守護所のある府中(直江津地区)からは約4㎞の距離にあり、関東・北陸・信濃への交通を監視する要衝に位置し、城は守護代の長尾氏が代々守っていた。
現在のように規模が拡大され、名実ともに天下の名城と呼ばれるようになったのは謙信の普請によるものである。
城は天正7年(1579)景勝に引継がれ慶長3年(1598)堀秀治の入城によって越後上杉氏の時代が終り、さらに慶長12年(1607)堀氏が福島城を築いて移ると、春日山城は城としての役目を終る。
春日山は、山頚城平野の西北に位置する標高182m、比高169mの別名鉢ヶ峰山上と山麓にあった。
戦国時代に八つの要害な山城と称せられた七尾城、一乗谷城、稲葉山城、観音寺山城、小谷城、吉田郡山城、富田月山城とともに春日山城は堅城としての名が高い。
春日山城の特徴は、山頂の本丸跡から山裾まで連続する屋敷跡群と、裾野に巡らされた総延長1,200mの総構え(通称監物堀)である。
城郭は、山頂に本丸があり楼閣を設け、眺望に富み、付近の属城を充分に監視することができた。
本丸跡の後方西に一段低い所に大井戸があって夏でも水の枯れることがない井戸郭、山里郭があり、その北の峰に毘沙門丸及び御花畑があった。
また西方には、鐘撞堂や景勝屋敷跡等があって、南方に柿崎郭、三の丸、東に二の丸などの郭があり、重臣たちの屋形が構えられた。
山麓にも館や政庁があったが謙信のころの城郭の主体は山上であった。
上杉景勝のころになると、山上の生活が不便なため、いろいろな建物が山麓に造られ、城下町が形成されていった。
しかし、近世大名の居城としては不便なことが多かったので、堀忠俊が城主のとき、平地の海辺に福島城を新しく構築して移ったのである。
春日山城が廃城になった時期は、慶長12年(1607)だったが、山が高いため郭跡の形状は割り合いに残り、戦国期山城の構想を良く伝えている。
天徳2(958)年に春日山山頂に創建、越後守護代上杉氏の氏神として栄える。奈良春日大社の分霊を祀り、春日山城の名前の由来ともなった。春日山城築城の際に、城の鬼門となる現在の位置に遷座させられたといわれる。天を突くように伸びる杉木立の参道と、急勾配の石段が印象的な名跡。境内に立つ春日灯篭は江戸時代の作といわれる。
春日社は、鹿島・香取・枚岡・比女神の藤原家と関係の深い神を祀る。ここの春日神社も、この四神が主祭神で、相殿に厳島・諏訪・天神社が祀られている。
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現在のように規模が拡大され、名実ともに天下の名城と呼ばれるようになったのは謙信の普請によるものである。
城は天正7年(1579)景勝に引継がれ慶長3年(1598)堀秀治の入城によって越後上杉氏の時代が終り、さらに慶長12年(1607)堀氏が福島城を築いて移ると、春日山城は城としての役目を終る。
春日山は、山頚城平野の西北に位置する標高182m、比高169mの別名鉢ヶ峰山上と山麓にあった。
戦国時代に八つの要害な山城と称せられた七尾城、一乗谷城、稲葉山城、観音寺山城、小谷城、吉田郡山城、富田月山城とともに春日山城は堅城としての名が高い。
春日山城の特徴は、山頂の本丸跡から山裾まで連続する屋敷跡群と、裾野に巡らされた総延長1,200mの総構え(通称監物堀)である。
城郭は、山頂に本丸があり楼閣を設け、眺望に富み、付近の属城を充分に監視することができた。
本丸跡の後方西に一段低い所に大井戸があって夏でも水の枯れることがない井戸郭、山里郭があり、その北の峰に毘沙門丸及び御花畑があった。
また西方には、鐘撞堂や景勝屋敷跡等があって、南方に柿崎郭、三の丸、東に二の丸などの郭があり、重臣たちの屋形が構えられた。
山麓にも館や政庁があったが謙信のころの城郭の主体は山上であった。
上杉景勝のころになると、山上の生活が不便なため、いろいろな建物が山麓に造られ、城下町が形成されていった。
しかし、近世大名の居城としては不便なことが多かったので、堀忠俊が城主のとき、平地の海辺に福島城を新しく構築して移ったのである。
春日山城が廃城になった時期は、慶長12年(1607)だったが、山が高いため郭跡の形状は割り合いに残り、戦国期山城の構想を良く伝えている。
天徳2(958)年に春日山山頂に創建、越後守護代上杉氏の氏神として栄える。奈良春日大社の分霊を祀り、春日山城の名前の由来ともなった。春日山城築城の際に、城の鬼門となる現在の位置に遷座させられたといわれる。天を突くように伸びる杉木立の参道と、急勾配の石段が印象的な名跡。境内に立つ春日灯篭は江戸時代の作といわれる。
春日社は、鹿島・香取・枚岡・比女神の藤原家と関係の深い神を祀る。ここの春日神社も、この四神が主祭神で、相殿に厳島・諏訪・天神社が祀られている。
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