写真はぴょん吉。ねこのおしごとちう〜
日の出の森・支える会ニュース
に書いた、紙の原稿を転載します。
沖縄・高江ヤンバルの森、日の出の森
憂うつな日々が続いています。
この原稿が届く頃には、沖縄本島北部のヤンバルと言われる森では、日米軍のためのオスプレイ着陸帯が、新たに4カ所できているでしょう。安倍政権は「アメリカ」の言いなりに、「絶望の同盟」のための「内戦」を強行しています。
東村高江の森では、非暴力不服従の、体を張っての抵抗がつづいています。わたしは毎日、早朝からパソコンでツイキャス生中継を見ています。(私が沖縄に行ったのは3月と6月なので、7月からの機動隊の暴力、警視庁はじめ全国から機動隊500人を導入、内戦状況は現場では見ていませんが)
日本では、憲法九条戦争放棄と、まるで「宗教」のように言われるけれど、戦後ずっと、九条が守られて平和だったと言えるでしょうか。ベトナム戦争のときには戦闘爆撃機が沖縄から飛び、沖縄は「悪魔の島」と言われていました。九条の前に、1条から8条までの天皇を無視して、憲法の矛盾に気がつかないふりをしているのなら、戦後は民主主義の国だ、などとはいえず、ずっとウソだったと思います。
沖縄では、県民の総意として「海兵隊は撤退を」と、2016年6月19日に決議されました。那覇での島袋りなさん「追悼集会」で決議され、高江の現場では、「なぜ日米安保破棄と、日本人は言わないのか」と問われています。憲法の上位に日米安保条約がある事は「立川・砂川裁判」で、とっくに、ばれています。
★★★
日の出の森の、山桜が切られたときは、工事現場に入ってブルドーザーの前に立ち、熱風の排気ガスを吸いつづけて、顔がやけどのようになりました。そのときの、ほほのシミが20年経った今でも残り、闘った日々の卒業証書のようで、誇らしくなります。イタリアの「ほほにかかる涙」というカンツオーネを聞きながら、相模原からジムニーでかっ飛んで行った日々がよみがえります。
工事現場で、だるまのように太った男性は、ブルを運転しながら怒鳴りました。
「どけ!沖縄はこんなもんじゃないんだ。西表に行った事あるか!行ってみろ!」
汗とほこりにまみれた炎天下の森林破壊の現場で、私はまだ沖縄のどこにも行った事がない、歴史も何も知らないけれど、とっさに言い返しました。
「森を破壊しているブルの前に立っている、私が沖縄だ。あなたが誰だか知らないが、やっている事は、日本だ。」
ブルのエンジンを止めて運転席から降りて来た男性は、
「ねえさん、どこからきた?俺は横浜だ。」といい、赤土に座ったので、私も隣に座りました。
彼は沖縄の中学を卒業して、すぐに横浜に来てから、いい親方に出会えて、今では4000万円もするブルを自前で持ち、はやく結婚して孫もいる。この仕事は速く終わらせて孫の顔がみたい、公共事業を請け負う末端の下請けで「請負」というのは、負けるという字のごとく、最初から立場が弱いのだと、語ってくれました。
作業着にはウ☆チという名前が書いてあったので、つぎに会ったときは名前を呼んで、やめて!と訴えました。これは効果があったようで、彼はこの現場から撤退しました。相模原のねえさんによろしくと言ったとか、のちに、うわさで聞きました。次に来たブルは、前より小型で、やせた老人が運転していました。私も工事現場には行かない事にしました。
トラストの森で「ひので大学」を毎月おこない、峠までジムニーで登って行った日々は、なつかしいけれど心のどこかで忘れたいトラウマになっています。それがまた沖縄ヤンバルでよみがえります。水源の森を壊して、動物や植物のいのちを無惨に奪って、人間はどこまでも醜悪です。
在日米軍の総司令部、横田空軍基地があるかぎり、環境は破壊され、いずれ人類は滅びるでしょう。できることは少なすぎるけれど、ちばらなやーさい(がんばっていきましょう)
「世界を変えようと決意を固め、思慮深い市民たちからなる小さなグループの力を、決して否定してはいけません。 実際、その力だけがこれまで世界を変えてきたのです。」(マーガレット・ミード)
日の出の森・支える会ニュース
に書いた、紙の原稿を転載します。
沖縄・高江ヤンバルの森、日の出の森
憂うつな日々が続いています。
この原稿が届く頃には、沖縄本島北部のヤンバルと言われる森では、日米軍のためのオスプレイ着陸帯が、新たに4カ所できているでしょう。安倍政権は「アメリカ」の言いなりに、「絶望の同盟」のための「内戦」を強行しています。
東村高江の森では、非暴力不服従の、体を張っての抵抗がつづいています。わたしは毎日、早朝からパソコンでツイキャス生中継を見ています。(私が沖縄に行ったのは3月と6月なので、7月からの機動隊の暴力、警視庁はじめ全国から機動隊500人を導入、内戦状況は現場では見ていませんが)
日本では、憲法九条戦争放棄と、まるで「宗教」のように言われるけれど、戦後ずっと、九条が守られて平和だったと言えるでしょうか。ベトナム戦争のときには戦闘爆撃機が沖縄から飛び、沖縄は「悪魔の島」と言われていました。九条の前に、1条から8条までの天皇を無視して、憲法の矛盾に気がつかないふりをしているのなら、戦後は民主主義の国だ、などとはいえず、ずっとウソだったと思います。
沖縄では、県民の総意として「海兵隊は撤退を」と、2016年6月19日に決議されました。那覇での島袋りなさん「追悼集会」で決議され、高江の現場では、「なぜ日米安保破棄と、日本人は言わないのか」と問われています。憲法の上位に日米安保条約がある事は「立川・砂川裁判」で、とっくに、ばれています。
★★★
日の出の森の、山桜が切られたときは、工事現場に入ってブルドーザーの前に立ち、熱風の排気ガスを吸いつづけて、顔がやけどのようになりました。そのときの、ほほのシミが20年経った今でも残り、闘った日々の卒業証書のようで、誇らしくなります。イタリアの「ほほにかかる涙」というカンツオーネを聞きながら、相模原からジムニーでかっ飛んで行った日々がよみがえります。
工事現場で、だるまのように太った男性は、ブルを運転しながら怒鳴りました。
「どけ!沖縄はこんなもんじゃないんだ。西表に行った事あるか!行ってみろ!」
汗とほこりにまみれた炎天下の森林破壊の現場で、私はまだ沖縄のどこにも行った事がない、歴史も何も知らないけれど、とっさに言い返しました。
「森を破壊しているブルの前に立っている、私が沖縄だ。あなたが誰だか知らないが、やっている事は、日本だ。」
ブルのエンジンを止めて運転席から降りて来た男性は、
「ねえさん、どこからきた?俺は横浜だ。」といい、赤土に座ったので、私も隣に座りました。
彼は沖縄の中学を卒業して、すぐに横浜に来てから、いい親方に出会えて、今では4000万円もするブルを自前で持ち、はやく結婚して孫もいる。この仕事は速く終わらせて孫の顔がみたい、公共事業を請け負う末端の下請けで「請負」というのは、負けるという字のごとく、最初から立場が弱いのだと、語ってくれました。
作業着にはウ☆チという名前が書いてあったので、つぎに会ったときは名前を呼んで、やめて!と訴えました。これは効果があったようで、彼はこの現場から撤退しました。相模原のねえさんによろしくと言ったとか、のちに、うわさで聞きました。次に来たブルは、前より小型で、やせた老人が運転していました。私も工事現場には行かない事にしました。
トラストの森で「ひので大学」を毎月おこない、峠までジムニーで登って行った日々は、なつかしいけれど心のどこかで忘れたいトラウマになっています。それがまた沖縄ヤンバルでよみがえります。水源の森を壊して、動物や植物のいのちを無惨に奪って、人間はどこまでも醜悪です。
在日米軍の総司令部、横田空軍基地があるかぎり、環境は破壊され、いずれ人類は滅びるでしょう。できることは少なすぎるけれど、ちばらなやーさい(がんばっていきましょう)
「世界を変えようと決意を固め、思慮深い市民たちからなる小さなグループの力を、決して否定してはいけません。 実際、その力だけがこれまで世界を変えてきたのです。」(マーガレット・ミード)