ミモザの春雨日和

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長崎平和祈念式典「平和への誓い」全文 被爆者代表 城臺(じょうだい)美弥子

2014年08月13日 | シンプルライフ
あべ総理のあまりにもひどい顔に、思わずアドリブが入ったすばらしいスピーチでした。
75才の女性の、全身全霊の言葉です。女性がだまっていない時代になりました。



長崎平和祈念式典「平和への誓い」被爆者代表

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◆被爆者代表「平和への誓い」全文 

一九四五年六月半ばになると、一日に何度も警戒警報や空襲警報のサイレンが鳴り始め、

当時六歳だった私は、防空頭巾がそばにないと安心して眠ることができなくなっていました。

八月九日の朝、ようやく目が覚めたころ、あのサイレンが鳴りました。

 「空襲警報よ!」「今日は山までいかんば!」緊迫した祖母の声で、立山町の防空壕(ごう)へ登りました。

爆心地から二・四キロ地点、金毘羅山中腹にある現在の長崎中学校校舎の真裏でした。

しかし敵機は来ず、「空襲警報解除!」の声で多くの市民や子どもたちは

「今のうちー」と防空壕を飛び出しました。

そのころ、原爆搭載機B29が、長崎上空へ深く侵入していたのです。

私も、山の防空壕からちょうど家に戻った時でした。

お隣の同級生トミちゃんは「みやちゃーん、あそぼー」と外から呼びました。

その瞬間、キラッと光りました。

その後、何が起こったのか、自分がどうなったのか、何も覚えておりません。

しばらくたって、私は家の床下から助け出されました。

外から私を呼んでいたトミちゃんはそのとき、何もけがもしていなかったのに、

お母さんになってから、突然亡くなりました。



たった一発の爆弾で、人間が人間でなくなり、

たとえその時を生き延びたとしても、突然に現れる原爆症で多くの被爆者が命を落としていきました。

私自身には何もなかったのですが、被爆三世である幼い孫娘を亡くしました。

わたしが被爆者でなかったら、こんなことにはならなかったのではないかと、悲しみ、苦しみました。

原爆がもたらした目に見えない放射線の恐ろしさは、人間の力ではどうすることもできません。

今強く思うことは、この恐ろしい非人道的な核兵器を世界から一刻も早くなくすことです。



そのためには、核兵器禁止条約の早期実現が必要です。

被爆国である日本は、世界のリーダーとなって、先頭に立つ義務があります。

しかし、現在の日本政府は、その役割を果たしているのでしょうか。

今、進められている集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじった暴挙です。

日本が戦争ができる国になり、日本の平和を武力で守ろうと言うのですか。

武器製造、武器輸出は戦争への道です。

いったん戦争が始まると、戦争は戦争を呼びます。

歴史が証明しているではありませんか。

日本の未来を担う若者や子どもたちを脅かさないでください。

平和の保障をしてください。

被爆者の苦しみを忘れ、なかったことにしないでください。



福島には、原発事故の放射能汚染でいまだ故郷に戻れず、

仮設住宅暮らしや、よそへ避難を余儀なくされている方々が大勢おられます。

小児甲状腺がんの宣告を受けておびえ苦しんでいる親子もいます。

このような状況の中で、原発再稼働、原発輸出、行っていいのでしょうか。

使用済み核燃料の処分法もまだ未解決です。早急に廃炉を検討してください。

 

被爆者はサバイバーとして、残された時間を命がけで、語り継ごうとしています。

小学一年生も保育園生さへも、私たちの言葉をじっと聴いてくれます。

この子どもたちを戦場に送ったり、戦禍に巻き込ませてはならないという、思いいっぱいで語っています。



長崎市民の皆さん、いいえ、世界中の皆さん、

再び愚かな行為を繰り返さないために、被爆者の心に寄り添い、被爆の実相を語り継いでください。

日本の真の平和を求めて共に歩きましょう。

私も被爆者の一人として、力の続くかぎり被爆体験を伝え残していく決意を皆様にお伝えし、

私の平和への誓いといたします。

 

平成二十六年八月九日

 被爆者代表 城臺(じょうだい)美弥子


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