液を含んだ毛筆の特性を理解して、東洋芸術の優れた遺産である「書」=「書道」の価値を発展させることこそ我々の課題であると思います。
◆【004】 「習字」教育における、固定概念植え付けの弊害
◎小学校教育の「習字」
小学校教育に取り入れられている「習字」は墨を磨って筆で書くという東洋的文化である「書(書道)」を次の世代に伝えるという意味において素晴しいことだと思います。 しかし、「習字」という教育科目において美しいバランスのとれた文字の運筆を頭から教えさせるというのは如何なものかと思います。
◎筆の運び=美しい調和のある運筆
筆を持って墨をつけて線を引いたりする時、入筆角度は右利きの人なら誰でも同じようなことになります。これは料理をする時の包丁を構える角度とほぼ同じです。 つまりこれが自然体なのです。この自然体であるということが重要であり、美的感覚にも通じるのです。でも、美的感覚となれば種々様々であり個人差もあります。一概に美しい調和のあるバランスのとれた線の引き方、例えば<うったて><おさえ>などを教えてはいけません。 文字を書く「習字」というものに対して一定の形を教えるのは、固定概念を植え付けるばかりか、引いては筆(墨)に対する「書道」文化への美意識が狭くなってしまいます。
◎調和のある美しくなる線質を考え、実践させる
美しい文字を教えるのではなくて、<どうして調和のある美しい文字になるのか>ということを考えさせるのが大切なのです。 「美しい文字を書いて、あの人は文字が上手い」と言われることは確かに嬉しいことではありますが、筆・墨による「書道」を生活に取り入れるには筆の性状を認識して、ただ単に上手い字を書くだけでなく、自分なりの芸術的美的要素を備えた<文字~筆表現>を可能にすることこそ大切であり、楽しいことなのです。
◆【003】 東洋的芸術の粋・「書(書道)」
◎人生(Life)=(Art)芸術・・・習字的な書道は芸術とはいえない?
「芸術(アート)は人生のようだ」とも又逆に「人生はアート(芸術)だ」とも言われます。 私なりの解釈では一瞬先が見えない(わからない)ことの共通点に加えて、夫々個人が自己の人生の開拓者であることが芸術(アート)の世界との類似共通点だと思います。 このことからすれば、単なる習い事としてする~文字をバランスよく表現する=習字はアート(芸術)とは呼べないのではないでしょうか? ということは、文字の上達を目的とした書道も芸術とは無縁のようです。
◎「習字」とは~
特に現代のように「筆」が文字表現の日常生活に殆ど取り入れられなくなっていることを考えれば、バランスのとれた美しい字を習うのは「筆」よりもむしろ、鉛筆/ボールペンなどの筆記用具を使って習うべきではないでしょうか。 にもかかわらず小学校の必須教科として筆を用いた「習字」が取り入れられています。これは古来からの伝統文化である書(書道)を捨てるべきではない、特に心の安らぎ、精神修養になる「書」を守り続けるべきだという思想だと思います。このことには、私を含めて大部分の方々も賛成ではないでしょうか。 筆を使って文字を上達するという考えには、何故か判然としないものがあります。墨を磨ったり筆運びをすることが精神の安定修養になることは否定できません。バランスのとれた文字が美しいのは、新聞活字を見ても一目瞭然です。文字表現文化の書(習字)の原点にかえれば当然なことです。
◎「筆」の重要性
<墨と筆>こそが(西洋に対して)東洋世界が生み出した素晴しい表現用具なのです。基本的には白黒の簡素深遠なる<東洋芸術表現世界>なのです。 このような素晴しい東洋の芸術(アート)世界を育んで行くことこそ大切なのです。このためにも、文字の上達を目的とせずに、筆の特性を次の世代に伝えて東洋芸術の粋たる「書(道)」の真実の魅力を後世に受け継いでゆくのが大事と考えます。 「筆」という東洋に生まれた、素晴しい筆記用具の特性を充分に把握し、子ども達にも教え伝えてゆくことこそが大切だと思うのです。
◆【002】 「筆」による千変万化の立証
◎毛筆本数の調査実験
・ 代表的な大中小~筆の先端毛筆部分をカッターで切断して、毛の本数をある程度正確に数え調査したことがあります。その時の調査状況を写真画像に撮っていたのですが、保存場所不明になってしまいました。
・ もう一度切断、撮影すればいいのですが、多大な労力を要したうえ、適当な廃棄筆もないので、当時の毛筆本数調査結果を参考に考察を進めます。・ 手元にある筆と推定本数の結果を次図に示します。かな用の小筆、面相筆などは除外されています。
・ 結果を見て、最も驚いたのは筆の根元直径10mm以上の通常の中筆であれば、毛筆本数が約1万以上であるということです。
◎毛筆による千変万化
・ 前項の筆を墨液に浸した状態を想像しただけで、各1万本の毛筆に付着した墨液の潤滑さの違い(長短、濃淡)だけでも1万本の1万倍~いや何兆倍になるといえるでしょう。
・ 次に、このような筆を使って「一」の字(線)を書いた(引いた)場合を想像します。普通に書いたり(引いたり)しただけで、それは千変万化なのです。
・ いや~同じような線質だからもっと違いのわかるものを書きなさいと言われれば、「あそうですか、貴方は顕微鏡のような眼を持っていないのですね」と言って「一」の字(線)の中で、筆の角度や筆圧、速さ、などを縦横無尽に変えて見せてあげることです。
・ これらのことは当たり前のことなのですが、固定化された習字(書道)教育を受けた私を含む人間にとっては何故か難しいことなのです。
・ そしてこのことが、東洋芸術の優れた遺産である「書道」をもぬけの殻にしていると思うのですが~。
◆【001】 書道芸術に対する管理人(ふざん)の見解
◎書表現は「筆」を用いて千変万化の線質表現が可能であり、運筆の技術的レベル向上を切磋琢磨できると同時に、内面的精神性の高次元化を向上させることもできるといえます。
◎中国に発生した<漢字文字>を素材として「書(道)」が発祥したわけであるが、西洋の文字が主にデザイン追求素材であるのに対して、東洋(中国)の「書道」はどこが違うのか?
◎応えはただ一つ。「筆」を用いたからである。この用筆によって、千変万化の運筆表現が可能となったのである。更に、用筆者の運筆による技術的レベルの向上が見て取れるばかりか、精神性までが表現できるからである。
◎<漢字文字>を素材にしているため、文字の間架結構(バランス)が見た目の美意識と通じており、運筆での技術的レベル向上の重大要素となっている。
◎しかしこれらのみを追求してゆけば「上手下手」の基準ばかりが先行して、技術的レベルの高い人=達人を優先する<習字>の世界になってしまうのである。
◎では精神性の高次元化を向上させる書表現とは如何なるものなのか。
◎ 「上手下手」の基準世界を越えた、楽しく万人が運筆表現できる世界があるはずです。「筆」を用いて表現すれば、こんなに自由でおもしろいのかと思える世界です。
◎そのためには運筆の技術的レベル向上が必要だと感じる個人は、必要にかられて自己努力するでしょう。でも運筆の技術的レベルがそれ程高くなくても満足できる表現世界もあるのです。個々の狙いは千差万別なのですから。
● 岡山における<前衛書道>の流れ~
・上田桑鳩師に師事された関係上、<河田一臼は岡山の前衛書道家>として一般には評価されています。
・しかし、河田一臼先生の求める『書道』精神芸術は、前衛・後衛とかは関係なく、平凡にして深遠なるものが最高であるとの思いであったようです。
・何となく一般の前衛書道家とは異なり、書道芸術を求めた人というよりも禅僧の如き求道者という面が強いのではないでしょうか。
・それはさておき、岡山における<前衛書道家>の系譜?と思われるものを次に示します。
上田桑鳩・・・・・「奎星会」創設
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河田一臼・・・「玉龍会」創設 ~~
| ~ 鍋谷紅洋、笹野舟橋、安藤峮光、平井大鳳、
| 森田大道、伏見丹人、玉村海廬、他数名
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曽我英丘(現:玉龍会/会長) ~~ 山口自静
《河田一臼門下生(アマチュア)》~~(雅号所持者のみを下記に列挙する)
吉鷹松香、虫明貞山、大崎雅峰、山崎徹道、
江田五月、福原稟舟、植野紫光、奥田柳香、
久松照山、板野甲州、岩崎無碍、吉田布山 // 他~