実際に、障害者アートの先進的取り組みをしている施設を訪れて、その詳細を見てきたわけではないので、世間に発表されている、いわゆる障害者アートというものが、どのように産み出されているのかは、厳密には分からないかもしれないが、NHK教育TVのバリバラなどの放送を見ると、やはり、障害者アーティストには、必ずといっていいくらい、所謂指導者なり、アドバイザー的なひと、または制作の準備などをするひとが寄り添っているようである。
じつは、この事が私にはとても引っ掛かるものがある。
普通、健常者の普通の?アートというものは、そのアーティスト、作者というものが、制作において、指導者もアドバイザーも必要とせずに制作している。作品の素材選びから、それを購入、入手する段取り、制作じょうの細かな過程の構成から、制作上必要な技術の習得や、発明までをすべて自ら行う。それらが、所謂障害者アートには欠損していることが殆んどである。
陶芸課の隣の建物には、アート課がある。そこにも、所謂、指導者、アドバイザー、がいて、作品造りの下準備をしたり、制作のヒントを提供している。
この現実を見ると、障害者アートは、そのアーティストをアシストする健常者がいなければ、成り立たないものである場合が殆んどではなかろうか。
さらに、自閉症者やダウン症などの人達は、皆んな素晴らしい芸術的才能を持っているのだと、世間は誤解しているのではないか。
私が、ただ、粘土を渡して、何でも好きなものを造ってみてくださいと言っても、なにも造らないひと、眠ってしまう人、どうしていいのか不安そうな表情を見せる人がいる。希には嬉々として作り始める人もいるが。
嬉々としてつくられたものでも、素焼きすれば、くっ付けた部材がはがれ、穴だらけにしたところが、窯のなかで爆発したりということがおこる。
いや、そもそも、陶芸のイロハの技術的なことを理解できないので、自分だけで陶芸作品を造る事は、基本的にほぼ、不可能なのである。
べつに、障害者をばかにしているわけではない。事実、現実を言っている。
いちばん大切なのは、自発性。
障害を持っているので、周りの手助けは、場合によって必要なところもある。
施設や周りの人達が、つくらせるものでは無い。
障害者は、皆んなアーティストなのではない。
世話する人におんぶにだっこしなければ成立しないアートも多いのが厳然たる事実なのである。
あと、どうしても気にかかる事がある。
この、所謂、障害者アートというもの、特に、自閉症者の絵画や造形には、共通する特徴があるものが多い。自閉症の境界例と思われるアーティスト達(草間弥生氏、岡本太郎氏などなど)の作品にも共通点が見て取れる。
その特徴というのは、「埋め尽くす傾向」のことである。
すべての作品に共通するものでは、もちろん無い。しかし、明らかに多くの作品に共通している。
この事が、障害者アートの持つ、圧倒的なパワーに直結している部分は大きいと思われる。
ここまで見てきたように、所謂、障害者アートというものに、様々な問題点というか、疑問点とでもいうものが、内包されていると、私には思えてならない。個性が強烈なように見えて、じつは、みんな同じ傾向のある作品になっていて、果たしてこれが本当に個性と言えるのかを疑わざるを得ない作品群も存在している。
現在もてはやされつつある障害者アートというものの芸術性や、障害者アーティストという人達の芸術家性というものを、いわゆる普通の健常者の作品群の芸術性や芸術家性と同列に評価する事が行われてもいるが、わたしには、それは過ちに見える。
実際には、今はこの事業から手を引いている。端的に言えば、魅力的ではなくなってしまったし、私には他に力を尽くすべきところがあると感じている。わたし一人が何を言ったところで、大した影響力もないし、何かが変わるわけでもない。
この事はこの事で、私として感じた事を持って生きてゆくだけである。
私としては、私のやりたい、やるべき芸術が目の前にあり、それをやってゆくだけの事であるというのが、何の脚色も無い現実であるだけなのではある。
(一応、終わり)