八戸の煎餅の挽歌のつもり

昔の新聞のスクラップブックを取り出して感想を書いたり書かなかったり。

長慶天皇

2021-06-05 | 日記
○陸奥國三戸郡大向村内の長谷と云ふハ名久井嶽の麓に
して今も人家三戸に過ぎず至つて静閑寂寞たる一小村な
るが此地ハ徃昔応永年間に世の乱れを避け給ひて長慶天
皇の遠く駅<ひつとルビ>を駐め給ひ終に崩御ありし御遺跡なりとか現
に御陵墓と称するものありて殊に村民佐藤春松ハ天皇に
供奉して落下りし某の子孫にて此家今に数十代蓮綿と相
続し代々其子孫の外他に泄らさずと云ふ口傳あり或ハ云
ふ是帝の御崩日にて年々一月六日にハ必ず深更に至り自
ら御墓に詣で燈朋を供し奉ることなりと人その爲るを見れ
ども何の訳たるを悟らず唯己れのみ知りて斯ハ行なひ來
れるなりと又一説に建徳年中天皇の御弟明尊親王(元老
院編纂の御系図にハこの親王なし)當地に下向あり一院
を創建し給ふ境地の和州初瀬寺に似たれバとて長谷<てうこくとルビ>寺と
称す密宗の一寺なり實に此の親王を開基とす地名の長谷
もこれに拠るか後南部家の盛岡へ転ずるや同寺を盛岡へ
移し跡へ恵光院と云ふを再建す維新の初め住僧ハ復飾し
て今ま廃寺となる天皇の御墓しるしに寛成の二字を存す
と春松が家に天皇御辞世の御製といふあり

  かひぞなき世をひろなりにふみもせで
      せまき住谷のつちになる身ハ
  末の世に光りあらハせおのわ身を
      あまつ御祖のめくみありなハ

住谷ハ長谷につゞく原野の名にて今もかく称す云々と同
地の某氏より書を寄せたるが此の天皇の御事に付てハ諸
説また/\なれバ孰れをいづれと信じ難し今その文のま
ゝを掲ぐ
(明治13年6月10日付東京日日新聞3面)
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