閑古止利

感じていること

2020/03/25

2020-03-25 | 日記
ここのところずっと家に閉じこもっている。しかし、とりたてた違和感は感じない。
精神的には、ほぼ普通に暮らせる。

人間が生きているのは、地球上の表面というよりは、むしろ、その個人の精神的な内面上なのかも知れない。そんな感じをもった。
この事は、哲学上の認識論にも関係する。
私が生きて認識出来るからこそ、この世は存在する。
私が生きていようがいまいが、この世は存在する。

どちらとも言える。
しかし、一度、私は私の内面でこそ、内面世界でこそ、生きているのだと考えてみることも、何か新しい気づきを与えてくれるように思う。



2020/03/15

2020-03-23 | 日記
「現代美術」という分野があるが、二百年、三百年後にも、そう呼ばれるのだろうか。それとも、コンテンポラリースタイルとかのくくりで語られるのだろうか。
まあ、どちらでもいいけど。
ネーミング、くくり、として現代をつけることに意味を見つけることは難しいと感じるし、滑稽ささえ感じてしまう。

2020/03/13

2020-03-13 | 日記
たまたま知り合った年配者が、何人かいる。それらの人は、独身者か離婚者か死別者が多い。要するに、自由の身。
適当に、自分の都合で、連絡はあるが、訪ねてくる。
あまり、経済的余裕が無い人が多い。
そのなかでも、年金受給者が多い。
今のところ、いくら国民年金でも、6~7万円あり、その他下働きをいとわなければ、少しの収入を上乗せ出来るので、自由にうろうろして、愉しむくらいの事はできる。
大変そうだが、愉しんでもいる。(楽しむとはちょっと違う感じ)、非常につましい愉しみ方になる。
しかし、その状況は、いまギリギリのところで成立しているのであり、このところの世間の動き、消費税増税、コロナウィルス、株の暴落、、、により、やがて年金カットになるのは、もはやほぼ必定!

そうなれば、もはや下流老人は、生活保護に頼るしかないが、その認定はどんどん厳しくなっているし、そもそもプライドの高い人も多く、申請しない人も多い。
もちろん、若年、老年を問わず自殺率も上がる。
確実に言える事は、
今後数十年間は、今より生活するのに苦しい時代に入ってゆくと言うことだ。
何とか、あまり悲惨なことにならない事を祈るばかりだ。
おのおの工夫して、自分の人生をやるしかない。

2020/03/07

2020-03-07 | 日記
実際に、障害者アートの先進的取り組みをしている施設を訪れて、その詳細を見てきたわけではないので、世間に発表されている、いわゆる障害者アートというものが、どのように産み出されているのかは、厳密には分からないかもしれないが、NHK教育TVのバリバラなどの放送を見ると、やはり、障害者アーティストには、必ずといっていいくらい、所謂指導者なり、アドバイザー的なひと、または制作の準備などをするひとが寄り添っているようである。

じつは、この事が私にはとても引っ掛かるものがある。
普通、健常者の普通の?アートというものは、そのアーティスト、作者というものが、制作において、指導者もアドバイザーも必要とせずに制作している。作品の素材選びから、それを購入、入手する段取り、制作じょうの細かな過程の構成から、制作上必要な技術の習得や、発明までをすべて自ら行う。それらが、所謂障害者アートには欠損していることが殆んどである。

陶芸課の隣の建物には、アート課がある。そこにも、所謂、指導者、アドバイザー、がいて、作品造りの下準備をしたり、制作のヒントを提供している。

この現実を見ると、障害者アートは、そのアーティストをアシストする健常者がいなければ、成り立たないものである場合が殆んどではなかろうか。
さらに、自閉症者やダウン症などの人達は、皆んな素晴らしい芸術的才能を持っているのだと、世間は誤解しているのではないか。

私が、ただ、粘土を渡して、何でも好きなものを造ってみてくださいと言っても、なにも造らないひと、眠ってしまう人、どうしていいのか不安そうな表情を見せる人がいる。希には嬉々として作り始める人もいるが。
嬉々としてつくられたものでも、素焼きすれば、くっ付けた部材がはがれ、穴だらけにしたところが、窯のなかで爆発したりということがおこる。
いや、そもそも、陶芸のイロハの技術的なことを理解できないので、自分だけで陶芸作品を造る事は、基本的にほぼ、不可能なのである。
べつに、障害者をばかにしているわけではない。事実、現実を言っている。

いちばん大切なのは、自発性。
障害を持っているので、周りの手助けは、場合によって必要なところもある。

施設や周りの人達が、つくらせるものでは無い。
障害者は、皆んなアーティストなのではない。
世話する人におんぶにだっこしなければ成立しないアートも多いのが厳然たる事実なのである。

あと、どうしても気にかかる事がある。
この、所謂、障害者アートというもの、特に、自閉症者の絵画や造形には、共通する特徴があるものが多い。自閉症の境界例と思われるアーティスト達(草間弥生氏、岡本太郎氏などなど)の作品にも共通点が見て取れる。
その特徴というのは、「埋め尽くす傾向」のことである。
すべての作品に共通するものでは、もちろん無い。しかし、明らかに多くの作品に共通している。
この事が、障害者アートの持つ、圧倒的なパワーに直結している部分は大きいと思われる。

ここまで見てきたように、所謂、障害者アートというものに、様々な問題点というか、疑問点とでもいうものが、内包されていると、私には思えてならない。個性が強烈なように見えて、じつは、みんな同じ傾向のある作品になっていて、果たしてこれが本当に個性と言えるのかを疑わざるを得ない作品群も存在している。
現在もてはやされつつある障害者アートというものの芸術性や、障害者アーティストという人達の芸術家性というものを、いわゆる普通の健常者の作品群の芸術性や芸術家性と同列に評価する事が行われてもいるが、わたしには、それは過ちに見える。

実際には、今はこの事業から手を引いている。端的に言えば、魅力的ではなくなってしまったし、私には他に力を尽くすべきところがあると感じている。わたし一人が何を言ったところで、大した影響力もないし、何かが変わるわけでもない。
この事はこの事で、私として感じた事を持って生きてゆくだけである。
私としては、私のやりたい、やるべき芸術が目の前にあり、それをやってゆくだけの事であるというのが、何の脚色も無い現実であるだけなのではある。

      (一応、終わり)

2020/03/06

2020-03-06 | 日記
その他にも、わたしが、轆轤びきした皿に、陶芸用クレパスで絵を描いてもらった作品もできた。悪くない出来映えだった。
職員も、結構出入りがあり、あまり安定してはいなかった。このことも、この事業にとっては良いことではなかった。職員が、パート職員まで、事業理念を共有していることは、重要なことだからだ。
しかし、実状は、関係者の会議さえ開かれていない、先の見えない状況のままだった。

私としては、ここまでやって来たやり方には限界を感じるようになっていた。
まず、陶芸課に属する自閉症者の方々の症状は、あまりにも様々であり、とても、纏めて作品づくりの面倒をみられる状態ではなかった。
ほぼ、普通に意思疎通できて、私がこうして下さいと言えば、ほぼそのとうり動いてくれる人もいれば、ほぼ、意志疎通出来ない、言葉さえあまり理解できないと感じてしまうような人もいる。職員が、何とか作品造りに手を貸して、造らせようとしても、その手を振り切って、いうことを聞いてくれない事もある。途中で、寝てしまうひとまでいる。

ここまで、様々な状態の人たちに、一度に纏めて関わっても、ちゃんとした関わりなどは不可能な状態だった。
かくなるうえは、個別に関わって、更にその個性を引き出したアート作品を造ってもらえるようにならなければ、更に先に行けないと思って、職員や、所長にも、話をした。

とはいっても、話をしただけだ。
強力な要請はしなかった。
なので、現実には、そうはならなかった。
それは何故か。

それは、既にその時に、私のなかで、この障害者アートというものに、ある根本的な疑念がわきあがり、拭う事が出来なくなってきていたからである。

          (続く)

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