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昔書いた記事

カントの美的判断に基づく刀剣鑑賞の論理 軍刀をどう見るか1 

2014年12月13日 | 日本刀に関する虚偽を正す 軍刀HP批判

 銃器を製造していた左行秀や鉄砲鍛冶出身の繁慶が、まさか刀を銃砲に勝る武器などとは思っていなかっただろう。当然彼らの作刀理念は刀を単なる武器ではなく、芸術品として作る事であったはずだ。日本において刀は優れた武器だから貴ばれたのではなく、優れた芸術品だから貴ばれたのである。そうした刀は世界でも日本にしかなく、それゆえ「日本刀」と呼ばれる。
 日本刀の良し悪しの基準は用を超えた鑑賞の次元で決定される。だから日本刀の美を工芸品的な「用の美」と言うのは当たっていない。

 日本刀の鑑賞はカントの言う美的判断に近いものだ。否、美的判断と同じと言える。カントは美的判断という言葉を主に自然に対する人間側の判断という意味に使っており、人間だけが自然の中に美を認識できるとする。動物は自然の美を認識できない。美的判断は人間特有の能力であり、その能力が人間特有の文化や倫理に結び付く。人間が自然の美しさを認識する事で、真なるもの、善なるものへの洞察力が涵養され、文化・文明が発展するというのだ。美が人間の人間たる所以の道徳性と結び付いているというのは注目すべき考え方である。
 かかる美の認識は、感覚器官で対象を直感する事と、かかる直感を概念化する事という二重構造を持っている。つまり対象を感覚的に受容しつつ(要するに知覚する事である)、知性的に概念化し、かかる概念に基づいて改めて対象を能動的に感覚(知覚)し直す。これによって感覚の中に単なる知覚ではない概念的な感覚が生じる。それが美の認識、美的判断だ。つまり美は判断者が対象へ分け入って行く「経験」でもあるのだ。そのように経験される美は個人的な体験であり主観であるから、言語化すれば人それぞれ異なった表現になり易い。しかしそれが美しいという感覚は多くの人々に共有可能である。
 
 刀剣鑑賞が正に美的判断である。

 刀剣鑑賞においてはどういう刀が名刀かの定義は古来より決められており、刀の見所、見極め方も古来より定まっている。具体的には刀剣入門書を読んで貰いたい。それらは刀剣鑑賞の掟とされている。愛刀家は掟に従ってある刀を名刀か否か、判断するのである。当然その判断は鑑賞者が掟をどれだけ理解しているかという知識(悟性概念)に左右される。しかし単に掟を知っていれば刀剣鑑賞が成立するのではない。知識だけでは判断できないその刀の品格とか作者の製作意図といった領域をも認識できねばならないのである。刀の品格など言葉で定義できるものではないから感性的に認識する、即ち直感的に判断するしかない。感性で捉えたもの、直感を概念に置き換えねばならないのだ。
 カントにおいては感覚(感性)と概念(悟性)の総合が認識であり経験であるとされており、人間は自然や文化を美的に感覚し美的に概念化する、即ち人間は自然や文化を美的に「経験」する存在なのだ。更に人間は経験から学び、経験を積み重ねる事で成長して行く存在であり、動物のように自然の一部として存在しているのではない。経験に基づく人間的成長が、美の経験に導かれているという所に、カント哲学(『判断力批判』)の真骨頂がある。
 美の経験が優れて人間的な経験となり、人間を人間的に成長させ、道徳的にするという考え方である。
 それは「精神一到何事か成らざん」とか「為せば成る」といった東洋的精神主義とは次元を異にする思想と言える。「真・善・美」の理念(イデア)を追求する古代ギリシア以来の哲学的命題への回答と言える思想なのである。

 刀剣鑑賞も全く同じ。

 刀剣鑑賞とは刀を美的に経験する事、即ち美的判断に他ならない。そして刀に対する美的判断は鑑賞者の道徳性をも陶冶するのである。お望みならその道徳性を武士道と呼んでも構わないが、武士道を飲み込んだもっと大きな道徳性である。
 刀の持つ強さ、美しさ、崇高さを感じれば、人はそれに負けない「善き人」になろうと思うものだ。当然、刀を鑑賞する者の知性と意欲が高ければ高いほど、刀に対する美的判断も精妙になり、人格に及ぼす作用も大きくなる。
 だから鑑賞者は刀から美を読み取る能動的な意志を持っていなければ意味がないし、鑑賞者の人間性が低いと名刀も名刀とは見えず、却って下等な刀――行秀の言う賎刀――を良い刀と見做しかねない。「直胤は大偽物」とのたまう渓流詩人氏のブログはその最たるものであるし、町井勲氏は刀剣鑑賞が鑑賞者の見識に左右されるという私の話をお花畑呼ばわりした。彼らが推奨する刀がどんな物で、彼らの人間性がどういう物かを知れば、誰の言っている事が正しいか判るだろう。

 またカントにおいては美的判断という人間特有の経験の仕方が、文化・文明の礎となり、歴史を発展させ、人間を道徳的にしているとされている。

 刀剣鑑賞も全く同じである。

 多くの愛刀家は刀剣鑑賞を単なる物品鑑定(時代や位列や価格の区分け)ではなく、刀と語り合う緊張しつつも楽しい時間として経験しているものである。刀を観る事で気持ちが引き締まり、一方で心が安らぐとでも言うような、不思議な感慨に浸る。正に刀を「経験」しているのである。そこから刀に照らし合わせて自分自身を省み、更なる成長の糧とする。実際、刀から力を与えられた経験は愛刀家なら誰にでもあるはずだ。
 つまり刀剣鑑賞とは人類の文化的成長過程を集約したものなのである。
 従って、刀を単なる切れ味、それも命がけの真剣勝負ではなくお遊びで藁束を切った時の切れ味でしか経験できない者は動物と同じと言える。渓流詩人氏などそんなレベルでブログまで書いているし、町井氏など差し詰め「馬の耳に念仏」にすら届かぬ「馬以下の段階」にあるのではないか。

 カントの美的判断の要諦は「美」が人間を成長させるという事に尽きる。
 従って、カントが美的判断で論じる美と全く同じ日本刀の美は、軍装マニア氏(HPhttp://ohmura-study.net/index.html)が言うように、

>刀への畏敬の念、辟邪の願い、守護の祈りは日本刀の根本である武器性能に端を発している。
>刀身の美は基本性能を支える鋼材や造り込みの刀身の裡(うち)から滲(にじ)み出て来るものである。

というものではない。

 そうではなく、日本刀の美は作者や愛刀家の人格と道徳性に由来しているのである。

 行秀や繁慶が刀を鉄砲以上に威力ある兵器だと思って作っていた訳がないし、軍装品として作っていた訳でもない。増してや丸腰の人間や無抵抗の人間を虐殺する道具として作ったのではない。彼らはあくまでも鉄砲では不可能な「美」の表現手段として刀を鍛えていたのである。当然そこには刀を武器ではなく「美しいもの」として求める我が国の文化的土壌があった。
 古来刀に美を追求する我々日本人は、実にカントより遥か以前に西洋哲学の真髄を掴み取り、実践していたのである。

 その上で明治時代以後の日本陸海軍の軍刀をどう見るべきか。 

 本日は「軍刀は日本刀ではない」との命題を提起するに止め、後日その命題の真偽、反証可能性を議論したい。