地給地足ワークショップ「野良り暮らり座敷」に以前参加して頂いた
松本道介さんから「季刊文科43」が送られてきた。
一部ご紹介しますが、是非購入して全文を読んで欲しいです。
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風来書房「フィガロ舎」ライブラリー⑨
『季刊文科43』
鳥影社
2009年1月
視点43
“無”のあるなし
-------西洋哲学は日本人に必要なのか
松本道介
根生いの言葉
根生いの言葉というと、私の世代つまり戦時中の国粋主義と戦後に来た国粋主義一切の排除の時代を経験した世代は、なにかこわごわ触れなければならないような思いをともなうのだが、俳句はそのような時流もほとんど無縁であったらしい。かの
桑原武夫の「第二芸術」なども一切無視していい句をつくることに励んだのだし、観念語を用いてはいけないというきまりがないのはむろんのこと、根生いの言葉を用いなければいけないなどというきまりもまったくない。ないにもかかわらずいい句を見ればすべて根生いの言葉なのである。
観念的な議論や主義主張に見事な迄に無縁な俳句の世界に入って早々、観念語のことを騒ぎ立てるのは本当に申し訳ないのだが、俳句の世界のよさは主義主張やきまりや観念に縁のないところであろう。勝又さんの文章に出てくる“あいまい”もまた、主義主張もきまりも観念もないからこそ“あいまい”なのであり、私はこの“ないないづくし”の世界に入って真に心のなごむ思いをした。
俳句を始めた頃の私は近所の一坪農園を借りたり息子の借りていた埼玉県の三百坪もの畠を手伝ったりし始めたが、土を掘りかえしてそこにうごめくみみずのたぐいとその奥に菊芋や牛蒡の見えてくる時の心のなごみ、そのなごみは俳句をつくりながら根生いの言葉ばかりを口ずさむ時の気持ちによく似ていた。
根生いの言葉を唱えてなごむのはやさしくて穏やかな昔ながらの自分の言葉だからであり、畠の土をスコップで(息子の実践する福岡式自然農法は土をたがやさないので鍬はあまり用いないのである)掘り返した時のなごみは土と植物と小動物に自分もまた養われていることを思い起こすからだろう。そして自分が土に養われる人間、土の側に属する人間、最後には土に帰っていく人間といった仲間意識、帰属意識をどこかで感じているからだろう。少なくとも私は土あるいは土をとりかこむ自然に対峙して生きる人間ではないらしい。勝又さんの文章にあった芭蕉の俳句でいうなら“秋の暮”が晩秋であろうと、或る秋の夕暮であろうとどうでもいい人間である。つまりは“あいまい”な人間であり、あいまいであることが少しも気にならない。それは私が
日本人であり神がいようといまいと少しも気にならない人間、仏教の信者であって神社にお詣りをすることになんの不思議も感じない人間であることもかかわりがあるように思われる。そしてその先は日本人流の“無”の問題に行きつくと思う。というのも日本人の“あいまい”の中に“無”がたっぷり含まれていることを感じるからである。