100年後の君へ

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正倉院の刀剣 神州の正気と軍装品マニアの唐心

2011年05月06日 | 日本刀に関する虚偽を正す 軍刀HP批判

 中世における日本刀は武士の魂以前に坊主の武器だった。日本刀を武士にのみ結び付けていると正鵠を射る事はできない。では真の日本刀とは?

 学問的な訓練を受けていない者が論述すると、得てして自分の見方に合わせて文献を切り貼りするものだ。学問では、どんな説にもその反対の説が必ず存在するものであり、他者の研究や言説を引用する際には、それに反対する説も紹介するとか、独自に批判的な検証を加えなければならない。また出典は判り易く明記することが望ましい。
 例の軍装品マニア氏のHPで、正倉院の刀剣のことが簡明に纏められているhttp://www.k3.dion.ne.jp/~j-gunto/gunto_034.htm。天田昭次『鉄と日本刀』からの引用であろう。以下、軍装品マニア氏のHPより。

>奈良・正倉院の伝世刀剣類を精査した本間薫山氏は「鉄滓の目立つ物が多い中にも地鉄が美しい焼刃の良さと相俟(ま)って、後の日本刀の上作に匹敵する剣がある」という。天王寺の「丙子椒林剣へいししょうりんけん」・「七星剣」(ともに切刃造りの大刀)をみた天田昭次刀匠は「七星剣はやや鉄滓が目立つが、丙子椒林剣は完璧で見る者全てが感銘を受ける。造り込み以外では後の日本刀の作風と変わらず、山城などの上工にも劣らぬ作位」と評している。
>正倉院と四天王寺の刀剣を全て研いだ小野光敬研師(人間国宝)は「地鉄が最も良いとされる平安・鎌倉時代の名刀よりも、共通して遙かに素晴らしい砥当たりである。軟らかくて砥石に(刀身が)素直に食い付き、粘って腰がある」と言っている。この刀身は少なくとも室町以来、全身が黒錆びに覆われて裸身で放置されていたという。そういう錆身だと普通はどうにもならないが、朽ち込みも残らず千数百年を経て蘇った。古代地鉄の不思議であり、地鉄の優秀さが窺える。残念ながら渡来鉄か国産鉄かが解らない。
>因みに、この奈良時代の名作の砥当たりに共通する日本刀は後の正宗、貞宗、行光などの本筋相州物だという。又、切刃造りの直刀の時代に、既に鎬造りが萌芽していた。大刀(たち)・横刀(たち)に移行する奈良時代、古代刀の地鉄と鍛法は、既に古刀の水準にあったと言えようか。

 以上、http://www.k3.dion.ne.jp/~j-gunto/gunto_034.htmより。

 ここで私が急ぎ注意しておくと、正倉院と四天王寺の刀剣は鎌倉時代以後に作られた模造品であるという説がある。それは他でもないそれらを研いだ小野光敬の感想と、現物の精査に基づくものである。小野の主張が模造品とオリジナルどちらだったのかは詳らかではないが、「この奈良時代の名作の砥当たりに共通する日本刀は、後の正宗、貞宗、行光などの本筋相州物である」との言葉の裏には、「正倉院と四天王寺の刀剣は正宗、貞宗、行光などの鎌倉鍛冶が作った模造品である」という含みがあったのではないだろうか。
 このように軍装品マニア氏が嬉々として飛び付いた小野の言葉の中に、軍装品マニア氏の論旨とは正反対の意味が読み取れるのである。
 軍装品マニア氏のHPの日本刀に関する記述は全てこの調子で、他者の文献を恣意的に引用し、自己の主張の根拠として利用しているのである。徹頭徹尾、我田引水である。彼のHPを読む人はその点を注意しなければならない。学問的にはあらゆる可能性を考えなければならない。軍装品マニア氏のように自己の主張の正当化のために他者の言説を利用したり、あまつさえ歪曲する事があってはならない。
 実際、近年でも宮内省が正倉院の刀剣を大野義光に模造させていたという事実がある(『鉄のある風景』森雅祐)。だから正倉院の刀剣が古代・中世に模造されていたとしても不思議ではない。しかしここからが重要なのだが、だからといってそれらは決して偽物ではないということである。
 宮内省が正倉院の刀剣を模造した理由は判らないが、普通に考えれば皇室の何らかの祭式のためであろう。正倉院の刀剣とは元々そういう性格のものであったのである。
 従って正倉院の刀剣が模造され、それによって正倉院の刀剣が全て伊勢神宮の式年遷宮のように新旧入れ代わったとしても、入れ代わったものが本物になるのである。
 では考古学的事実としてどうかと言えば、写真で見る限り、正倉院の刀剣は奈良時代以前に作られたものであると言える。それは後の相州物などより、聖徳太子の佩刀の方に近似性があるからだ。
 確かに正倉院の刀剣の中には、中心の錆が異常に健全なものがある。しかし中心に漆が塗ってあれば千年でも二千年でも健全さを保つ。事実、漆を塗って保管してしたあった例(無壮刀)では皆一様に中心が健全である。また現在でも、徳川美術館所蔵の康継(重要文化財)は、400年ほど前のものなのに今だに中心が白く光っている。保管状態が良ければそれ位の健全さは保てる。正倉院の刀剣は上の出来から奈良時代を降らないと言えるのである。

 聖徳太子の佩刀に似ているなら、正倉院の刀剣も大陸製か? との見方もできる。だがそれは諸々の研究によって否定されている。正倉院の刀剣は後世の模造の可能性も含め、日本製と考えられるのである。
 正倉院の刀剣の作風は、鍛えの荒いものから密に詰んだものまで多岐に渡る。鉄は白ける。焼き刃は写真からは判断し難いが、潤んだ直刃、小乱れ。
 これらは全て時代の上がる日本刀と共通しているのである。また姿も、切り刃の稜線が刀身中央近くにまであって、事実上の鎬を形成しているものがある。これに反りが付けば日本刀と同じ形態になる。
 正倉院の刀剣を全て精査した本間順二は、『日本古刀史』で、地鉄や焼き刃の特徴から、正倉院の刀剣の技術を忠実に受け継いだのが保昌系の大和古鍛冶、間接的に影響を受けているのが定秀・行平等の九州古鍛冶、と言っている。本間の説は、当時の権力機構の所在地とも一致しており、極めて正しいと考えられる。
 また月山貞一によれば伊勢神宮式年遷宮大刀は柾目で鍛える決まりになっているそうだし(『日本刀に生きる』)、本間の調査でも正倉院の刀剣には柾目を基調としたものが多かったようであり、やはり正倉院から保昌への技術の継承が日本刀の源流の一つと言えるだろう。

 つまり中世において、刀剣とは武士の魂ではなかったのである。以下は歴史学の分野でも近年になってようやくコンセンサスを得るようになった中世観だが、平安時代から室町時代の終わりまで、日本では公家・寺家・武家の三者が熾烈な権力闘争を繰り広げていた。織田信長が比叡山を焼き払い、秀吉が刀狩りをするまで、坊主こそが武士と並ぶ武断勢力だったのである。徳川政権は寺家を抑えるために、坊主を上手に政治体制に組み込む政策を採った。寺家は武力を失くした代わりに政治機構の一部になったのである。歴史は流れて、幕政に対する不満から実現された明治政府は、廃仏毀釈によって我が国から坊主勢力の一掃を試みた。しかし武士は消えたが坊主が消えることはなく、坊主の物欲・権力欲は戦後の我が国で益々盛んになっている。
 意外かもしれないが、日本刀と呼ばれる反りのある刀剣は、武家を象徴する武器ではなく、寺家の武器として発展した歴史があったのである。それが九州や大和の古作である。
 一方、武家にとっての純粋な日本刀とは、伯耆や備前の古作であっただろう。そう考えると、後鳥羽上皇が焼き入れしたとされる菊御作の一文字は、一般愛刀家の興味とは全く別の所で、政治的に極めて象徴的な意味を持っていたと言えるだろう。否、単なる象徴的な意味を超えて、当時としては政治的に現実的な意味を持つ行為だったのかもしれない。
 だから日本刀一般を単純に武士の魂と呼ぶのは間違いなのである。
 日本刀にも出自の違いがあるのである。
 この場合、真の日本刀と呼べるのは、古代から連綿と受け継がれている日本精神に通じた刀剣でなければならないだろう。
 では寺家でも武家でもない、公家にとっての刀剣とはどういうものだったのかというと、それが正倉院の刀剣なのである。

 奈良時代までの刀剣は公家の権威の象徴だった。それが正倉院に今もそのまま残っている剣・直刀だ。そして明治維新早々、明治二年に明治天皇が聖武天皇の佩刀とされる大刀を正倉院から取り寄せ、自らの御佩刀(水龍剣)とされた。そこに明治天皇の新たな時代を担う御決意が伺われる。勿論私のような者が天皇の意思を斟酌することはできないが。

 現代に連なる鎌倉重視の復古刀論は水心子正秀から始まると言われているが、正秀の主旨は今日言われているような表面的な復古刀ではなく、古の日本精神に還れということだった。正秀の時代も刀の価値を切れ味でしか判断できない軍装品マニア氏のような精神性の劣る者が、正秀の刀は刃毀れし易く曲がり易いとケチを付けて喜んでいた。しかし明治時代の研究者・内田疎天は、そのように皮相的に判断するのは「唐心(からごころ)」であると喝破し、我々は正秀が表現した「神州の正気」をこそ感得しなければならないと注意している(『大日本刀剣新考』)。
 この伝で言えば、軍装品マニア氏は正に唐心の人であり、神州の正気から最もかけ離れた人と断定せざるを得ない。

 戦後の現代刀は水心子正秀の復古刀論を引き継ぎ、鎌倉時代を最高価値としてその復元に努めて来た。が、21世紀の今日、それを見直す必要があるのではないだろうか。
 古代における我が国の刀剣には、政治即ち祭り事における神器、神と人が交流する器という面があった。明治維新に繋がる江戸時代後期の復古思想は、王政復古を意味していた。そして芸術とは、その時代の支配的な階層の価値観や生活様式を反映したものである。と言うことは、芸術としての日本刀が古に複するとは、表面的な模倣ではなく、古代の刀剣が持っていた日本精神に還ることではないだろうか。
 その際、日本刀としての表現形態は鎌倉時代でも南北朝時代でも大阪新刀でも構わない。大事なのは、寺家の価値観が入る以前の日本精神、神と人が交流する器としての古代の刀に帰ることである。またかかる日本精神こそ、最もピュアな武士の魂でもある。

 江戸時代末期の日本刀には復古刀を実現し、奈良時代以前の古代刀の精神、「神州の正気」を表すことに成功した者が何人かいる。その一人に左行秀を挙げることができる。


  語句解説 「神州の正気」

 明治9年の廃刀令後、各地で乱が起こり、10年には西南戦争が勃発した。その先駆けとなった熊本神風連の乱での士族達のスローガンが、「神州の正気、この器にあり」だった。「この器」とは、彼らの肉体ではなく、彼らの精神と結び付いた日本刀を指していると言えるのではないだろうか。九州は古代日本の中心地であり、刀剣制作も奈良時代以前から盛んに行われていた。西南戦争に至った理由は政治史的には様々な要因が挙げられるが、個々の武士の思いは刀剣に対する理屈を超えた感覚、我々は刀によって神州と結び付いているという実感、そういう抑えがたい感情だったと言えるだろう。









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