長いパンデミックで、皆さんはどんな風に生活が変わったんだろう。
自分について言えば、実はほとんど以前と変わっていない。
相変わらず旅行し、ライブへ行き、外食をし。
でも、友人と会うことは極端に減ったね。
友達と一緒に楽しんでいた習い事、ライブは一人か家族としか行っていない。
スポーツジムにも人は戻ってきたけれども、まあ、色々いるよね。
マスクしてエアロビクスとか私にはありえないんだけれども!
私はエアロビクスにはトラウマがあって、初めてやった若い時にすっかり息が上がってしまって頭痛になったの。
だからやらないと決めているんだけれども、マスクしてでもやりたい人っているんだね。
そうは言っても、マスクはしてでも外に出かけて人と関わったり、何か運動したりすることは引きこもっているよりはずっといいと思う。
だって、一人暮らしだし、友達なんていないしって人もいるかもね。
その場合は、絵を見に行くとか、おすすめはライブなんだけれどね。
東京の六本木にあるビルボードライブ東京って、カウンター席もあるからお一人様も多いんだよ。
ライブって、出演者と観衆が一体になって作る世界じゃない。
ま、会話がなくても、他の人の気配があって、一緒にその世界にいるのはどうかなってちょっと書いてみたかった。
紹介するサブスタックは私が気に入っていて購読しているライターさんのもので、移動の制限とうつ病の相関関係について書かれている。
大体、こんな内容。
(1)新型コロナウイルス感染症のパンデミック中の移動制限に関して、JAMA ネットワークに掲載された最近の研究(https://jamanetwork.com/journals/jamanetworkopen/fullarticle/2809947)では
アメリカ成人における地域社会の移動とうつ病症状との相関関係が詳述されている。
(2)特に社会的交流や移動を制限することによる意図せぬ心理的影響についての深い疑問、つまり地域社会の移動性の低下がうつ病の症状の増加と相関している。
大いに同意したのは、次の文章。
「人間の精神は孤立するようにはできていない、と仮定することもできます。社会的関与は、人間の生活の単なる付随的な側面ではなく、不可欠なものです。」
https://covidreason.substack.com/p/the-unseen-toll-of-staying-home-untangling
家にいることの目に見えない代償:新型コロナウイルス感染症流行下におけるうつ病と地域社会の流動性の糸を解きほぐす
ジャスティン・ハートJUSTIN HART 2023/09/28
人間て、文句の多い動物だよね。
いつもいつもグチグチ言って、ああでもないこうでもない、ああ言えばジョーユー
でも、何が正解かなんてこと、ほとんどのものにはないんだし、多数決っていうのも正しいとは限らない。
住んでいる国や地域、文化も違えば、常識も違う。
宗教の違い、信仰を持っている人いない人、無神論者、
経済的に富んでいるか、いないか
これらすべてを同じ物差しで測ることはできない。
でも、たったひとつの正解があるとすれば、それは、
「文句を言う自由」があるのが人間、ってことだと思うの。
「文句を言う」=「ルールに従わない」(まっとうなルールに限る)ではないからね。
というか、「自由にものを考える」「意見が口について出てくる」これを止めようがないのが人間だと思うんだ。
そうじゃない人がいたら、私ならその人は人間であることを放棄した人って考えてしまうかな。
その上で、意見を交わしあって、どこかで妥協点を見出して、なんとか折り合ってやっていくのが社会だと思ってる。
↓に引用したのは、お気に入りのサブスクライバーさんのレターにあった偉人の言葉なので、貼っておくね。
以前ブログに書いたランドマークエデュケーションのブレークスルーテクノロジーコースについて少し書いてみる。
宗教との関わり(4)
https://blog.goo.ne.jp/admin/editentry/?eid=e69383dd196398301ae3cdf65c30cb01&sc=c2VhcmNoX3R5cGU9MSZsaW1pdD0xMCZzb3J0PWRlc2Mma2V5d29yZD0lRTUlQUUlOTclRTYlOTUlOTkmcD0x
このコースは3日と一晩、3日間は朝から夜9時頃まで、内容はひたすら会話することだ。
コースをリードするディレクターがテーマを投げかけて、なにかシェアしたい人は挙手してディレクターとやり取り。
その内容は一般的な事から、ディレクターへの確認、今の話しの感想、時にはプライベートな体験まで、一見脈絡なく続く。
それを他の参加者は聞いている。
対話が打ち切られると、ディレクターは今の対話について会話して下さい。一人で心の中で、隣の人と、5人一組となって、等。
そして、その後、またディレクターは問いかける。
今の会話で、シェアしたい人はいますか?
最初にシェアした人、他の人が次々と挙手をして話し始める。
そんな風なんだ。
集団で行う自問自答、禅問答。
個人的な悩みを話した人は最後にディレクターから問われる。
「あなたは、それを持っていたいですか?」
シェアした人が、なお、ああだこうだ言い始めるとディレクターは無慈悲に言う。
「では、もうしばらく、そこに自分を浸しておいてください」(笑)
もちろん、嫌な思い出、辛い思い出など持っていたい人はいない。
でも、本当にそうだろうか?
いつまでも、持ち続けたいと思っていないだろうか?
なぜって、それは、その思い出の為に自分はこうなったと正当化したいから、言い訳にしたいから、自分をペテンにかけている。
思い出を思い出、過去のものとして、現在と切り離すことができないと先へ進めない。
過去のものと出来た時、「完了した」と言う。
では、本当に「完了」できたのか?検証できるのか?
そんなものはない。
自分で自分に宣言するということなんだ。
これは、スピ界隈で言う、「手放す」と同じ事と私は解釈している。
「手放し」を理論的に進めるための技術。だからテクノロジーと言っている。
何だか、今、今、シェアする必要があると思ったのでブログに書く。
私にはまだ完了できていない思い出がいくつもある。
その一つ。
中学1年の時の話しだ。
あるとき、いきなり緊急学級委員会でやり玉に挙がった。
ある生徒の体育館履き(運動靴)の底がナイフで切られて、その犯人が私だと言うんだ。
ご丁寧に証拠まで作ってあった。
もちろん、私はそんなことはしていない。
想像もできない。
人の持ち物を傷つけるなんてことは。
私は必死で違うと訴えたが、結局犯人は分からずじまいだし、他人がどう結論付けたかも分からない。
担任の先生はじっと聞いていて、最後にこう言った。
人には信念ってあるから...。
意味不明。
多分、先生には私の訴えは届いていたのだと思っているけれどもね。
このおかげで、私の中学生生活は地獄みたいだった。
私は内に籠った。
表向き、忘れたように振る舞い、明るくしてはいたけれども、もう誰のことも信じられなくなった。
あれから随分経つ。ほとんど忘れていた。
ところがね、ごく最近、思い出すようなことが起こったの。
誰かが私に成りすましていたんだよ。
私が今、やることを控えている事を私がしたみたいに捏造したの。
そのこと自体が重大な結果を招くとか、なぜ、そんなことが起こったのかとか、どんな理由で?とかは正直言って気にならないと言えばうそになるけれども、どうでも良い。
苛まされるのは、それをしたのは、多分私が敬愛している人なんだと思うから。
そんな人なら、敬愛するに値しない、離れるべき、と人は言うかも。
でも、それで私はいいんだろうか?
不完了が増えるだけ。
先へ進めない。
人を信じていたい。
人に誠実でありたい。
ここで、もう絶対に人を信じない、誠実なんてないんだと思ったら私の負けだ。
これから先だって、同じような事は起こるだろう。
でも、何度でもトライするパワフルさを持っていたい。
だから、ここで宣言する。
「完了する」
ビリー・ジョエルのこの曲は、あんまり好きな曲ではないけれども、今宵は深く浸ったので、もしよかった聴いてみてね。
Billy Joel - Honesty (from A Matter of Trust - The Bridge to Russia)
https://www.youtube.com/watch?v=24FUtxigtjs