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仏教伝来 仏教受容論争 廃仏崇仏論争 蘇我氏と物部氏の対立 物部氏滅亡 百済

2017-07-28 06:17:17 | 評論
古代史探訪 仏教伝来の真実
 538年(宣化3年 欽明7年)、百済聖明王は、仏教を正式に倭国に伝えた。
 「仏像・経教・僧」(上宮聖徳法王帝説)が倭国にもたらされる
 一方、日本書紀では、552年、「百済聖明王、釈迦仏金剛像・幡蓋・経論」を倭国に献ずる」と記されている。
いわゆる「仏教公伝」である。

 仏教は、当時、東アジア国々にとって、「先進性」の象徴だった。
 蘇我馬子は仏教を取り入れることで国際的に通用する「先進」国家に改革しようとした。
合わせて蘇我馬子は50年以上も権力の中枢にあって、政治制度の改革や外交関係も推進していく。

 百済は、なぜ、倭国に仏教を伝えたのであろうか?
 その謎を解くためには、当時の百済を取り巻く朝鮮半島情勢や倭国との関係を理解しなければならない。

 百済は、漢江流域の漢城(ソウル付近)で興ったが、高句麗の侵攻を受け、激しい抗争を繰り広げていた。

 372年、近肖古王は、倭国に七支刀(作成は369年 天理市石上神宮所蔵・国宝)を献じた。七支刀は東晋で製作され、倭国に送ったものと見られている。
 高句麗の圧迫を受けていた百済が倭との同盟を求め、七支刀を贈ったとされている。

 475年、高句麗が3万の兵の大軍で百済を攻め、百済、蓋鹵王が戦死し、漢城は陥落した。百済は、錦江上流の熊津城に遷都して再起を図った。

 512年(継体6年)、高句麗によって国土の北半分を奪われた百済・武寧王は、「任那」の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁全(羅南道の東部の地域)の4県割譲を倭国に要請した。
大友金村はこれを承認し、代わりに五経博士の渡来を要請した。(日本書紀)

 513年、百済・武寧王は五経博士の段楊爾を献上した。(日本書紀)

 516年(継体10年)、百済は五経博士・段楊爾に代えて五経博士・漢高安茂を貢上した。
倭国は、五経博士、易博士、暦博士、医博士などが交代で倭国に渡来する「上番」を求めていた。547年、553年、554年にも「上番」が実施されている。
任那地域の「割譲」の引き換えに、百済の文化や仏法の受け入れを求めたのである。
 両国の利害関係が一致した外交関係であった。

 527年、倭国王権は 「任那」の復興を目指し、継体天皇は近江毛野(おうみのけぬ)が率いる新羅征伐軍、6万の軍勢を朝鮮半島に派遣しようとした。    
6世紀に入ると新羅は、高句麗から自立し、国家体制を固め、伽耶地域を巡って、百済と争った。新羅は大伽耶(大加羅)と同盟を結び、524年以後、任那加羅(金官加羅)に侵攻した。

 532年、 新羅は伽耶の主要国、金官伽耶を併合し、金官伽耶滅亡した。
伽耶地域の新羅・百済の派遣争いが激化した。
 一方、高句麗は、さらに南下して百済を攻撃した。
百済は、ついに錦江上流の熊津城を放棄、錦江中流域の泗沘城(扶余)に遷都した。

 百済は中国南朝の梁との関係も強化している。
武寧王が521年、聖明王が524年に、中国南朝の梁の皇帝から「冊封」された。
541年、梁に使者を出し、「涅槃等経義・毛詩博士、並工匠、画師」を要請している。百済は、梁と文化的な交流も行い、仏教や儒教、移民の請来に積極的だった。(南朝仏教の影響)
 
 535年、新羅、「任那」を襲う。

 537年 大友金村の子、大伴連沙手彦を任那に派遣し百済を救援する。もう1人を筑紫に派遣し、新羅の襲撃に備える。
 
 538年(宣化3年 欽明7年)、百済聖明王は、仏教を正式に倭国に伝えた。
「仏像・経教・僧」(上宮聖徳法王帝説)、「釈迦仏金剛像・幡蓋・経論」(日本書記)が倭国にもたらされる。

 541年、「任那」復興に熱意を燃やしていた欽明天皇は、百済聖明王に詔を送って、任那の領土回復を要請、これを受けて百済聖明王は「任那復興会議」を、百済の都・泗沘城(扶余)で開催した。
会議には、任那地域の残った7カ国の王や皇子、任那日本府より吉備臣が参加、冒頭に欽明天皇の詔を拝聴し、百済。聖明王が議長となって会議は進められた。
会議の実態は、「結束」の確認程度だったと考えられる。

 548年(欽明9年)、高句麗、陽原王が南下して、百済に侵攻、新王宮、扶余に接近する。百済は、新羅と結び、高句麗を撃退した。倭国は、百済に370人をおくり、築城を助ける。

 552年、百済聖明王、「釈迦仏金剛像・幡蓋・経論」を倭国に献ずる。(日本書記)
 
 553年、百済は、高句麗に対抗するため、倭国に軍事的な支援を求める。
倭国は、軍事的な支援をすると同時に、儒教の五経博士と仏教の僧、易博士、暦博士、医博士、採薬師、楽人などの上番(倭国に交替で勤務すること)を求めた。
倭国は、百済への軍事支援と引き換えに、百済から、仏教や文化、技術の受け入れに全力を挙げた。「先進国家」への脱皮を目指す倭国にとって、百済との関係強化は必須であった。

 554年、百済、僧曇慧と医・易、暦・医博士を進貢し、倭国に軍の派遣を再び要請、倭国は百済に兵1000人、馬100匹、船40隻をおくる。
倭国・百済連合軍、新羅と戦うが、新羅に敗れ、百済、聖明王は戦死する。

 562年(欽明23年)、高句麗の攻勢で、百済が窮地に立つ中で、新羅は伽耶諸国に進出し、大伽耶(大加羅)を滅ぼす。新羅は伽耶諸国全域を支配化に入れる。「任那官家」は滅亡した。倭国王権に衝撃を与える。

■ 552年(壬申)説
 『日本書紀』では、欽明天皇13年(552年、壬申)10月に百済の聖明王が使者を使わし、「釈迦金銅像一体と幡蓋若干、経典若干」とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上したと記されている。
 この上表文中に『金光明最勝王経』の文言が見られるが、この経文は欽明天皇期よりも大きく下った703年(長安2年)に唐の義浄によって漢訳されたものであり、後世の潤色とされ、上表文を核とした書紀の記述の信憑性が大きく疑われている。
伝来した年が「欽明十三年」とあることについても、南都仏教の三論宗系の研究においてこの年が釈迦入滅後1501年目にあたり「末法元年」となることや、『大集経』による500年ごとの区切りにおける像法第二時(多造塔寺堅固)元年にあたるとする説があり、「欽明十三年」は、後世の「改竄」の可能性の論拠となっている。
 また、当時仏教の布教に熱心であった梁の武帝は、太清2年(548年)の侯景の乱により台城に幽閉され、翌太清3年(549年)に死去していたため、仏教伝達による百済の対梁外交上の意義が失われることからも、『日本書紀』の552年説は難があるとされる。
しかしながら上表文の存在そのものは、十七条憲法や大化改新詔と同様、内容や影響から書紀やその後の律令の成立の直前に作為されたとは考えにくいとされ、上表文献上の事実そのものはあったとされている。

■ 末法思想
中国の仏教は、時には国家の庇護を受け絢爛豪華な文化として花開いた時期もあるが、対立する道鏡勢力の巻き返しや肥大化した経済力が狙われることもあり、国家による弾圧少なくなかった。
保護と弾圧の繰り返しが中国仏教の歴史だったが、隋唐時代においては、552年が末法元年とされ、末法思想が盛んになった。末法思想とは仏法が衰えるという悲観的な思想ではなく、廃仏が行われる末法の世だからこそ仏法を信奉するものは全力を尽くして仏法再興に邁進しなければんならないという考え方である。仏法興隆のための士気高揚の思想である。
  
■ 538年(戊午)説
 『上宮聖徳法王帝説』(824年以降の成立)や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(724年)においては、欽明天皇御代の「戊午年」に百済の聖明王から仏教が伝来したとある。
しかし書紀での欽明天皇治世(540年 - 571年)には「戊午の干支年」が存在しないため、欽明以前で最も近い戊午年である538年(書紀によれば宣化天皇3年)が有力と考えられた。
しかしその後の研究で、日本書紀の「仏教伝来」の記述の中に、淡海三船によって後世に追贈された歴代天皇の漢風諡号が含まれていることが明らかになり、「戊午年」の記述は、書紀編纂時以降になされた可能性が指摘され、日本書紀の「552年」は、論拠として弱くなった。
現在は両書に共通して記述のある「戊午年」を以って「538」年とする説が有力である。

仏教受容論争 廃仏か? 崇仏か?
 仏教伝来で、百済からもたらされた「経典」は直ちに理解できたとは思えず、目を奪われたのは、まばゆいばかりの黄金の「釈迦仏」だったことに間違いない。欽明天皇は
「西蕃の献れる仏の相貌、端厳にして全く未だ曾て看ず」と特に仏像の見事さに感銘したとされている。
 * 蕃神(あたしくのかみ):外国の神

 538年(欽明7年)、百済の聖明王は、倭国に軍事協力を求め、仏像、幡蓋(はたきぬがさ)、灌仏器(かんぶつき)、経論(きょうろん)を献じた。(「上宮聖徳法王帝説」、「元興寺縁起」)

 欽明天皇は、仏像の相貌に感銘を受け、「歓喜び踊躍り」(よころびほどはしり)て、「朕、昔よりこのかた未だ曾て是の如き微妙しき法を聞くこと得ず」(くほしきのり)としたが、「然れども朕、自ら決むまじ」(しかれどもわれ、みずからさだむまじ)と、仏教の受容については大王が専決できず、群臣会議(マエツキミ)に受容の是非を諮った。

 欽明天皇
 「西蕃(にしのとなり)の献りし仏の相貌、端厳にして全く未だ看ず。礼すべくや否や」
 蘇我稲目
 「西蕃の諸国、一に皆礼ふ(うやまう)。豊秋日本(とよあきづやまと)、豈(あに)独り背かむや」
 物部尾輿・中臣鎌子
「我が国家(みかど)の、天下に王とましますは、恒に天地社稷(あまやしろくにつやしろ)の百八十神(ももあまりやそかみ)を以て、春夏秋冬、祭拝(まつり)りたまうことを事と為す。方に今改めて蕃神(あたしくのかみ)を拝みたまはば、恐らくは国神(くにつかみ)の怒を致したまはむ」

 蘇我稲目は、「「西の諸国はみな仏を礼しております。日本だけこれに背くことができるだとうか」と崇仏を主張、物部尾輿と中臣鎌子は、「「我が国の王の天下のもとには、天地に180の神がいる。今改めて蕃神を拝せば、国神たちの怒りをかう恐れがある」と反対を主張した。
 欽明天皇は仏教への帰依を断念し、蘇我稲目に仏像を授けて私的な礼拝や寺の建立を許可した。
 欽明天皇は、蘇我稲目に仏像を与えることにし、蘇我稲目は小墾田の家に安置し、向原の家を清めて寺にした。
直後に疫病が流行し、物部・中臣氏らは「仏神」のせいで国神が怒っているためであると奏上。欽明天皇は廃仏を認めた。
 物部氏は、蘇我氏の礼拝する仏像を難波堀江に流棄した。
 「日本書紀」は、「無雲風雨」と描写する。

 570年、蘇我稲目死去し571年、欽明天皇死去する。

群臣会議
 ヤマト王権では、6世紀初めから、「大連」、「大臣」に次ぐ地位にある有力豪族を「大夫」(まえつきみ)とするのが慣例だった。「まえつきみ」というのは、「大王のそばに仕える臣」という意味である。
「大連」、「大臣」や「大夫」は、「群臣会議」を構成し、「大王」の後継者選びや仏教受容、外交政策など王権にとって重要な課題について、「大王」から諮問を受けて、議論をしたとされている。
「群臣会議」の「議長」は、「大臣」で、蘇我氏である。ヤマト王権で、勢力を保持するには、「大夫」となって「群臣会議」のメンバーになることが必須であった。
 「群臣会議」の役割は大王の後継者選びである。大王の後継者選びについては、たびたび支配者層で争乱が引き起こされていた。そこで大王が「群臣会議」に諮り、有力豪族で合意をした上で「推挙」するのが慣行になった。その際に大王の遺詔など「意向」も尊重されたのは言うまでもない。後継者が決まると、大王の後継者に、帝位を象徴する剣は鏡など宝器(レガリア)を献上し、新天皇が即位する。
 また、仏教受容については、王権にとって特に重要な政策課題とされ、たびたび群臣会議に諮られた。
 対朝鮮政策や隋・唐との関係についても、群臣会議に諮るのが当時の慣行であったと思われる。

 6世紀初めから、「大連」、「大臣」に次ぐ地位にあるものを「大夫」(まえつきみ)とするのが慣例になった。
536年(宣化元年 欽明5年)、欽明天皇は、大伴金村、物部麁鹿火を「大連」に、蘇我稲目を「大臣」、阿倍大麻呂臣を「大夫」(まえつきみ)に任じた。
 「大夫」が登場するのはこれが初めてである。当時、「阿倍氏」は「臣」の姓を持つ豪族の中で、葛城氏に次ぐ地位にあった。
その後、「大夫」の数は徐々に増え、推古朝には、10人余りの「大夫」がいたとされる。冠位十二階を制定した時には、「大夫」に十二階の中の上位二階(大徳・小徳)を与えた。以後、大徳・小徳の冠位を授かった者が、「大夫」とされるようになった。
 610年、新羅・任那の使者が小墾田を訪れた際、王宮で迎えた「大夫」は4人、10人余りいた「大夫」の上位4人だっと思われる。

蘇我馬子の権力統治 「分家独立」政策
 蘇我馬子は、蘇我稲目から受け継いだ権力を、画期的な方法で強大なものにしていく。当時の大和政権は、大臣主宰で有力氏族の代表者、群臣による合議制で行われていた。馬子は、弟たちを「分家」させて、独立させ、「群臣」の一人として加えることで、多数派が形成できるようにした。
 蘇我氏の分家は、蘇我稲目の弟たちの「河辺」、「御炊」、「田口」、「高向」がすでにあった。
 蘇我馬子は、新たに自らの弟たちを分家させ、「境部氏」、「小治田氏」、「久米氏」、「桜井氏」、「田中氏」、「箭口氏」、「葛城」の氏族を誕生させ、蘇我馬子は「蘇我本宗家」となった。
 蘇我馬子の弟、境部摩理勢は、物部守屋を滅ぼした後、王権第二の実力者に成り上がっていた。堅塩媛(推古天皇の母)の改葬が行われた際の「誄」(しのびごと)」を述べた順位から境部摩理勢の地位がわかる。
 大王、諸皇子、大臣蘇我馬子が述べた後に、境部摩理勢が「誄」を述べた。
 蘇我馬子に次ぐ地位を占めていたことが明らかだ。
 境部摩理勢は、冠位十二階の最上位の「大徳」の冠位を授けられ、「大夫」の地位に就いた。「大徳」の冠位を授けられたのは、大伴囓と境部摩理勢の二人だけだった。

蘇我氏は群臣会議(まえつきみ)を支配

 群臣会議には、各有力氏族から一人ずつ代表が出て、合議体が形成されて、倭国王権の皇位継承者や仏教受容などの重要事項を決めていた。
 群臣会議は、大王の意思や発言力を凌ぐほどの権力を持った合議体であったという説もある(倉本一宏氏)。一方で、意見は奏上するが、最終的には大王の意思を追認したにすぎないとする説もある。
蘇我稲目の時代は、群臣会議の「議長」として蘇我稲目一人だけが、蘇我氏から加わっていた。
 その後、蘇我氏は同族の氏族を独立させ、群臣会議に参加させる道を開いた。
 群臣会議の構成員数は、明らかになっていないが、欽明朝から崇峻朝までは17の氏族からそれぞれの代表が参加していたとされている。
推古朝になると、蘇我氏同族の官人も群臣会議の構成員となり、「蘇我」、「河辺」、「御炊」、「田口」、「高向」蘇我氏一族の代表者計五人が群臣会議に入る。
合わせると概ね3分の1を占めていたとされている。
 こうして、蘇我氏は大臣の蘇我馬子が「群臣会議」を仕切ることで政治権力を掌握した。
 しかし、蘇我氏は「群臣会議」で多数派を形成することに成功したが、多数の「分家」が独立したことで、その後、蘇我氏一族の中で、主導権を巡って抗争が始まる。
蘇我氏「分家」独立させ、他の「大夫」氏族と同様の権限を持たせると、これまで本宗家が一元的に握っていた蘇我本宗家の支配権が揺らぐ。それぞれの「分家」が独立した政治的行動を始めたからである。蘇我本宗家に対して公然と反旗を翻すことも起きてきた。
 それぞれ別個の氏族の氏寺を建立することもその一環だろう。
 とりわけ河内を本拠地とする蘇我氏一族は、蘇我本宗家から独立した立場を取ることが多かったとされている。
 推古天皇後継大王の選定や、山背大兄皇子討伐、乙巳の変に際し、その危惧は表面化した。
 
孝徳朝の群臣(マエツキミ)
蘇我氏が「大臣」の他に、一族から複数の群臣(マエツキミ)を群臣会議に参加させるという形態は、乙巳の変以後も維持された。
 孝徳天皇の代に見えるマエツキミは、21氏33人で、蘇我氏系官人は6氏7人を占め、推古天皇時代の割合を維持している。
 蘇我倉氏が蘇我倉山田石川麻呂と日向、河辺氏が百依、磯泊、磐管、湯麻呂、麻呂、高向氏が国押、田口氏が筑紫、久米氏が欠名、岸田氏が欠名である。
 蘇我氏は、いくつもの同族氏族に別れ、それぞれが独立性を有した。蘇我本宗家が滅亡した後も、「新政府」に重用された。
 646年に東国八道に派遣された国司にも6人の蘇我氏系官人が拝された。
 地方豪族に合い対峙するには、蘇我氏の権威を利用することが適策とされたと思われる。

蘇我氏と物部氏の対立
 572年、敏達天皇が即位、「大連」には物部守屋、「大臣」には、蘇我馬子を再任した。蘇我馬子は当時22歳、青年「大臣」だった。
王権の中での主導権争いは、大伴氏が失脚して、物部氏と蘇我氏の「一騎打ち」となった。
 欽明は、敏達に対して「任那復興」の遺詔を残して逝去した。
敏達天皇は、仏教導入に対しては否定的で、「仏法を信けたまわずして、文史(文章と歴史)を愛したまう」(日本書紀)とし、仏教受け入れに否定的な姿勢だった。
 非蘇我氏系として大王に就いた敏達天皇は、物部氏と蘇我氏が対立する中で、物部氏側につき、「廃仏」に組した可能性は否定できない。

 蘇我馬子は、物部守屋の妹を妃として迎えた。(姪という説もある)
 その間に生まれた子が蘇我入鹿である。
 二十歳の青年だった蘇我馬子は、当時、群臣の中で勢力を堅持していた物部守屋の支えを必要とした政略結婚だろう。
 守屋は入鹿の義兄として若い大臣、諸臣に対して、蘇我入鹿の「後見人」として振る舞ったのであろう。

 577年(敏達6年)、敏達天皇は、大別王(おおわけのみこ)や難波吉士木蓮子を百済に派遣し、百済、威徳王から、「経論若干巻、あわせて律師、禅師、比丘尼、呪禁師、造仏工、造寺工、6人」、「弥勒石像1軀」と「仏像1躯」が進上された。
大別王は、大王の許しを得て、難波に寺を建てた。大別寺と呼ばれ、百済の渡来人が布教を行ったとされている。しかし、王権は、大別寺を庇護しなかったために、大別王が死去すると廃寺となる。

 579年(敏達8年)、新羅は、倭国に仏像を進上した。その後どうなったが日本書紀に記述がない。

 584年(敏達13年)、百済から帰朝した鹿深臣が弥勒像の石像一体、佐伯連が仏像一体を安置していた。当時、両者は寺を建てることは許されていなかった。そこで蘇我馬子はこれを請うてもらい受け、仏像を祀る修行者を、司馬達等と池邊氷田を派遣して探させたところ、播磨国で高句麗の渡来者、恵便を得た。恵便は、高麗で還俗していたが、仏法を修めていた。
 馬子はこれを師として、司馬達等の娘の嶋女を得度させて尼とし善信尼となった。当時11歳の少女だった。更に善信尼を導師として禅蔵尼、恵善尼を得度させた。蘇我馬子は、仏法に帰依し、蘇我稲目が建てた倭国で最古の寺、向原寺を整備し、三人の尼僧に招き、自宅の東方には仏殿を建てて弥勒石像を安置した。
 向原寺(桜井寺)は、588年、物部氏によって破壊されたが、その後再建され、603年、推古天皇が豊浦宮から小墾田宮に遷都した際、向原寺は豊浦に遷り、尼寺である豊浦寺が営まれた。桜井道場あるいは桜井寺とも呼ばれた日本最古の尼寺である。
向原寺には三人の尼を招き、仏殿で弥勒石像の供養をした際に、参列していた司馬達等らの椀の上に、突然、仏舎利が出現し、蘇我馬子は、仏舎利を篤く祀ることにした。
 まず石川の別宅を寺院とし、石川精舎とした。
続いて、「大野丘の北」に塔を造って、仏舎利を遷して祀った。倭国で初めての「塔」の建立である。
 「大野丘」は蘇我氏の居住地の一つとされ、「和田廃寺」(今の橿原市和田町)が「大野丘の北」の跡に古くから比されている。
 585年(敏達天皇14年)、「大野丘の北」に仏殿を造営し、弥勒石像を安置して、盛大な法会を行う。
 日本書記には、「仏法の初(はじめ)、これより作れり(おこれり)」と記されている。
 「大野丘の北」に塔は、その後、向原寺(豊浦寺)に遷された。

 この年、「大臣」・蘇我馬子は病になり、卜者に占わせたところ父の稲目のときに仏像が破棄された祟りであると言う。馬子は敏達天皇に奏上して、仏法を祀る許しを得た。蘇我馬子は精舎で仏法を崇めた。
 しかし、この頃から疫病が流行し、多くの死者が出た。

 585年、物部守屋と中臣勝海(中臣氏は神祇を祭る氏族)は蕃神(異国の神)を信奉したために、国神が怒り、疫病が起きたと奏上し、「仏神」の禁止を求めた。
 これに対して、「仏法を信けたまはずして、文史(しるしふみ 文章と歴史)を愛(この)みたまふ」としていた敏達天皇は、物部守屋と中臣勝海の上奏に対して、「灼然(イヤチコ=明らか)ならば、仏法は止めよ」と仏法を止めるよう「詔」を下した。敏達天皇は、仏教興隆の動きが高まるなかでも、仏教に対しては「頑固」に否定的な姿勢をとったとされている。一方で、中国の学問は良く学んだと伝えられている。
 敏達天皇の「詔」を受けて、物部守屋は、自ら向原寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、を難波の堀江に投げ込ませた。(「元興寺伽藍縁起」)
 「仏」をないがしろにした「祟り」だとしたいのだろう。
 「焼く所のあまりの仏像が難波に捨てられ」て、「無雲風雨」(雲は無く、風が吹いて、雨が降った)と描写する。(日本書紀)

 難波の海に流したのは、「百済に返れ」という意味が込められていた。

 さらに蘇我馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵した上で、向原寺にいた司馬達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼の三人の尼を差し出すよう命じた。馬子が尼を差し出すと、守屋は、海柘榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、尼の衣をはぎとって全裸にして縛り上げ、尻を群衆の目前で鞭打った。
 海柘榴市は、百済の聖明王からの仏教が伝来した最初の地である。
 飛鳥時代、中国や朝鮮半島の使節は、難波津に上陸して大和川を川船でさかのぼり、川船の終点地、海柘榴市に着いたとされている。 
海柘榴市は、山の辺の道や上ツ道、山田道、初瀬街道が交差する陸上交通の要衝、物資が集まり、我が国最古の交易市場が成立していた。

 しかし、疫病、「瘡」(天然痘)は一向に治まらず、まもなく敏達天皇も物部守屋も病に伏してしまう。人々は仏像を焼いた罪であると言い合った。
 その後、蘇我馬子は病が癒えず、再び奏上して仏法を祀る許可を求めた。
敏達天皇は馬子ひとりのみこれを許し、三尼を返した。蘇我馬子は三尼を拝し、新たに寺を造り、仏像を迎えて祀った。

■ 善信尼
 584年(敏達天皇13年)、高句麗から渡来した僧・恵便(えびん)に師事して出家し、善信尼と名乗った。同年、蘇我馬子が邸宅内に百済から請来した弥勒仏の石像を安置した際、弟子となった恵善尼・禅蔵尼とともに斎会を行ったと伝えられる。
 585年、物部守屋は大野丘の仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を難波の堀江に投げ込ませた。そして善信尼や弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼をは捕えらえ、衣をはぎとって全裸にされて、海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎に連行され、群衆の目前で鞭打たれた。
 588年(崇峻天皇元年)、戒律を学ぶため百済へ渡り、590年(崇峻天皇3年)3月に帰国。帰国後は大和国桜井寺(明日香村豊浦か?)に入り、善徳など11人を尼として出家させるなど、仏法興隆に貢献した。
 司馬達等(しばたっと)の娘、仏師・鞍作止利(くらつくりのとり)の叔母にあたる。中国からの渡来人、恵善尼(えぜんに)、禅蔵尼(ぜんぞうに)とともに得度、出家したといわれる日本最初の尼僧の一人

■ 難波吉士木蓮子
 飛鳥(あすか)時代の官吏。
 敏達天皇4年(575)、任那に使者として派遣され、敏達13年(584年)新羅へ遣わしたが、至りえずして任那に赴いた。崇峻天皇4年(591)、任那を再興しようとして、紀男麻呂ら4人の大将軍が、2万余の兵を率いて筑紫に出陣したとき、任那に遣わされ任那のことを問うた。推古天皇8年(600)、新羅王が任那を攻めたとき、天皇は大将軍境部臣らを遣わし新羅を撃たしめた。新羅はわれに降伏し、六城を割いたが、天皇はさらに難波吉士神を新羅に、難波吉士木蓮子を任那に遣わして、事の状を検校せしめ、両国はわが国に貢調したとある新羅と任那があらそった際にも任那に派遣され、事情をしらべたという。

崇仏廃仏論争 仏教受容論争
  崇仏派論争は、(1)存在したという説 (2)存在しなかったという説
(1) 蘇我氏と物部氏との対立は、政治的対立で、仏教受容を巡るものではなかった。
(2) 仏教受容を巡る対立はあったが、物部氏は崇仏派の蘇我氏に対抗するためだった。蘇我氏の物部氏討伐は、政治的権力闘争の結果で、早晩おこるべきものであった。
(3) 皇位継承争いを巡る対立であった。
(4) 宗教的対立はあった。

 飛鳥寺が蘇我氏の「私寺」として造営されたことから、当時、支配層の間で仏教受容を巡る対立があったと考えられる。
しかし、物部氏は元来排外主義的な豪族ではなかったし、物部氏の本拠地に「渋川廃寺」が発見され、物部氏が造営したと思われていることなどから、 廃仏一辺倒であったとは考えられない。

物部氏と仏教
 物部氏や中臣氏はその後、廃仏を貫いたわけではない。
 物部氏の本拠であった河内の居住跡から、氏寺(渋川廃寺)の遺構などが発見され、神事を公職としていた物部氏ですらも氏寺を建立していたことが明らかになっている。
 物部氏が、仏教受容を巡って蘇我氏と激しく対立したのは、仏教受容そのものに抵抗したのでなく、誰が、どうやって仏教受容を進めるかであったと思われる。
 物部氏は、代々、在来の神々の祭祀を司ってきた氏族で、大王の任を受け、「蕃神」・仏教を司るのは、自分たちの氏族で、「蕃神」であってもその祭祀を行うのは物部氏の他はないとする自負があった。それが裏切られたことで、仏教受容を巡って、蘇我氏に対し執拗に攻撃を加え続けたと考えられる。
 蘇我氏が、大王の任を受け仏教崇拝を主導していることに、「名負いの氏」物部氏の面目がまったくつぶされてしまった。その怨念が、廃仏に現れたのであろう。

「三宝興隆の詔」
 594年(推古2年)、推古天皇は、厩戸皇子と蘇我馬子に「三宝興隆の詔」を出した。諸群臣は、競って仏舎(寺)を造営した。
「上宮聖徳法王帝説」には「聖徳王、嶋大臣と共に謀り、仏法を建立し、更に三宝を興す」と記されている。
 「三宝」とは、「仏・法(経典)・僧」のことである。

 蘇我氏の仏教興隆に果たした役割は極めて大きい。
 鞍作氏という仏師の一族を支えたのも馬子の経済力で、仏教芸術への理解の結果である。玉虫厨子や止利仏師は、馬子の庇護なしには存在しない。
 595年(崇峻3年)、百済僧、慧聡・観勒、高句麗僧、慧慈を招来し、法興寺(飛鳥寺)に迎える。蘇我氏が主導したのは間違いない。慧聡、慧慈はその後、厩戸皇子の仏教の「師」となる。

 慧慈と慧聡については、日本書紀は「此の両僧、仏教を弘演し、並び三宝の棟梁と為る」と記し、「三宝の棟梁」と称されて仏教の「師」として仏教興隆に努めた。
 「日本書紀」には厩戸皇子が「内経(仏教)を高麗の僧慧慈に習い、外典(儒教)を博士覚哿(かくか)に学び、並びに達りたまひぬ」と記されている。
 覚哿は、百済の五経博士、儒教の経典を伝えた。
 学問の師を記述した部分は極めて具体的で信憑性があるとされている。。

観勒
 602年(推古天皇10年)に渡来した百済僧。天文、暦本、陰陽道を伝える。
 ヤマト王権は「書生」を選んで、観勒に学ばせた。暦法は陽胡玉陳、天文遁甲は大友高聡、方術は山背日立が観勒に学び、みな成業したという。
暦本は604年に聖徳太子によって採用された(ただし正式な暦法の採用は持統朝である)。仏教だけでなく天文遁甲や方術といった道教的思想が、まとまった形で観勒によってもたらされた。
 624年(推古32年)に、日本で最初の僧正に任命された。
この年ある僧が斧で祖父を殴る事件が起こり、天皇はこの僧だけでなく諸寺の僧尼を処罰しようとした。この時観勒は上表して、日本に仏教が伝来してまだ百年にならず、僧尼が法を学んでいないことからこのようなことが起こったとし、事件を起こした僧以外は罰しないよう求めた。推古天皇はこれを許し、この時に初めて僧正・僧都の制を定め、観勒を僧正に任じたという。

飛鳥寺建立
 588年(崇峻元年)、飛鳥寺の建立が始まる。国内では初の本格的な寺院である。物部守屋を討伐した翌年である。
 真神原にあった飛鳥衣縫樹葉の家が解体され、寺院建立の整地作業が始まる。
 真神とはオオカミの意、神の使いとして畏怖されるオオカミが群生する神聖な地が伽藍造営の地に選ばれた

 同じ年、百済は僧恵総、令斤等を遣わし、仏舎利を献上した。朝貢物を進上するとともに、僧6人、寺工(てらたくみ)(寺院建設技術者)2人、鑪盤博士(ろばんはかせ 塔の鑪盤や相輪造営する工人)1人、瓦博士3人、画工(えかき)(仏画、仏具の制作者)1人を派遣した。
 百済は、すでに577年(敏達7年)、経論、律師、禅師、比丘尼、呪禁師、造仏工の6人を進上している。
 飛鳥寺造営工事の技術者は整った。

 蘇我馬子は、善信尼を、帰国する百済の使者、恩率首信らに託し、仏法の修行に渡来させた。善信尼は、まだ当時15歳だった。
建設を開始した飛鳥寺(法興寺)の完成を待つと、善信尼と2人の尼僧の受戒が遅れてしまうので、百済に遣わしたとされている。
 隋や唐への遣隋僧・遣唐僧に先立つもので、海外で仏法を修行した最初の僧である。百済で十戒、六法、具足戒を受けた。 591年、2年間の留学を終えて帰国し、蘇我馬子が提供した大和国桜井寺(現在の明日香村・豊浦?)に住み、大伴狭手彦(おおとものさでひこ)の娘・善徳(ぜんとく)をはじめ4人の女性と8人の男性を得度、出家させ、仏法興隆に貢献したといわれる。

 590年(崇峻3年)、飛鳥寺の造営工事が始まった。この年、「杣取り(そまどり)」(杣山 木材を切り出す山 杣取り 杣木を伐採すること。また、造材すること)が始まり、ヒノキの大木が切り出された。
 592年(崇峻5年)、「杣取り」から2年後、仏堂(金堂)と歩廊を起工した。
 この年、崇峻天皇が暗殺される。

 593年(推古元年)、「刹柱」を建て、「仏舎利」を心礎に納める儀式が執り行われた。儀式の際、蘇我馬子は、頭髪は僧形にして、「百済服」を着ていた。(元興寺縁起)
 この時代寺院建築の手順は、仏舎利を柱頭に納めた刹柱塔を建て、寺院造営を天に告げる。そして仏舎利を心礎に納めた層塔を造り、地に向かい寺院建立を告げ、金堂や回廊を備えた伽藍を造営する。
 刹柱塔の用材は、層塔の心柱に利用される。
 この年、推古天皇が即位、厩戸皇子が「太子」となり「摂政」を任じられる。

 594年(推古2年)、「三宝興隆の詔」を出す。諸群臣は、競って仏舎(寺)を造営した。「三宝」とは、「仏・法(経典)・僧」のことである。

 595年(推古4年)、高句麗から、慧慈が渡来し、厩戸皇子の「師」とする。
 同じ年、慧総が、百済から渡来する。

 596年(推古4年)、「層塔」が完成し、「中金堂、西金堂、東金堂、塔、講堂、中門、回廊」からなる伽藍が完成する。
 飛鳥寺「造り意(おわる)」(日本書紀)と記されている。
 蘇我馬子の子、善徳が「寺司」に任じられ、慧慈、慧聡の二人の僧は、飛鳥寺の「住持」に就いた。慧慈は、厩戸皇子の師になるために渡来したのではなく、飛鳥寺の「住持」就くことがが目的だったのであろう。

 598年、厩戸皇子、斑鳩の地に刹柱が建て、斑鳩寺の建立開始。

 605年(推古14年)、丈六釈迦如来像の造立を発願する。
高句麗の大興王は、仏像の鍍金用の黄金300両を倭国に贈った。(日本書記)高句麗僧、慧慈が本国に情報を伝えたのだろう。高句麗の倭国接近戦略である。

 606年(推古14年)、鞍作止利が銅像と繍像の丈六仏が完成、「金堂」に安置する。「金堂」は、遅くともこの頃までに完成したと考えられる。

 610年(推古18年)、高句麗の僧、曇徴・法定が来朝。

 飛鳥寺の伽藍の配置様式は、塔の周りに三金堂(中金堂、西金堂、東金堂)を配置する一塔三金堂方式で、回廊で囲まれている。この様式は、高句麗の清岩里廃寺(平壌市)に類例があるとされてきた。
 これにたいして一塔一金堂方式の伽藍配置の四天王寺式は百済から伝わった様式だ。
 二つの寺から出土した瓦は、百済風の瓦で、百済から渡来した「瓦博士」に対応する。

 2007年11月、百済の扶余に位置する王興寺という百済時代の寺院跡で、重要な発見が相次いだ。
 百済時代、扶余は泗沘と呼ばれ、都が置かれていた。
 百済の王によって建立された王興寺の伽藍は、発掘調査により、中央に五重塔、背後に金堂、塔の東西に付属の建物が配置されていたことが明らかになった。飛鳥寺との関係が指摘されている。
 また舎利容器や数々の工芸品が発見され、飛鳥寺の五重塔の下からの同様の遺物が発見されており、飛鳥寺と百済の仏教文化の関連性を示す貴重な手がかりとなった。
 飛鳥寺の伽藍配置も、百済から伝わったと考える方が、仏教伝来の経緯を見ると納得できる。しかし、その伽藍配置は、高句麗から百済に伝わった可能性が大きい。

 1956年の飛鳥寺遺構の発掘調査で、塔の地下式心礎から、木箱に収められた舎利容器が発見された。舎利とともに埋葬された硬玉、瑪瑙、水晶、金、銀、ガラスの玉、金環(耳飾り)などの舎利荘厳具が発掘されている。
こうした埋葬物は古墳の埋葬物と似ている。馬具や武具なども収められていたとされている。倭の独自性がある。
現在の飛鳥寺は、旧中金堂の位置に建てられている。飛鳥大仏が安置されているが、建立当時から残っているのは頭部と目や額の一部のみだ。

 厩戸皇子の建立した斑鳩寺(若草伽藍)の着工は、厩戸皇子が斑鳩宮に移住した605年とされている。(670年 焼失)
伽藍配置方式は、塔と金堂が一直線に並ぶ四天王式配置である。
再建された法隆寺は、法隆寺方式と呼ばれる伽藍配置方式だ。

飛鳥寺、斑鳩寺、四天王寺の造営順序は?
 最近の発掘調査の結果、飛鳥寺、斑鳩寺、四天王寺で使用された軒丸瓦(のきまるがわら)は、いずれも同じ「瓦笵」(がはん 瓦用の木型)で作られたいたことが明らかになっている。瓦の製作を指導したのは、588年に百済から渡来した「瓦博士」だろう
 四天王寺の瓦は、飛鳥寺や斑鳩寺の瓦より一時期新しく、四天王寺の金堂は、斑鳩寺の金堂造営が一段落してから、造営されたと見られている。
 三寺の造営順は、飛鳥寺、斑鳩寺、四天王とされ、四天王寺は斑鳩寺の造営が一段落してから行われたと考えられる。
 飛鳥寺、斑鳩寺、四天王の造営で、「飛鳥文化」の花が、一気に開いたのである。

「先進国家」のシンボル飛鳥寺
 600年、第一回遣唐使が派遣され、隋皇帝、文帝から「これ大いに義理なし」と叱責され、倭国は、政治制度の改革や都の整備、仏教興隆に全力を挙げて取り組む。
 飛鳥寺は、606年ごろ、金堂も完成し、伽藍全体が完成したと考えられる。鞍作鳥が制作した丈六の釈迦繍仏像も完成し安置された。
そして、その翌年、607年、遣隋使、小野妹子が派遣される。
唐に対して、倭国が、「先進国家」であり、朝鮮半島三国の上位にあることを認めさせるために、仏教文化の充実度を示して国力を誇示することは必須であった。
 そのシンボルとして飛鳥寺を建立したのである。
 隋は、当時、仏教全盛時代であった。

 608年、唐史、裴世清は小墾田宮を訪れたとされている。 完成して間もない飛鳥寺を来訪した可能性が大きい。壮大な伽藍で、国力を誇示する飛鳥寺のインパクトは大きかったのではないか。

外交政策を担っていた蘇我氏
 570年(欽明31年)、高句麗の朝貢使が渡来したが、越(こし、現・福井県敦賀~山形県庄内)の海岸に漂着した。ヤマト王権は、高句麗の朝貢使が滞在する賓館、「相楽館」(さがらか、相良郡、現・京都府南端)に、群臣を派遣し、貢物を調査した上で、「国書(上奏文)」と「調物」を受けた。
572年(敏達元年)、敏達天皇は、「大臣」、蘇我馬子に、高句麗の「国書」を解読するよう命じ、蘇我馬子は配下の百済渡来人、王辰爾に解読させた。
「国書(上奏文)」はカラスの羽に書かれていた。黒い羽根に黒い墨で書いた文字はそのままでは読めないようにされていた、「史」と呼ばれる宮殿の書記が集められたが、誰も読むことができなかった。その時に、新たに「史」に起用されて「船氏」と名乗っていた王辰爾は、カラスの羽に飯たく湯気をあて湿らせ、布に写し取るという方法で解読した。敏達天皇と蘇我馬子は、これを褒め、大王のそばで使えよと命じた。そして、他の「使」を、「数は多いが、その中に誰一人として王辰爾に勝るものはいない」と叱責したという。(日本書紀)

 王辰爾に「船氏」の姓を授けて、「史」に登用したのは蘇我稲目である。蘇我氏は、ヤマト王権の外交政策において、蘇我氏は力を振るっていた。
王辰爾は、553年(欽明14年)、蘇我稲目の命で、難波津に赴き、船賦(ふねのみつぎ)をかぞえ記録し、難波津に寄港する船から徴税する税の制度を整え、船史(ふねのふびと)の姓を賜っていた。難波津も蘇我稲目が支配したことがわかる。
こうした記述からヤマト王権の外交関係は蘇我馬子が掌握したと考えられる。

 蘇我馬子は、「嶋大臣」と呼ばれた。
飛鳥川の畔の明日香村島庄に邸宅、「飛鳥河傍」に居を構えた。 邸宅の庭に小嶋の浮かぶ池があったので「嶋大臣」と呼ばれた。「勾の池」、「上の池」など複数の池があったとされている。
島庄にある島庄遺跡の発掘調査の結果、池は発見されたが、嶋は存在していない。謎である。

額田部皇女立后
 575年、敏達帝の皇后、広姫(息長真手王の娘 押坂彦人大兄皇子・逆登皇女・菟道磯津貝皇女を産む)が没する。
 額田部皇女は蘇我氏の出自であることを明確に自覚していた。
 即位後、「今朕(われ)は蘇何(蘇我)より出たり、大臣はまた朕(わ)が舅(おじ)たり。故(かれ)、大臣の言(こと)をば、夜に言(もう)さば夜も明かさず、日(あした)に言さば日も晩(くら)さず、何(いずれ)の辞(こと)をか用ゐざらむ」と日本書紀に記されている。
 額田部皇女は2男5女を産む。
 莵道貝鮹皇女(うじのかいだこのいらつめ)は厩戸皇子(聖徳太子 間もなく死亡)、小墾田皇女は押坂彦大兄、田眼皇女は息長足日額天皇(舒明天皇)の妃となった。
 厩戸皇子は用明天皇の長子、押坂彦大兄は敏達帝の長子、舒明天皇は彦人大兄の長子、額田部皇女の皇室内における地位は完璧だった。
 厩戸皇子は用明天皇の長子、押坂彦大兄は敏達帝の長子、舒明天皇は彦人大兄の長子、額田部皇女の皇室内における地位は完璧だった。

 立后の翌年、577年に「私部」(きさいべ)を設置。后(きさき)の地位にふさわしい経済的基盤ができる。政治力の源泉にもなる。
 一方、蘇我氏も天皇家の外戚関係を強固なものにする。
蘇我稲目のもう一人の娘、小姉君も欽明天皇の后となり、泊瀬部皇子(崇峻天皇)、穴穂部皇子、穴穂部間人皇女(用明天皇の后 厩戸皇子の母)をもうける

敏達帝殯宮の争い

 585年、敏達帝は病気で亡くなり、直ちに殯宮が設けられる。
殯宮は、特別の建物の喪屋で、埋葬するまでに行われる喪葬儀礼のことで、天皇の喪屋を「殯宮」という。天皇の殯宮儀礼は、1~2年続くことが多い。

「殯宮」のおける蘇我馬子と物部守屋の「誄(しのびごと)」に関するいさかいの記述が注目される。
 物部守屋は、蘇我馬子が「誄(しのびごと)」を奉る様子を、「猟箭中(ししやお)へる雀鳥(すずめ)の如し」と嘲笑った。
「猟(獲物の獣)を獲つ大きな雀」と笑ったのである。
蘇我馬子は、物部守屋を、「鈴を懸(か)くべし」と、手足を震わせて「誄」を行ったので、「鈴をかけると鳴るなるような仕草」と返した。
「誄」とは、単に故人を偲ぶ言葉ではなく、それぞれの氏族が王権に仕えた次第を述べるものであった。天皇への仕奉の在り方を述べることは、忠誠度を示し、王権の貢献度を表明するもので、敏達後の政治体制への意思表示である。
「誄」のやり方はそれぞれの氏族によって異なった特徴が表れたのかもしてない。蘇我馬子は大柄で、物部守屋は小柄だったのだろう。
いずれにしても、「誄」の場で、以前より存在した二人の対立が顕在化したのだろう。

穴穂部皇子 炊屋姫を襲う 三輪逆殺害
 穴穂部皇子は、欽明天皇と小姉君との間に生まれ、弟には泊瀬部皇子(崇峻天皇)がいる。皇位継承者では、極めて有力だったが、群臣の推挙などのプロセスを無視して即位しようと目論んだと考えられる。
 586年(用明元年)に、敏達皇后(豊御食炊屋姫 推古天皇)を姧そうとして、殯宮に侵入した。
 敏達皇后(推古天皇)と性的な関係を持ち、皇后の推戴で、即位をしようとしたのであろう。
 しかし殯宮を護衛していた三輪逆らに阻まれた。
穴穂部皇子は物部守屋と兵を率いて、三輪逆が潜んでいた「磐余の池辺」を取り囲む。「磐余の池辺」は、用明天皇の磐余池辺双槻の宮であろう。
穴穂部皇子は、「三輪逆討伐」を掲げて軍勢を動かし、真意は用明天皇や豊御食炊屋姫を討とうとしたと考えられている。
用明天皇は襲撃されて重傷を負った可能性も指摘されている。用明天皇は翌年、死亡している。
また、豊御食炊屋姫を捕らえて、意のままに王権を動かそうとしていた。
日本書紀は、用明天皇の死去の原因を記述するわけにはいかないで、大王として仏法へ帰依し、「蕃神」を礼拝した用明に相応しい死因として「瘡」を選んだのだという説を記したという説もある。。
三輪逆は、討伐軍の動きを察し三輪山に逃げ込み、さらに後宮(大后)の邸宅に潜伏したが、一族に居場所を密告され、襲撃されて殺害された。
三輪逆は、廃仏を唱え、敏達帝の寵臣であった。穴穂部皇子が、三輪逆を討伐したいと主張すると蘇我馬子も物部守屋も「仰せのままに」と了承した。 蘇我馬子は向原寺の焼き討ちに加わった三輪逆を嫌っていた。物部守屋は穴穂部皇子と結ぶのが得策だと考えたのであろう。
この事件を契機に、守旧派、物部守屋と開明派、蘇我馬子との対立は決定的になっていく。

用明天皇即位
 586年、敏達天皇の次に即位したのは用明天皇、欽明天皇と蘇我稲目の娘、堅塩媛との間に生まれた大兄皇子(おおえのみこ)である。
蘇我氏直系の天皇が初めて登場した。
 用明天皇は、磐余(いわれ 桜井市阿部)に池辺双槻宮(いけのへのなみつきのみや)を造営。
 磐余には磐余池があり、池のほとりに「槻」(けやきの古名)の大木が二本あったので池辺双槻宮と呼ばれた。(現桜井市池ノ内)

 用明天皇は、即位後「仏法を信(う)でたまひ神の道尊びたまふ」(日本書記)として、「仏法」も「信」じて、「神」も「尊ぶ」と、群臣会議に諮った。これに対しての群臣の反応は記述されていない。
 新天皇は、即位ごとに群臣を任命するとともに、仏教受容や新羅遠征など重要政策については群臣に審議を求めるのが当時の慣行であった。

 587年(用明2年)、用明天皇は儀式の最中に病で突然倒れ、重体に陥り、「朕、三宝に帰らむと思う。卿等謀れ」(三宝(仏法)に帰依したい)とし、群臣に再び仏教の帰依を諮った。
群臣のうち守屋大連と中臣勝海連は、「何ぞ国神に背きて、他神を敬びむ。由来、斯の若き事を識らず」(どうして国是にすむいて、他国の神を礼拝するのか。今までにこのような話を聞いたことはない)と反対し、蘇我馬子は「詔に随ひて助け奉るべし。詎か(たれ)異なる計を生さむ」(おおせのままに大王をおたすけ申し上げるべきだ)と賛同を表明した。
蘇我馬子は、物部守屋と中臣勝海は、再び激しく対立した。

 587年、用明天皇崩御、崇峻天皇即位。

物部守屋と蘇我氏の抗争
 宮殿で行われていた群臣会議に、穴穂部皇子は、突然、「豊国法師」という僧侶を伴って現れる。「豊国法師」は医療活動を行っていたと思えるので、重病の用明天皇を見舞ったと考えられる。
 物部守屋は、これを睨み付けて、大いに怒る。
 これを見た押坂部史毛屎があわててやってきて、ひそかに「今、群臣、卿を図る。復将に路を絶ちてむ」と群臣が物部守屋を陥れようと企てて退路を断とうとしていると忠告した。
 物部守屋はこれを聞いて、河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)阿都の別邸(大阪府八尾市跡部)に退き、兵を集め、戦いに備えた。
 この時期には、仏教受容は、単に宗教上の対立を超えて、開明派、蘇我氏と守旧派、物部氏の政治的対立となっていた。

 中臣勝海は、守屋の挙兵に呼応して、自宅に兵を集め、押坂彦人大兄皇子と竹田皇子の像を作り、呪詛した。しかし、反乱計画の不成功を知って、中臣勝海は彦人皇子の邸へ行き帰服を誓った。自派に形勢不利と考え、一転して彦人皇子を擁して生き延びようとしたと考えられる。 その帰路に、押坂彦大兄皇子の舍人、迹見赤檮(とみのいちい)に斬殺された。
中臣勝海は、敏達(びだつ)天皇14年疫病の流行に際して、物部守屋とともに排仏を奏上していた。

 次期の皇位争いは、更に激しさを増して、蘇我馬子は敏達帝の皇后の豊御食炊屋姫を奉じ、物部守屋は穴穂部皇子を奉じた。

 用明天皇の死去の翌月、物部守屋は動く。
物部守屋は他の皇子には目もくれず、穴穂部皇子を立てて大王を継がせようとした。淡路島で狩猟を口実にして穴穂部皇子を誘い出し、謀議を行おうと企て、ひそかに使者を穴穂部皇子に遣わし、皇子と淡路で狩猟を楽しみたいとした。
 しかし、この企ては密告され、果たせなかった。

 蘇我馬子は、豊御食炊屋姫の詔を得て、佐伯連丹経手や土師連磐村、的臣親嚙を送り、穴穂部皇子と宅部皇子(穴穂部皇子の弟 皇位継承者の一人)を殺害した。
 その1か月後に、蘇我馬子は、泊瀬部皇子(崇峻天皇)・竹田皇子、厩戸皇子、難波皇子、春日皇子を先頭に立てて、紀男麻呂、巨勢臣比羅夫、膳臣拕賀夫、葛城臣鳥那羅を率いて、物部氏を攻めた(第一軍)。第二軍は群臣だけの軍勢で、大伴連嚙、阿倍臣人、平群臣神手、坂本臣糠手、春日仲臣も軍兵を率いて守屋の邸に迫る。
 押坂彦大兄皇子はこの戦列に何故か加わらない。これ以前に死亡した可能性もある。討伐軍に加わった豪族の9名の内、5名は葛城氏一族である。紀男麻呂は任那遠征軍でも活躍した老臣で、朝廷内では、蘇我馬子に次ぐ、第二位の地位を占めていたと思われる。葛城氏以外では、膳氏(安倍氏から分かれた豪族)、大伴氏、安倍氏、春日氏がみえる。
 竹田皇子を次期大王に就かせたいとしている額田部皇女の意向もあったと思われる。

 守屋は一族を集めて稲城(稲を積んで作った砦)を築き守りを固めた。
 軍事を司る氏族として精鋭の戦闘集団でもあった物部氏軍勢は強盛で、子弟や奴を集め、稲城を築いて戦った。守屋は朴の木の枝間によじ登り、雨のように矢を射かけた。その軍勢は強く士気が高く、館に満ち、野に溢れた。
朝廷軍は、「怯弱くして恐怖りて三廻却還く」(みたびしりぞく)と、すっかり怖気づいて、三度の退却を余儀なくされた。
 朝廷軍は、犠牲者も多く出たであろうと思われる。
 これを見た厩戸皇子は仏法の加護を得ようと白膠の木を切り、四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり誓った。
 蘇我馬子も、勝利を祈願して、「願わくは当に諸天王、大神王との奉為に、寺塔と起立てて、三宝を流通へむ」と誓った。
馬子は軍を立て直して進軍させた。
 迹見赤檮(押坂彦大兄皇子の舎人 中臣勝海を殺害)が大木に登っている守屋を射落として殺した。寄せ手は攻めかかり、守屋の子らを殺し、守屋の軍は敗北して逃げ散った。迹見赤檮は主君を裏切ったと考えられる。
 守屋の一族は葦原に逃げ込んで、ある者は名を代え、ある者は行方知れずとなった。この戦いを「丁未の乱」(ていびのらん)と称する。

 激戦の上、蘇我氏は勝利し、物部守屋一族は滅亡した。
 物部守屋の滅亡後、「餌香川原」に戦死者の腐乱した遺体が多数散乱していたという。(日本書紀) 大和川と石川の合流地点、藤井寺市の郊外で激しい戦闘があったことが伺える。
 王権からは、「大連」が消え。「大臣」蘇我馬子の独裁政権となった。

 厩戸皇子は、戦いの最中、四天王像を造り、勝利したら仏塔を建てると誓ったという。また蘇我馬子も「寺塔を起立てて、三宝を流通へむ」とした。
 厩戸皇子は、当時、十四歳だった。
 四天王寺と飛鳥寺の起源とされている。

 物部氏滅亡後、蘇我馬子は、物部氏の支配下にあった土地や人民など莫大な「財産」を奪取した。物部守屋の子孫と家臣、237人を四天王寺のとした伝えられている。
 日本書紀には「蘇我大臣馬子が病のため朝廷に出なくなった。勝手に紫冠を入鹿に授け、大臣の位に擬した。また入鹿の弟を物部大臣とよんだ。この物部大臣の祖母は、物部弓削大連の妹にあたる。そこで母方の財力によって、威勢を世に示した」(日本書紀皇極二年十月条)と記されている。
 蘇我馬子は、宿敵物部守屋の妹を妃とし、蝦夷を設けていた。蝦夷は、母方の「財産」を継承し、これを次男の入鹿の弟に相続させ、「物部大臣」と名乗らせた。
馬子の妻が守屋の妹であるので物部氏の相続権があると主張したのである。
 物部氏の宅(領地)と奴(奴隷)は両分され、半分は蘇我馬子のものになった。残りの半分は四天王寺へ寄進され、四天王寺の奴・田荘とされた。
蘇我氏の財政基盤は、意外に「貧弱」だったとされている。屯倉の経営に力を入れて朝廷の財政基盤を強化したが、あくまで王権の財政管理者にすぎなかった。
物部氏の財産の接収で、蘇我氏の財政基盤は破格に改善された。

 蘇我氏は、王権内では権勢を誇示していたにも拘わらず、軍事面での基盤も脆弱だったとされている。
「軍事的な伴造として台頭した大伴氏や物部氏とは異なり、蘇我氏にはこれといった有力な軍事基盤が存在しない」とし、さらに「親蘇我的性格を持つ東漢氏や大伴氏の軍事力に依存することによって、あるいは王権に仕える群臣たちの私兵に動員をかけることによって、初めて纏まった一つの兵力を構成することが可能であった」(「蘇我氏と大和王権」 加藤謙吉 吉川弘文館 1983年)している。
 蘇我入鹿暗殺に際して、蘇我蝦夷が立てこもった甘橿岡の邸に駆け付けた軍勢は、記録に残るのは倭漢氏と高向臣だけであった。
蘇我氏の軍事力は、意外に弱かったと考えられる。

推古天皇の時代の寺院数
 624年(推古32年)、日本書紀によれば、「寺46か所、僧816人、尼569人、あわせて1385人」としている。
そのすべてを厩戸皇子建立と「聖徳太子伝私記」は記している。
 厩戸皇子の時代の7世紀前半の創建された寺の遺構は、これまでに約31か所発見されているとしている。(仏教考古学の森郁夫氏)瓦葺でない簡素な 「草堂」もあったと思われるので46は妥当だろう。
 その大半が畿内である。
 諸豪族は、競って寺院を造立した。

仏教が「国家宗教」に 「仏教興隆の詔」 孝徳朝
 645年(大化元年)、「乙巳の変」後、孝徳天皇は、飛鳥寺に使者を派遣して、僧尼を集め、欽明朝以来の仏教受容における蘇我氏の貢献を讃え、仏教への崇拝と普及を述べた。「仏教興隆の詔」(日本書紀 大化元年八月条)である。

 「詔」では、「朕は更にまた仏教を崇め、大いなる道を照らし啓こうと思う」
と述べ、仏教受容の経緯を述べた。

▼ 百済聖明王の「仏教伝来」の際は、群臣は同意しなかったが、蘇我稲目のみこれを信じ、天皇は稲目にその法を奉らせた。
▼ 敏達朝でも蘇我馬子は仏教を崇めた。余臣は信じず、仏教は滅びようとしたが、天皇は馬子に法を奉らせた。
▼ 推古朝では、馬子は天皇のために、丈六の繍仏と銅仏を作った。

そして、「詔」では「仏教興隆」の仕組みを整えている。

▼ 沙門狛大法師、福亮、恵雲、常安、霊雲、恵至、寺主僧旻、道登、恵隣、恵妙をもって十師とする。別に恵妙法師を百済寺の寺主とする。
この十師は、僧侶たちを教え導いて仏教の修行を必ず法に如く行わせよ。
▼  造営中の寺で中断しているものは、朕が皆助け造らせよう。
▼ 寺司と寺主を任命する。諸寺を巡行して「僧尼、、田畑」の調査をして報告せよ。
▼  久目臣、三輪色夫君、額田部連甥を「法頭」に任じる。

 この「詔」で、「乙巳の変」以前は蘇我氏が担っていた「仏法」の統括は、大王が担い、大王が直接、寺院や僧尼を管理すると宣言したのである。
注目されるのは蘇我氏の仏教興隆に果たした業績を高く評価し、仏教興隆の歴史を飛鳥寺本尊の完成をもって締めくくっていることだ。
 これまでは、僧正、僧都、律師の三人を任じる僧綱制をとっていたが、「十師」制に改め、寺院造営の援助を約束した。
 飛鳥寺を始め、大勢の僧侶が集まっている場所で、蘇我氏への批判は一切言わなかった。蘇我氏の役割を大王が引き継ぐと宣言したのである。
 蘇我氏を逆賊として誅殺したという日本書紀の歴史認識はとはまったくそぐわない。
 孝徳天皇の「仏教興隆の詔」で、倭国は「仏教国家」の道を歩むことを内外に宣言したのである。 

蘇我氏の功績 仏教が日本の礎を造る
 当時、東アジア全体では大乗仏教の全盛期だった、中国や朝鮮半島の国々は、結局、仏教国家にはならなかった。日本だけが仏教国家として生き続けた。その礎を築いたのは蘇我氏他ならない。(梅原猛 「日本史のなかの蘇我氏」 消えた古代豪族 「蘇我氏の謎」 歴史読本編集部 角川書店)

 蘇我氏は物部氏など他の氏族から度重なる激しい反対に合いながらも、粘り強く崇仏の道を追求したのは、単に政治的な背景だけでなく、蘇我氏なりの仏教に対する強い信仰心があったのではないだろうか。
「仏教国家」の道筋を付けた蘇我氏は、古代日本の国家の方向を決めた歴史上、最も大きな功績を上げた「功労者」である。
「蘇我氏」は「悪者」というイメージは捨て去るべきである。


(参考文献)
「蘇我氏の古代」 吉村武彦  岩波新書 2015年
「蘇我氏四代 臣、罪を知らず」 遠山美都男 ミネルヴァ書房 2018年
「謎の豪族 蘇我氏」 水谷千秋 文春新書 2006年
「ヤマト王権 シリーズ日本古代史②」 吉村武彦 岩波新書 2010年
「蘇我氏 ~古代豪族の興亡~」 倉本一宏  中公新書 2015年
「蘇我氏四代 臣、罪を知らず」 遠山美都男 ミネルヴァ書房 2006年
「消えた古代豪族 『蘇我氏』の謎」 歴史読本編集部 KADOKAWA 2016年
「天皇と日本の起源」 遠山美都男 講談社現代新書 2003年
「飛鳥 古代を考える」 井上光定 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「飛鳥史の諸段階」 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「飛鳥 その古代史と風土」 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「大化改新 ―六四五年六月の宮廷革命」 遠山美都男 中公新書 1993
「日本史年表」 歴史学研究会編 岩波書店 1993年





2017年7月25日
Copyright (C) 2017 IMSSR



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廣谷  徹
Toru Hiroya
国際メディアサービスシステム研究所
代表
International Media Service System Research Institute
(IMSSR)
President
E-mail thiroya@r03.itscom.net  /  imssr@a09.itscom.net
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飛鳥寺 蘇我馬子 法興寺 百済 三宝興隆の詔 慧慈 慧総

2017-07-27 05:27:06 | 評論
古代史探訪 飛鳥寺建立の真実
 588年(崇峻元年)、飛鳥寺の建立が始まる。国内では初の本格的な寺院である。物部守屋を討伐した翌年である。
 真神原にあった飛鳥衣縫樹葉の家が解体され、寺院建立の整地作業が始まる。
真神とはオオカミの意、神の使いとして畏怖されるオオカミが群生する神聖な地が伽藍造営の地に選ばれた。

 同じ年、百済は僧恵総、令斤等を遣わし、仏舎利を献上した。朝貢物を進上するとともに、僧6人、寺工(てらたくみ)(寺院建設技術者)2人、鑪盤博士(ろばんはかせ 塔の鑪盤や相輪造営する工人)1人、瓦博士3人、画工(えかき)(仏画、仏具の制作者)1人を派遣した。
 百済は、すでに577年(敏達7年)、経論、律師、禅師、比丘尼、呪禁師、造仏工の6人を進上している。
 飛鳥寺造営工事の技術者は整った。

 蘇我馬子は、善信尼を、帰国する百済の使者、恩率首信らに託し、仏法の修行に渡来させた。善信尼は、まだ当時15歳だった。
隋や唐への遣隋僧・遣唐僧に先立つもので、海外で仏法を修行した最初の僧である。百済で十戒、六法、具足戒を受けた。 591年、2年間の留学を終えて帰国し、蘇我馬子が提供した大和国桜井寺(現在の明日香村・豊浦?)に住み、大伴狭手彦(おおとものさでひこ)の娘・善徳(ぜんとく)をはじめ多くの女性を得度、出家させ、仏法興隆に貢献したといわれる。

 590年(崇峻3年)、飛鳥寺の造営工事が始まった。この年、「杣取り(そまどり)」(杣山 木材を切り出す山 杣取り 杣木を伐採すること。また、造材すること)が始まり、ヒノキの大木が切り出された。

 592年(崇峻5年)、「杣取り」から2年後、仏堂(金堂)と歩廊を起工した。
 この年、崇峻天皇が暗殺される。

 593年(推古元年)、「刹柱」を建て、「仏舎利」を心礎に納める儀式が執り行われた。儀式の際、蘇我馬子は、頭髪は僧形にして、「百済服」を着ていた。(元興寺縁起)

 この時代寺院建築の手順は、仏舎利を柱頭に納めた刹柱塔を建て、寺院造営を天に告げる。そして仏舎利を心礎に納めた層塔を造り、地に向かい寺院建立を告げ、金堂や回廊を備えた伽藍を造営する。
刹柱塔の用材は、層塔の心柱に利用される。
この年、推古天皇が即位、厩戸皇子が「太子」となり「摂政」を任じられる。

 594年(推古2年)、「三宝興隆の詔」を出す。諸群臣は、競って仏舎(寺)を造営した。「三宝」とは、「仏・法(経典)・僧」のことである。

 595年(推古4年)、高句麗から、慧慈が渡来し、厩戸皇子の「師」とする。
同じ年、慧総が、百済から渡来する。

 596年(推古4年)、「層塔」が完成し、「中金堂、西金堂、東金堂、塔、講堂、中門、回廊」からなる伽藍が完成する。
飛鳥寺「造り意(おわる)」(日本書紀)と記されている。
蘇我馬子の子、善徳が「寺司」に任じられ、慧慈、慧聡の二人の僧は、飛鳥寺の「住持」に就いた。慧慈は、厩戸皇子の師になるために渡来したのではなく、飛鳥寺の「住持」就くことがが目的だったのであろう。

 598年、厩戸皇子、斑鳩の地に刹柱が建て、斑鳩寺の建立開始。

 605年(推古14年)、丈六釈迦如来像の造立を発願する。
高句麗の大興王は、仏像の鍍金用の黄金300両を倭国に贈った。(日本書記)高句麗僧、慧慈が本国に情報を伝えたのだろう。高句麗の倭国接近戦略である。

 606年(推古14年)、鞍作止利が銅像と繍像の丈六仏が完成、「金堂」に安置する。「金堂」は、遅くともこの頃までに完成したと考えられる。

 610年(推古18年)、高句麗の僧、曇徴・法定が来朝。

 飛鳥寺の伽藍の配置様式は、塔の周りに三金堂(中金堂、西金堂、東金堂)を配置する一塔三金堂方式で、回廊で囲まれている。この様式は、高句麗の清岩里廃寺(平壌市)に類例があるとされてきた。
これにたいして一塔一金堂方式の伽藍配置の四天王寺式は百済から伝わった様式だ。
二つの寺から出土した瓦は、百済風の瓦で、百済から渡来した「瓦博士」に対応する。

 2007年11月、百済の扶余に位置する王興寺という百済時代の寺院跡で、重要な発見が相次いだ。
 百済時代、扶余は泗沘と呼ばれ、都が置かれていた。
 百済の王によって建立された王興寺の伽藍は、発掘調査により、中央に五重塔、背後に金堂、塔の東西に付属の建物が配置されていたことが明らかになった。飛鳥寺との関係が指摘されている。
 また舎利容器や数々の工芸品が発見され、飛鳥寺の五重塔の下からの同様の遺物が発見されており、飛鳥寺と百済の仏教文化の関連性を示す貴重な手がかりとなった。
 飛鳥寺の伽藍配置も、百済から伝わったと考える方が、仏教伝来の経緯を見ると納得できる。しかし、その伽藍配置は、高句麗から百済に伝わった可能性が大きい。

 1956年の飛鳥寺遺構の発掘調査で、塔の地下式心礎から、木箱に収められた舎利容器が発見された。舎利とともに埋葬された硬玉、瑪瑙、水晶、金、銀、ガラスの玉、金環(耳飾り)などの舎利荘厳具が発掘されている。
こうした埋葬物は古墳の埋葬物と似ている。馬具や武具なども収められていたとされている。倭の独自性がある。
現在の飛鳥寺は、旧中金堂の位置に建てられている。飛鳥大仏が安置されているが、建立当時から残っているのは頭部と目や額の一部のみだ。

 厩戸皇子の建立した斑鳩寺(若草伽藍)の着工は、厩戸皇子が斑鳩宮に移住した605年とされている。(670年 焼失)
伽藍配置方式は、塔と金堂が一直線に並ぶ四天王式配置である。
再建された法隆寺は、法隆寺方式と呼ばれる伽藍配置方式だ。

飛鳥寺、斑鳩寺、四天王寺の造営順序は?
 最近の発掘調査の結果、飛鳥寺、斑鳩寺、四天王寺で使用された軒丸瓦(のきまるがわら)は、いずれも同じ「瓦笵」(がはん 瓦用の木型)で作られたいたことが明らかになっている。瓦の製作を指導したのは、588年に百済から渡来した「瓦博士」だろう
四天王寺の瓦は、飛鳥寺や斑鳩寺の瓦より一時期新しく、四天王寺の金堂は、斑鳩寺の金堂造営が一段落してから、造営されたと見られている。
三寺の造営順は、飛鳥寺、斑鳩寺、四天王とされ、四天王寺は斑鳩寺の造営が一段落してから行われたと考えられる。
 飛鳥寺、斑鳩寺、四天王の造営で、「飛鳥文化」の花が、一気に開いたのである。

「先進国家」のシンボル飛鳥寺
 600年、第一回遣唐使が派遣され、隋皇帝、文帝から「これ大いに義理なし」と叱責され、倭国は、政治制度の改革や都の整備、仏教興隆に全力を挙げて取り組む。
 飛鳥寺は、606年ごろ、金堂も完成し、伽藍全体が完成したと考えられる。鞍作鳥が制作した丈六の釈迦繍仏像も完成し安置された。
 そして、その翌年、607年、遣隋使、小野妹子が派遣される。
 唐に対して、倭国が、「先進国家」であり、朝鮮半島三国の上位にあることを認めさせるために、仏教文化の充実度を示して国力を誇示することは必須であった。
 そのシンボルとして飛鳥寺を建立したのである。
 隋は、当時、仏教全盛時代であった。

 608年、唐史、裴世清は小墾田宮を訪れたとされている。 完成して間もない飛鳥寺を来訪した可能性が大きい。壮大な伽藍で、国力を誇示する飛鳥寺のインパクトは大きかったのではないか。

外交政策を担っていた蘇我氏
 570年(欽明31年)、高句麗の朝貢使が渡来したが、越(こし、現・福井県敦賀~山形県庄内)の海岸に漂着した。ヤマト王権は、高句麗の朝貢使が滞在する賓館、「相楽館」(さがらか、相良郡、現・京都府南端)に、群臣を派遣し、貢物を調査した上で、「国書(上奏文)」と「調物」を受けた。
572年(敏達元年)、敏達天皇は、「大臣」、蘇我馬子に、高句麗の「国書」を解読するよう命じ、蘇我馬子は配下の百済渡来人、王辰爾に解読させた。
 「国書(上奏文)」はカラスの羽に書かれており、そのままでは読めないようにされていたので、誰も読むことができなかった。王辰爾は、湯気で湿らせて布に写し取るという方法で解読し、敏達天皇と蘇我馬子から褒めたたえられた。
(日本書紀)
 王辰爾は、553年(欽明14年)、蘇我稲目(そがの-いなめ)の命で、船賦(ふねのみつぎ)をかぞえ記録したことにより,船の長(つかさ)に任じられ、船史(ふねのふびと)の姓を賜っていた。
 この記述からヤマト王権の外交関係は蘇我馬子が担っていたと思われる。
 蘇我馬子は、「嶋大臣」と呼ばれた。
 飛鳥川の畔の明日香村島庄に邸宅、「飛鳥河傍」に居を構えた。 邸宅の庭に小嶋の浮かぶ池があったので「嶋大臣」と呼ばれた。「勾の池」、「上の池」など複数の池があったとされている。
 島庄にある島庄遺跡の発掘調査の結果、池は発見されたが、嶋は存在していない。謎である。

■ 難波吉士木蓮子
 飛鳥(あすか)時代の官吏。
 敏達天皇4年(575)、任那に使者として派遣され、敏達13年(584年)新羅へ使したが、至りえずして任那に赴いた。崇峻天皇4年(591)、任那を再興しようとして、紀男麻呂ら4人の大将軍が、2万余の兵を率いて筑紫に出陣したとき、任那に遣わされ任那のことを問うた。推古天皇8年(600)、新羅王が任那を攻めたとき、天皇は大将軍境部臣らを遣わし新羅を撃たしめた。新羅はわれに降伏し、六城を割いたが、天皇はさらに難波吉士神を新羅に、難波吉士木蓮子を任那に遣わして、事の状を検校せしめ、両国はわが国に貢調したとある新羅と任那があらそった際にも任那に派遣され、事情をしらべたという。

推古天皇の時代の寺院数

 624年(推古32年)、日本書紀によれば、「寺46か所、僧816人、尼569人、あわせて1385人」としている。
そのすべてを厩戸皇子建立と「聖徳太子伝私記」は記している。
厩戸皇子の時代の7世紀前半の創建された寺の遺構は、これまでに約31か所発見されているとしている。(仏教考古学の森郁夫氏)瓦葺でない簡素な「草堂」もあったと思われるので46は妥当だろう。
 その大半が畿内である。
 諸豪族は、競って寺院を造立した。

仏教が「国家宗教」に 「仏教興隆の詔」 孝徳朝
 645年(大化元年)、「乙巳の変」後、孝徳天皇は、飛鳥寺に使者を派遣して、僧尼を集め、欽明朝以来の仏教受容における蘇我氏の貢献を讃え、仏教への崇拝と普及を述べた。「仏教興隆の詔」(日本書紀 大化元年八月条)である。
 
「詔」では、「朕は更にまた仏教を崇め、大いなる道を照らし啓こうと思う」
と述べ、仏教受容の経緯を述べた。

▼ 百済聖明王の「仏教伝来」の際は、群臣は同意しなかったが、蘇我稲目のみこれを信じ、天皇は稲目にその法を奉らせた。
▼ 敏達朝でも蘇我馬子は仏教を崇めた。余臣は信じず、仏教は滅びようとしたが、天皇は馬子に法を奉らせた。
▼ 推古朝では、馬子は天皇のために、丈六の繍仏と銅仏を作った。

そして、「詔」では「仏教興隆」の仕組みを整えている。
▼ 沙門狛大法師、福亮、恵雲、常安、霊雲、恵至、寺主僧旻、道登、恵隣、恵妙をもって十師とする。別に恵妙法師を百済寺の寺主とする。
この十師は、僧侶たちを教え導いて仏教の修行を必ず法に如く行わせよ。
▼  造営中の寺で中断しているものは、朕が皆助け造らせよう。
▼ 寺司と寺主を任命する。諸寺を巡行して「僧尼、、田畑」の調査をして報告せよ。
▼  久目臣、三輪色夫君、額田部連甥を「法頭」に任じる。

 この「詔」で、「乙巳の変」以前は蘇我氏が担っていた「仏法」の統括は、大王が担い、大王が直接、寺院や僧尼を管理すると宣言したのである。
注目されるのは蘇我氏の仏教興隆に果たした業績を高く評価し、仏教興隆の歴史を飛鳥寺本尊の完成をもって締めくくっていることだ。
これまでは、僧正、僧都、律師の三人を任じる僧綱制をとっていたが、「十師」制に改め、寺院造営の援助を約束した。
飛鳥寺を始め、大勢の僧侶が集まっている場所で、蘇我氏への批判は一切言わなかった。蘇我氏の役割を大王が引き継ぐと宣言したのである。
蘇我氏を逆賊として誅殺したという日本書紀の歴史認識はとはまったくそぐわない。
孝徳天皇の「仏教興隆の詔」で、倭国は「仏教国家」の道を歩むことを内外に宣言したのである。 

蘇我氏の功績 仏教が日本の礎を造る

 当時、東アジア全体では大乗仏教の全盛期だった、中国や朝鮮半島の国々は、結局、仏教国家にはならなかった。日本だけが仏教国家として生き続けた。その礎を築いたのは蘇我氏他ならない。(梅原猛 「日本史のなかの蘇我氏」 消えた古代豪族 「蘇我氏の謎」 歴史読本編集部 角川書店)

 蘇我氏は物部氏など他の氏族から度重なる激しい反対に合いながらも、粘り強く崇仏の道を追求したのは、単に政治的な背景だけでなく、蘇我氏なりの仏教に対する強い信仰心があったのではないだろうか。
 「仏教国家」の道筋を付けた蘇我氏は、古代日本の国家の方向を決めた歴史上、最も大きな功績を上げた「功労者」である。
 「蘇我氏」は「悪者」というイメージは捨て去るべきである。


(参考文献)
「蘇我氏の古代」 吉村武彦  岩波新書 2015年
「蘇我氏四代 臣、罪を知らず」 遠山美都男 ミネルヴァ書房 2018年
「謎の豪族 蘇我氏」 水谷千秋 文春新書 2006年
「ヤマト王権 シリーズ日本古代史②」 吉村武彦 岩波新書 2010年
「蘇我氏 ~古代豪族の興亡~」 倉本一宏  中公新書 2015年
「蘇我氏四代 臣、罪を知らず」 遠山美都男 ミネルヴァ書房 2006年
「消えた古代豪族 『蘇我氏』の謎」 歴史読本編集部 KADOKAWA 2016年
「天皇と日本の起源」 遠山美都男 講談社現代新書 2003年
「飛鳥 古代を考える」 井上光定 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「飛鳥史の諸段階」 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「飛鳥 その古代史と風土」 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「大化改新 ―六四五年六月の宮廷革命」 遠山美都男 中公新書 1993
「日本史年表」 歴史学研究会編 岩波書店 1993年







2017年7月25日
Copyright (C) 2017 IMSSR



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廣谷  徹
Toru Hiroya
国際メディアサービスシステム研究所
代表
International Media Service System Research Institute
(IMSSR)
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URL http://blog.goo.ne.jp/imssr_media_2015
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遣隋使 厩戸皇子・蘇我馬子・小野妹子・裴世清は? 

2017-07-24 06:55:27 | 評論
古代史探訪 遣隋使の真実
古代日本の「国家」を生み出した遣隋使
~遣隋使の真実 厩戸皇子・蘇我馬子・小野妹子・裴世清は?~


 遣隋使、日本が古代国家の枠組みを築き上げるにあたって。極めて重要なインパクトを与えた「外交戦略」である。
 600年の第一回遣隋使派遣では、隋の高祖文帝は倭国を、「此れ大いに義理なし」と叱責した。倭国王権は大きな衝撃を受け、驚異的なスピードで国政改革に乗り出し、「冠位十二階」、「十七条憲法」、「朝令改定の詔」を制定し、新しい王宮、「小墾田宮」を造営し、「仏教興隆」に取り組んだ。
607年、第二回遣隋使に任じられた小野妹子が渡航した。再び、隋皇帝煬帝に、小野妹子が「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」と上奏したのに対し、隋皇帝煬帝は立腹し、「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じた。
 しかし、小野妹子が帰朝する際に、返使、裴世清を同行させ、初めて中国の使者が倭国に渡来した。倭国は大国、隋の「国交樹立」に成功したのである。
 裴世清の帰国に際して、小野妹子は再び、遣隋使として渡航した。
 この時、遣隋使に伴われて、僧旻、高向玄理、南淵請安など8人の留学生・学問僧が同行した。
僧旻、高向玄理、南淵請安は帰国後、「乙巳の変」の理論的指導者となったり、孝徳朝の改新政府で、政策立案に携わったりした。
改新政府の政策は律令制国家の樹立の基礎になった。
 遣隋使派遣は、明治維新政府の「開国政策」と並ぶ、日本の歴史を考える上で、エポックメーキングな事項であることに間違いない。

第一回遣隋使派遣
 600年(推古8年) 第一回遣隋使が派遣された。
 遣隋使は、推古朝の時代、倭国(俀國)が国家の仕組みや技術、仏教を学ぶために隋に派遣した朝貢使である。
 600年(推古8年)から618年(推古26年)の18年間に5回以上派遣された。
 遣隋使は、大阪の住吉大社近くの住吉津から出発し、住吉の細江(細江川)から大阪湾に出て、難波津を経て瀬戸内海を筑紫那大津へ向かい、玄界灘に出て、百済沿いに隋の都、大興城(長安)に向った。

 日本書紀には、第一回遣隋使派遣の記述がない。
 しかし、『隋書』「東夷傳俀國傳」には、倭国の遣使が隋の高祖文帝に接見した時、隋史が上奏した内容や隋の高祖文帝の問いが詳細に記されている。

 「開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 上令所司 訪其風俗 使者言俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」

 開皇二十年、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥と号(な)づく。使いを遣わして闕(けつ)に詣(いた)る。上、所司(しょし)をしてその風俗を問わしむ。 使者言う、俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未(いま)だ明けざる時、出でて政(まつりごと)を聴。跏趺(かふ、仏教における最も尊い坐り方であり、両足を組み合わせ、両腿の上に乗せる)して坐し、日出ずれば、すなわち理務を停(とど)めて云う、我が弟に委(ゆだ)ぬと。高祖曰く、此れ大いに義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。」

 この時派遣された使者に対し、高祖文帝は所司を通じて俀國の風俗を尋ねさせた。
 俀王(通説では俀は倭の誤りとする)姓の阿毎はアメ、多利思北孤(通説では北は比の誤りで、多利思比孤とする)はタラシヒコ、つまりアメタラシヒコで、天より垂下した「彦」(天に出自をもつ尊い男)の意とされる。阿輩雞弥はオホキミで、「大王」とされる。
その上で、使者は政のありかたを説明した。
 「倭王は天を兄とし、日を弟としている。日が出るまでは、倭王は跏趺(かふ 仏教における最も尊い坐り方で、両足を組み合わせ、両腿の上に乗せる)して坐し政務を行い、日が出れば、政務を止めて、弟に委ねる」とした。
日が出るまでは政務を行うが、日が出てからは、政務を止めても、自ずから国の安寧は保たれると、倭国は「徳」の高い国であることを自信を持って述べたつもりだっただろう。
 ところが、高祖文帝は、俀國のその政治のあり方が納得できず、道理に反したものに思った。そこで「此れ大いに義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ」と、改めるよう訓令したとしている。
高祖文帝は、倭国の政治の在り方を、まったく「荒唐無稽」と一蹴し、倭国の使者を叱責したのである。
倭国は、遣隋使の派遣で、倭国の存在を認めさせ、隋と「対等関係」で国交を築こうとしたと考えられる。この目論見は、もろくも崩れ、第一回遣隋使派遣は「失敗」に終わったと考えられる。
 この隋の倭国に対する見方は、当時の王権に大きな衝撃を与えた。
 推古天皇、厩戸皇子、蘇我馬子は、急ピッチで、国家制度の体制整備に乗り出す。

 日本書紀に600年の遣隋使の記録がないのは、(1)隋の皇帝から叱責され、遣隋使派遣が「失敗」に終わったのを隠すため、(2)蘇我馬子が遣隋使派遣を主導し、厩戸皇子は関わっていなかったため、がその理由として考えられる。
 筆者は、日本書紀の編者は、遣隋使の派遣を厩戸皇子の「功績」にするため、厩戸皇子が関わっていない600年の遣隋使派遣を抹殺したと考える。
 日本書紀は、蘇我氏は「悪者」、厩戸皇子は「聖者」という論理を貫いていた。

「大王」に擬せられた厩戸皇子
 「隋書倭国伝」を読む限り、どう考えても、倭国の「大王」は、「男帝」である。当時の「大王」は女帝、推古天皇、古代史の大きな謎で、未だに論争が続いている。
 筆者は、唐使、裴世清と「礼を争い」、困り果てた朝廷の「苦肉の策」と考えられる。
 当時の倭国の朝貢使を迎える儀式の慣例は、「大王」は直接、朝貢使には接見せず、朝貢使が携えた「国書」は、群臣が受け取り、その後「大王」に奏上することになっている。これに対して、隋の慣例は、「大王」が直接、朝貢使に接見をする。
 裴世清は、隋の慣例に乗っ取り、直接、「大王」に接見して、「国書」を上奏することを要求したと思われる。そうしないと隋の皇帝から遣わされた使者の役目を果たすことができないからである。裴世清にとっても「死活問題」だ。
 厩戸皇子や蘇我馬子が考え出した策は、「大王に擬する王」を裴世清に接見させ、あたかも裴世清に「大王」に接見したように思わせることだ。事前の両者の交渉で合意されていたかもしれない。(「飛鳥を訪れた裴世清」の章を参照)
 「大王に擬する王」は、明らかに厩戸皇子であろう。
 裴世清は、隋に帰朝して、高祖文帝に、まよわず「倭国の大王は男帝」と上奏したのである。
 日本書紀に記述がないのも、「記録に残したくない」事情があったからであろう。

新羅征討にこだわった倭国
 同じ年の600年(推古8年)、新羅、任那に侵攻する。倭国は任那救援の新羅征討軍を派遣した。
朝廷は、境部摩理勢を新羅討伐軍の征夷大将軍に任じた(実際には遠征していない)副将軍は穂積臣。
 新羅に1万余の軍を送り、新羅の5つの城を攻め、攻略した。
 新羅王は、降伏し、多々羅(タタラ)・素奈羅(スナラ)・弗知鬼(ホチクイ)・委陀(ワダ)・南加羅(アリヒシノカラ)・阿羅々(アララ)の6つの城6つの城を割譲し、朝貢することを約束した。(日本書紀)
 倭国は「新羅は罪を知って服従した。無理やりに撃つのは良くない」 
として、難波吉師神を新羅に、難波吉士蓮子を任那に派遣して、検校(事情を調べること事)した。
 新羅は「任那の調」を朝貢したが、再び任那を侵略する。

来目皇子、当麻皇子を将軍に新羅征討軍を起こす
 602年(推古10年)、朝廷は、厩戸皇子の同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が死去した(新羅の刺客に暗殺されたという説がある)。後任には異母弟・当麻皇子が任命されたが、筑紫に向ったが、途上、妻・舎人姫王の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。
 この新羅征伐計画は、結果として挫折したが、厩戸皇子の真意はもともと 積極的でなかったという説が、多くの論者に支持されている。新羅征伐計画は、王権の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという。
坂本太郎氏は「私はもともと仏教信仰の聖徳太子が、かような軍事行動には加勢しなかったからではないかと思う」とし、「事故が起こって、これを中止することは、むしろ聖徳太子の望む所であったのではあるまいか」(「聖徳太子」 坂本太郎 吉川弘文館 1979年)としている。
 確かに、仏教興隆を熱心に取り組んでいたとされる聖徳太子の人物像は、新羅征討という軍事的強硬策とは相いれない。
 しかし、来目皇子や当麻皇子を厩戸皇子一族から派遣しているので、厩戸皇子が新羅討伐の主導者であったことは間違いないだろう。
厩戸皇子は「仏教を厚く信仰する『平和論者』」という「先入観」に囚われるのは、史実を読み誤る懸念が大きい。
 「聖徳太子(厩戸皇子)」は「信仰としての聖徳太子」と「史実としての厩戸皇子」を峻別する姿勢が必須だろう。
 
 「厩戸皇子」の検証は、古代史の解明する上で、最大の課題である。

■ 603年(推古11年)12月5日、「冠位十二階」を制定
 氏姓制によらず才能によって人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったとされている。
 「日本書紀」では、制定者の記述がなく、「上宮聖徳法王帝説」では、厩戸皇子と蘇我馬子としている。

■ 604年(推古12年)4月3日、「憲法十七条」制定
「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」(『日本書紀』)とし、「憲法十七條(十七条憲法)」を制定した。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している
 津田左右吉などはこれを「後世における偽作である」としている。
 同じ年、「改朝禮。因以詔之曰「凡出入宮門、以兩手押地、兩脚跪之。越梱則立行」(日本書紀)とし、「朝礼」を改め、宮門を出入りする時は、「両手と地面につけ、両脚を跪く」という作法を詔によって定めた。

厩戸皇子 斑鳩宮へ遷る
 厩戸皇子が斑鳩宮に移った理由は、当時権勢をふるった蘇我馬子との対立が原因とする説明が多くなされていた。大王を中心とする中央集権国家を目指した厩戸皇子は、豪族諸臣の利益を代表する蘇我馬子との権力争いに負けて、傷心のうちに斑鳩宮に移り、政治の表舞台から身を引いて仏法に没頭したとされている。
 厩戸皇子と蘇我馬子の対立は、両者の政治的立場の決定的な相違によるものだろうか、蘇我馬子は厩戸皇子の一貫した敵対勢力だったのだろうか、疑念がある。

 斑鳩宮のような宮殿は、同母兄弟の最年長の皇子だけが、基本的に造営することが認められた。用明天皇の長子である厩戸皇子はその資格を満たしていた。
 戦前の法隆寺大修理の際に発掘調査が行われ、東院地下から掘立柱建物、石敷、井戸などが発見され、焼けた瓦や壁土も出土したことで、643年に蘇我入鹿の襲撃を受けて焼失した斑鳩宮跡とされた。
 近年、さらに「大溝」も発見され、北側にも掘立柱建物が確認された。
 斑鳩宮は最小でも1町四方の大規模な宮殿であることが明らかになった。
 斑鳩にこれほど大規模な宮殿を造立することができたのは、厩戸皇子が大王家の中で、地位・身分が上昇し、権勢が高まった結果で、厩戸皇子にはさらに大きな使命と役割が与えられたと考えられる。
初の女帝である推古天皇の王位継承者として大王を補佐し、国政に参加するのが厩戸皇子の役割であった。蘇我馬子は、推古天皇、厩戸皇子、そして蘇我氏の三者のトロイカ方式で、王権を統治するシステムを築いたのである。
厩戸皇子には、この地位にふさわしい大規模な王宮、斑鳩宮が用意された。
この「破格の待遇」を与えたのは蘇我馬子でしかありえない。
また推古天皇は小墾田宮を造営し、蘇我氏は飛鳥寺を建立した。
三者のトロイカ方式の証が、斑鳩宮、小墾田宮、飛鳥寺であった。

 厩戸皇子、王権の中で、「外務大臣」の役割で、国政に携わったと思われる。
斑鳩は、中国・朝鮮半島の外交ルートの要所、厩戸皇子が拠点を構える格好の場所であった。

 筆者は、厩戸皇子は、「仏教興隆」という課題も担っていたと考える。
厩戸皇子は、高句麗の渡来僧、慧慈を「師」として迎えた。慧慈を高句麗から招聘し、厩戸皇子に配したのは、蘇我馬子の「策」であろう。厩戸皇子に最先端の高句麗の仏教を習得させ、王権内の「仏教大臣」として、「仏教興隆」を推進させる。倭国が「近代国家」に脱皮するためには、「仏教興隆」も必須の「国策」だった。
 蘇我馬子が、斑鳩寺の建立は支援したのもこうした理由からだ。
 厩戸皇子は、政治の世界から身を引いて、「仏教」に没頭したわけでなない。倭国の国策としの「仏教興隆」を担った「仏教大臣」だったのではないか。
 さらに、厩戸皇子は、仏教だけでなく、百済の五経博士、覚哿から儒教の経典の教えも受けている。厩戸皇子は「宗教大臣」かもしれない。

 厩戸皇子の「斑鳩宮移住」は、あくまで当時の権力者、蘇我馬子との合意と支援のもとに実行されたと考えざるを得ない。

 厩戸皇子は斑鳩宮の造営で、大和川沿いに難波と大和の間の重要な交通路「滝田道」を押えた。新羅、隋への外交ルートを確保したと考えられる。
 斑鳩宮と小墾田宮の間には、「太子道」と呼ばれる西に22度傾いている斜めの道、「筋違道」で結ばれている。「筋違道」は奈良盆地を南北に走る「下つ道」・「中つ道」・「上つ道」を横切っている。
 「下つ道」・「中つ道」・「上つ道」は、条里制下に建設された東西南北の碁盤目状の主要道である。
 小墾田宮まで約20キロ、厩戸皇子は、「摂政」としての政務に当たるため毎日、愛馬の黒駒に乗って、従者の調子麿を従えて「筋違道」通ったと伝えられている。
 しかし現実には、厩戸皇子の側近や群臣が往復していたものと考えるのが自然だろう。
今も「太子道」伝説が残っている。時折、従者を連れて小墾田に向かう聖徳太子の行列が民衆の間に長く伝え告がれたのだろう。

 斑鳩宮、斑鳩寺の造営は、大王の権力の象徴となる空間を厩戸皇子の拠点に設けたということであり、推古天皇の皇位継承者として、厩戸皇子の王権への「野心」は失われていない見るべきだろう。そこには蘇我馬子との権力抗争に敗れ、斑鳩に隠遁し、仏法にいそしんだという姿は見当たらない。

■ 606年(推古14年) 鞍作止利が銅像と繍像の丈六仏を造立、飛鳥寺の金堂に安置する。
 飛鳥寺の金堂はこの頃までに完成し、飛鳥寺の伽藍全体が完成したと思われる。飛鳥寺は、倭国の「仏教興隆」の象徴だった。
 これに先立って、605年、推古天皇が鞍作止利に丈六像の造立を命じると、高句麗の大興王は、仏像の鍍金用の黄金300両を倭国に贈った。(日本書記) 高句麗僧、慧慈からの情報だろう。

遣隋使小野妹子 隋に渡航
 607年(推古15年)、小野妹子は大唐国に倭国大王の「国書」を持って渡航した。遣隋使の派遣は、600年に引き続き第二回目である。
 600年の遣隋使の記録は、「隋書倭国伝」のみに記載され、なぜか日本書紀には記されていない。
第一回遣隋使派遣の際に、隋の高祖帝は所司を通じて俀國の風俗を尋ねさせた。倭国の使者は俀王を「姓阿毎 字多利思北孤」号を「阿輩雞彌」と云うと述べ、政のありかたを説明した。ところが、高祖帝は、俀國の政治のあり方が納得できず、道理に反しているとして、「此れ大いに義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ」と訓令した。
 この隋の倭国に対する見方は、当時の王権に大きな衝撃を与えた。
遣隋使の派遣で「東の独立国」、倭国の存在を、隋に認めさせて、朝鮮半島外交に優位に立とうという目論見は崩れた。第一回遣隋使派遣は、「失敗」と、当時の支配者層は認識したと思われる。
 日本書紀に記述がないのは、こうした理由かもしれない。
 隋の反応を受けて、推古天皇、厩戸皇子、蘇我馬子は、王権の改革を急ぎ、中央集権国家としての形を整えた。「冠位十二階」、「十七条憲法」、「小墾田宮の造営」、「仏教興隆」、まさにに驚異的なスピードで、倭国の政治構造を作り上げた。
608年の第二回遣隋使派遣は、こうした「改革」を終えた上で行われた。
 再度の挑戦である。

 小野妹子が携えた「国書」は隋皇帝煬帝に宛てたもので、『隋書』「東夷傳俀國傳」にその内容が記されている。

「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)

 これを見た隋皇帝煬帝は立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じたという。
 なお、煬帝が立腹したのは倭王が「天子」を名乗ったことに対してであり、「日出處」「日沒處」との記述に対してではないとされている。
 「日出處」「日沒處」は、単に東西の方角を表す仏教用語である。
 ただし、あえて仏教用語を用いたことで、隋の「冊封体制」には入らないことを明かにしたという説もある。

返使、裴世清渡来
 翌608年(推古16年)、小野妹子は、その後、返書を持たされて、煬帝の家臣である裴世清に伴われて、帰国の途に向った。
 鴻臚寺掌客の裴世清を正史とし、12人の使節団が同行していた。
 煬帝は、「非礼な国書」を上奏した倭国に激怒したが、倭国を説諭するとして、裴世清を派遣した。しかし、その真意は、対高句麗戦略にあった。当時、隋は高句麗と抗争を繰り広げていて、高句麗の背後に位置する倭国との関係強化は必要と考たということだろう。高句麗と関係を結んでいた倭国の情勢も探りにきたと考えられる。

飛鳥を訪れた裴世清
 608年、煬帝は隋使、裴世清を派遣し、倭国に渡来した。
 裴世清は百済を経て、朝鮮半島南岸沿いに、対馬、一支(壱岐)国を経由して、「竹斯国」(ちくし)に至る。「竹斯国」は「筑紫国」と思われるが、現在の福岡市、古代の「奴国」のあたりと思われる。
 倭王は、難波吉士雄成を筑紫に遣わし、一行を出迎えさせた
 その後、瀬戸内海を航海して、十余国を通過したあと難波津に着いた。

 難波の江口では飾船三十隻が一行を歓迎した。
倭王は中臣宮地連烏磨呂、大河内直糠手、船史王平を掌客(賓客の接待にあたる官人)に任じ、難波津に遣わし、数百人を従え、儀仗を設けて、太鼓や角笛を鳴らして迎えた。大礼額田部連比羅夫が歓迎の辞を述べた。
 裴世清一行は、唐使のために新しく造られた賓館、難波館に入り、旅の疲れを癒した。
十日後に、裴世清一行は、難波津から川船で大和川を遡り、終着地、海柘榴市(桜井市金屋付近)で下船し、大和に入った。 海柘榴市では、大礼、額田部連比羅夫(ぬかたべのむらじ・ひらぶ)が、飾り馬、七十五匹二百余騎を従えて迎えた。
 海柘榴市から小墾田宮には、陸路を通って向かったと思われる。
 海柘榴市は、山の辺の道や上ツ道、山田道、初瀬街道が交差する陸上交通の要衝、物資が集まり、我が国最古の交易市場が成立していた。

 8月12日、裴世清は導者、阿部鳥臣、物部依網連抱に従って、小墾田宮の「南門」から入り、隋から持参した国信(くにつかい)の物を「朝庭」に置いた。信物は国王間で交わされる献納品で、黄金や絹などである。 裴世清は国書をもって2度再拝し、立礼で参列者に遣使の旨を奏上した。
 隋使の奏上を受けて、阿部鳥臣が進み出て、裴世清から国書を受け取り、大伴囓連が「大門」の前の机に奉じて退く。皇子、諸王、諸臣がことごとく金の髻花を頭に飾り、錦、紫、繍、織の衣服に冠位を表す五色の綾羅を付けていた。(冠位に応じた色の服とされている)

 推古天皇は「大門」の奥に位置する「大殿」に出御している。しかし、「大殿」と「朝庭」とは「大門」で隔てられているので、推古天皇がこの儀式に参列することはない。
 「朝庭」の儀式終了後、「大臣」、蘇我馬子と奏上役の群臣などが、「大殿」に参内して、大王、推古天皇や皇子に隋使の「国書」を奏上したと考えられる。
 従って、裴世清が大王、推古天皇と直接会うことはない。
 この日の儀式には、皇子、諸王、諸臣が参加していたという記録があるが、大王への接見の式次第は記録にない。

 8月16日の「朝廷の宴」が催された。「朝廷の宴」には、皇子、諸臣が参加する。大王、推古天皇も参加した可能性はある。
 2年後の新羅史の場合も「朝廷の儀式」と「宴」が催されている。
「隋書」における倭国王との接見の場は、「朝廷の宴」の可能性もある。
 この「宴」で推古天皇に、裴世清が会っていたら、倭国王は「女帝」だということを知りえただろう。しかし、この事実を裴世清が隠す理由ない。 裴世清は倭国王は「男帝」と記しているのである。
 女王、卑弥呼は、「王となりよし依頼、見ゆることあるもの少なし」といわれていた。即位依頼、その姿を見せることはほとんどなかった。
 やはり、推古天皇も裴世清の前に姿を見せることはなかったと考えられる。
 この時代の王権の「慣例」とされていたのだろう。
 一方、唐の賓礼については、「大唐開元礼」で詳しい規定があり、「蕃国」の使者は中国皇帝に国書を奏上し、献物を献上する際に、皇帝は出御する。また皇帝が開く宴には皇帝が参加する。
 皇帝本人が使者に直接、倭国の使者に問を発したかどうかは別にして、隋の皇帝に直接謁見していることは間違えないだろう。
 魏志倭人伝でも、邪馬台国の使者、難升米と牛利に、魏の明帝が引見し、労をねぎらったという記述が残されている。
 それでは、律令制度が導入される前の倭国の外交儀礼はどのようなものだったのか。
 倭国の大王は、人前に姿を現さず、7世紀では外交使節の前にも姿を現さない「見えない王」だったのだろう。
 一方、中国では、皇帝は蕃国使に謁見するのが外交儀礼だ。
 裴世清は、国書を携えて倭国を訪れた公式の使者だから、任務を果たすためには、倭国王に接見しなければならない。
 しかし、倭国には使者に謁見するという外交儀礼がない。
 632年に、遣唐使の返礼で、唐使、高表仁が訪れたが、倭国の王子と「礼を争い」、国書を奏上する機会を持たず帰国した。舒明天皇の王子と衝突したのである。
 裴世清の際は、倭国王権は、「妥協」して外交儀式を行ったのであろう。
 厩戸皇子や蘇我馬子が苦肉の策として考え出したのが、厩戸皇子があたかも「大王」のごとく、振る舞って、裴世清と謁見することだ。裴世清が帰国後、隋煬帝に上奏した「男帝」という内容と祖語はない。
 厩戸皇子や蘇我馬子が、裴世清を欺く意図はなく、裴世清が、勝手に、厩戸皇子を「大王」として誤解をした可能性もある。
 筆者は、裴世清が謁見したのは、当時の王権での外交統括、厩戸皇子で、それを企んだのは蘇我馬子だと考える。
 
 その後難波に戻り、9月5日に外交施設である難波津の大郡で宴が再び催されている。唐使への慰労と別れの宴と思われる。
 そして、9月11日、裴世清一行は帰国の途についた。その一行に、小野妹子が、僧旻(仏教と易を学ぶ そうみん)、高向玄理(学者)(たかむこのくろまろ)・南淵請安(学問僧)など8人の留学生・学問僧を同行させ隋へ渡航する。
 倭国と隋との関係はこうして一気に動き始めた。

小野妹子の「返書」紛失事件
 百済を経由して、難波に到着した小野妹子は、朝廷から遣わされた掌客で蘇我馬子の側近とされる中臣宮地連烏磨呂に、突然「返書を百済に盗まれて無くした」と伝えた。
 これを聞いた群臣は、 激怒し小野妹子を流刑に処することしたが、推古天皇は、「今は隋の使者が来ている。使者に聞こえたら朝廷の対面が損なわれる」として不問にしたという。
 百済は南朝への朝貢国であったため、倭国が隋と国交を結ぶ事を妨害する動機は存在したと思われる。
「国書紛失」の理由として、(1)百済犯行説、(2)煬帝から叱責された文書の内容が明らかになれば、大王や諸臣見せて怒りを買う事を恐れた妹子が、返書を破棄してしまったという説、(3)聖徳太子と相談して失書を演出したとする説、(4)国書は二種類あり、正式な国書は裴世清が持参してきたが、それとは別に煬帝の叱責を記した返書は妹子に託されたとする説、などがある。
 しかし、小野妹子は、裴世清一行の帰国に際し、再び送迎使節の大使に任じられ、裴世清たちを隋都大興城まで送っている。二回にわたる遣隋大使の大役を果たした妹子は、帰国後、「冠位十二階」では第5位の「大礼」から第1位の「大徳」に昇進した。「大徳」とは、「冠位十二階」の最高位である。失書事件を犯した人物が、「大徳」に任じられるはあり得ない。
 厩戸皇子、蘇我馬子の同意の上での「盗難」事件としたというのが妥当だろう。
その真偽は明らかでない。

「倭王」「天皇」問題
 日本書紀によると裴世清が携えた書には「皇帝問倭皇」(「皇帝 倭皇に問 ふ」)とある。これに対する倭国の返書には「東天皇敬白西皇帝」(「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す」と記されている。
これを「天皇」の呼称が史料に最初に現れたとして、これをもって「天皇」の呼称の使い始めとする説がある。しかし、他の史料では、「天皇」の呼称は見られないことから、日本書紀の編者が、隋が「倭皇」とした箇所を「天皇」と改竄したとも考えられている。

 「皇帝問倭皇 使人大禮 蘇因高等至具懷 朕欽承寶命 臨養區宇 思弘德化 覃被含靈 愛育之情 無隔遐邇 知皇介居海表 撫寧民庶 境內安樂 風俗融合 深氣至誠 遠脩朝貢 丹款之美 朕有嘉焉 稍暄 比如常也 故遣鴻臚寺掌客裴世清等 旨宣往意 并送物如別」(日本書紀)

 「皇帝、倭皇に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、みずからの徳をひろめて、すべてのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したというこころに、遠い近いの区別はない。倭皇は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う。」

 唐側の史料では「倭皇」となっており、「倭王」として「属国の臣下」扱いにはしていないことが明らかである。『日本書紀』によるこれに対する返書の書き出しは「東の天皇が敬いて(つつしみ)西の皇帝に白す」(「東天皇敬白西皇帝」)『日本書紀』とある。

 裴世清に随行して、遣隋使、小野妹子や吉士雄成などが再び渡航した。(第三回遣隋使)
 この時、留学生として倭漢直福因(やまとのあやのあたいふくいん)・奈羅訳語恵明(ならのおさえみょう)高向漢人玄理(たかむくのあやひとくろまろ)・新漢人大圀(いまきのあやひとだいこく)、学問僧として新漢人日文(にちもん、後の僧旻)・南淵請安など、8人の留学生・学問僧が同行した。

新羅、「任那」朝貢再開
 610年、新羅は「任那」(金官伽耶)の使者を伴って朝貢をした。当時、新羅は「任那」(金官伽耶)を占拠し、「任那」(金官伽耶)は新羅の支配 下にあった。
 新羅は、「任那」(金官伽耶)が、「独立国」として存在するように装ったのである。
 この背景として、倭国の遣隋使の派遣を受けた隋が新羅を諭したとされている。
 いずれにしても新羅は占拠していた「任那」(金官伽耶)に対する倭国の権益を認め、両国は揃って「任那の調」を再開した。
 遣隋使の派遣で、倭国のプレゼンスを朝鮮半島諸国に見せて優位に立つという戦略は、「任那の調」復活では成功したようである。

■ 610年(推古18年) 第4回遣隋使を派遣する。(『隋書』煬帝紀)
 日本書紀には記述がない。
■ 614年(推古22年) 第5回遣隋使、犬上御田鍬・矢田部造らを隋に遣わす。
■ 615年(推古23年) 犬上御田鍬が帰国する。その際に百済使、犬上御田鍬に従って渡来する。(『日本書紀』)

 『隋書』煬帝紀に記述がない。隋が混乱していて、遣隋使は、大興城(長安)までたどり着かなかった可能性がある。
■ 618年(推古26年) 隋滅滅亡。
 隋の二代皇帝煬帝は南北に通る大運河を開き大規模な外征を行なったが、3度に渡る高句麗遠征に失敗し、土木工事や外征の強行に対する不満から民衆の反乱が各地で起きて、618年に滅亡し、唐王朝に代わった。
 
 最後の遣隋使の派遣から16年後、630年、最後の遣隋使、犬上御田鍬は第1回遣唐使に任じられ渡航する。遣隋使は遣唐使に受け継がれていった。
 622年、厩戸皇子は死去し、645年、蘇我蝦夷と蘇我入鹿も、「乙巳の変」で王権の舞台から消え去り、新たな時代が始まる。
 そして、ついに、663年、倭国と唐は、「白村江の戦い」で激突する。



(参考文献)
「蘇我氏の古代」 吉村武彦  岩波新書 2015年
「蘇我氏四代 臣、罪を知らず」 遠山美都男 ミネルヴァ書房 2018年
「謎の豪族 蘇我氏」 水谷千秋 文春新書 2006年
「ヤマト王権 シリーズ日本古代史②」 吉村武彦 岩波新書 2010年
「蘇我氏 ~古代豪族の興亡~」 倉本一宏  中公新書 2015年
「蘇我氏四代 臣、罪を知らず」 遠山美都男 ミネルヴァ書房 2006年
「消えた古代豪族 『蘇我氏』の謎」 歴史読本編集部 KADOKAWA 2016年
「天皇と日本の起源」 遠山美都男 講談社現代新書 2003年
「飛鳥 古代を考える」 井上光定 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「飛鳥史の諸段階」 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「飛鳥 その古代史と風土」 門脇禎二 吉川弘文館 1987年





2017年7月21日
Copyright (C) 2017 IMSSR



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廣谷  徹
Toru Hiroya
国際メディアサービスシステム研究所
代表
International Media Service System Research Institute
(IMSSR)
President
E-mail thiroya@r03.itscom.net  /  imssr@a09.itscom.net
URL http://blog.goo.ne.jp/imssr_media_2015
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美濃加茂市長に無罪判決 逆転有罪判決 検証・メディアの報道姿勢 

2016-11-28 18:44:25 | 評論
岐阜・美濃加茂市長に無罪判決、逆転有罪判決、
そして出直し選挙で再選
検証・メディアの報道姿勢




美濃加茂市長選、上告中の藤井浩人氏再選
 2017年1月29日、受託収賄罪などに問われ、逆転有罪判決を受けた岐阜県美濃加茂市の藤井浩人・前市長(無所属)の辞職に伴う“出直し”市長選挙で、藤井氏が新人の市民団体代表・鈴木勲氏(72)(無所属)を破って再選を果たした。
 投票率は57・10%。
 「多くの方にしっかりやれと激励され、責任の重さを感じている。信を得たと胸を張って市長職を全うしたい」。当選が決まると、藤井氏は事務所に集まった支持者らを前に、笑顔で語った。
 最高裁に上告中の藤井氏は「裁判を闘いながら市長を務めることへの信を問う」として昨年12月19日に辞職。「少しも後ろめたい点はない。現場第一主義で、市民の生の声を聞いてきた」などと判決に触れながら実績を強調し、高い知名度を生かして着実に浸透した。鈴木氏は「予算編成の重要な時期に強引に辞職するのは市政の私物化。藤井氏に市長の資質はない」と訴え、批判票の結集を図ったが、支持を広げることはできず、及ばなかった。(読売新聞 1月30日)
 公職選挙法の規定で、藤井氏の任期は1期目の残りの6月1日まで。5月にはまた市長選が行われるが、当選しても、有罪が確定した場合は失職する。
 
美濃加茂市長に逆転有罪 名古屋高裁
 2016年11月28日、岐阜県美濃加茂市の市長が浄水設備の導入をめぐり業者から現金を受け取ったとして受託収賄などの罪に問われた裁判で、名古屋高等裁判所は1審の無罪の判決を取り消し、執行猶予のついた懲役1年6か月の有罪を言い渡した。
 岐阜県美濃加茂市の市長、藤井浩人被告(32)は市議会議員だった平成25年4月、プールの浄水設備の導入をめぐって便宜を図った見返りに、名古屋市の業者から現金30万円の賄賂を受け取ったとして受託収賄などの罪に問われていた。
 1審の名古屋地方裁判所は去年3月、「現金を渡したとする業者の供述は不自然で信用できない」として無罪の判決を言い渡し、検察が控訴していた。
 2審でも業者の供述の信用性が争点となり、市長側は「業者の供述は変遷しており虚偽だ」と主張する一方で、検察は「現金の準備やメールのやり取りなど客観的な証拠から供述の信用性は高い」とした。
 28日の2審の判決で、名古屋高等裁判所の村山浩昭裁判長は1審の無罪を取り消し、懲役1年6か月、執行猶予3年、追徴金30万円の有罪を言い渡した。
 判決のあと、藤井市長は会見を開き、「現金の授受は一切ないので、裁判所の判断は受け入れられない。きょうは市民に『やっと裁判は終わった』と報告できると思ったが、このような結果になってしまった。私自身は、今後も戦いながら市長を続けたいと思っている。地元に戻って、市民に自分の気持ちをしっかり説明したい」と述べた。
 また、弁護団長の郷原信郎弁護士は「予想外であり、到底承服できない判決で大変、驚いている。全く許しがたい判決で、直ちに最高裁判所に上告する手続きをとりたい」とした。
(出典 NHKニュース 2016年11月28日)


捜査あり方が問われる
 3月5日、岐阜県美濃加茂市の雨水浄化設備設置事業を巡る贈収賄事件で、業者から30万円を受け取ったとして受託収賄罪などに問われた藤井市長(当時は市議会議員)に対し、名古屋地裁は、無罪の判決を下した。
 一方で、贈賄側の「元社長」は、起訴された藤井市長への贈賄容疑をすべて認め、すでに判決が確定しているという、贈賄側の判決と収賄側の判決が正反対となる異例の事態となった。
  裁判所は、今回の判決で、贈賄を認めた「経営コンサルタント会社社長」の供述について、「信用性に疑問があり、その他の証拠を考慮しても、現金授受があったと認めるには、合理的疑いが残る」と述べた。
 起訴状では、藤井市長は美濃加茂市議だった2013年3~4月、名古屋市の設備会社社長(贈賄、詐欺罪などで実刑判決確定)から、市立学校への浄化設備の導入に協力を依頼され、担当者に検討を促すなどした見返りに現金を受け取ったとされていた。藤井市長の公判は、藤井市長に金を渡したとする社長の供述の信用性が争点となっていたという。
 藤井市長は、28歳で全国最年少の市長として注目を集めた、その市長が2014年6月、受託収賄罪などで逮捕される。現職の市長が逮捕されるのは極めて異例である。8月後、保釈請求が認めら公務に復帰したが、保釈の条件に、前代未聞の「30人の接触禁止」が付けられた。その中に副市長も含まれており、市議会では、市長と副市長は、5メートルも離れて座っていたという。
 そして無罪判決。警察や検察の捜査のあり方や姿勢が厳しく問われてしかるべきだ。

焦点の「現金接受の信用性問題へのメディアの報道姿勢
この判決について、各メディアは、各社とも大きく扱って報道し、解説を加えた。
 報道内容は、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、産経新聞、NHKニュース、報道ステーション、ニュース23ともほぼ同様の問題点の指摘をしていた。
 第一点は、裁判で争われた「現金接受」の信用性の問題点である。
 贈収賄事件は、一般に、物証がほとんどなく、立証が難しい。
 今回の裁判では、「現金接受」が本当にあったのかどうかが焦点になった。
 「現金接受」については、「会社社長」の供述のみで、「物的証拠」はない。しかし、肝心の供述が曖昧で、当初は、現金を渡したのは、藤井市長と2人だけの会食の場と供述。しかしその後は3人だったと変更した。また現金を渡した回数も2回に変わり、1回目については、「よく覚えていない」とした。また検察側は、「会社社長」の金融機関の出入金記録や、藤井市長とのメールのやりとりなども証拠として提出し、十分、供述は信用できるとした。
 しかし判決では、供述の信用性について、「賄賂と認識して現金を渡す行為は非日常的で強く印象に残るはずなのに、曖昧だったのは不自然」と指摘。「供述は変遷していると言わざるをえない」としている。
 また、法廷で、捜査段階で供述が変遷した理由を聞かれると、会社社長は「当初ははっきり覚えていなかった。警察の取り調べでメールや資料を見せられて思い出す作業をした」と証言した。
 この点について、各メディアの記事とも、曖昧な「供述」に頼り、合理的な説明ができなかった検察の対応を問題視していた。

 しかし、各社の記事やニュースを見ても、「会社社長」の「現金接受」に係る供述がどのようになされて、どのように二転、三転していったのか良く分からない。公判を継続的に取材していた記者は分かっているだとうが、読者や視聴者には理解できないだろう。この判決の重要なポイントだけに丁寧な解説が必要と思われる。
 
 その中に、筆者が評価したいのは、日本テレビのいわゆるワイドショー「スッキリ!」である。しっかり、約25分もの時間を割いて、この判決の内容を、ゲストの弁護士と共に分かりやすく伝えた。
 この番組を見て、「現金接受」に関する「会社社長」の信用性がいかに無いかが良く分かった。
 「スッキリ!」によると、「会社社長」当初、「賄賂を渡したのは一度」としていたが、「二度に分けて渡した」と証言を変えた。また「現場にいたのは『会社社長』と藤井市長の二人」としていたが、「同席者がいて3人」に変えた。さらに「現金接受」は、「同席者」が席を外した時に行ったとしたが、「同席者」は「一回も席を離れていなかった」と証言した。
 筆者は、ワイドショーも最近、よく視聴する。かつてのワイドショーは、芸能ネタばかりだったという印象が強い。しかし、ここ数年は、ニュースを、ニュース番組も顔負けにしっかり報道する。最近では、川崎・中学生殺害事件だ。ワイドショー的な演出は、ニュース番組より、分かり易さと見やすさを視聴者に与えている。時折、放送倫理上脱線もないわけではないが、その親しみやすさも求める「貪欲な」姿勢は、筆者は大いに評価したい。二回も三回も読み直さないと理解できない新聞記事はその発想を学ぶ必要があるのではないか。

「会社会長」の「虚偽の供述」をした動機をどう見るか
 第二点は、「会社会長」の「虚偽の供述」をした動機である
 「会社社長」は贈賄の供述を始めた昨年3月、1000万円の融資詐欺事件で起訴され、余罪についても追及されていた。判決では、この事件での余罪の立件を免れるため、中林受刑者が虚偽の供述をした可能性も指摘した。「捜査機関の関心を他の重大な事件に向けようとして、虚偽供述した可能性は十分考えられる」と結論付けている。
 テレビ朝日の報道ステーションでは、「事実上の司法取引的なこともあって」こういう流れができたのかどうか」の「会社社長」と検察との間で何らかの「取引」があった懸念を古館キャスターが指摘している。「会社社長」と検察の間でどんな話があったのか、なかったのかは、国民は知る由もない。
 また産経新聞(3月6日付け朝刊)は、「見立てから引き返す勇気」の教訓を見つめ直せ」という見出しで、「捜査当局は今一度、虚心坦懐(たんかい)に自らの捜査手法を見つめ直す必要もあるのではないか」と論評している。
 この裁判が極めて「異常」な展開を見せている以上、裏でなにがあったか、なかったか知りたいと思うのは筆者だけではないと思う。厚生労働省元局長の郵便不正事件への無罪判決やそれにからむフロッピーディスク(FD)改ざん事件、東電社員殺害再審無罪判決など、検察の姿勢がここ数年、問題化している中で、新聞、テレビ、雑誌等メディアはこの問題をしっかり検証し続ける必要があるのではないか。

「政治倫理」の観点から検証を
 贈収賄の立件要素には、「請託」、「賄賂の接受」、「職務権限」である。
 この内、「賄賂の接受」についてだけが、裁判で争われた。
 しかし、もう一つ大きな問題、「請託」については、まったく報道されていない。
 筆者には、「請託」があったのか、あったとすればどんな内容か、それを裁判所はどう判断したのか伝えていない。
朝日新聞には、「(会社社長が)『何でもご遠慮なく相談下さい』と送ったメールは『さまざま解釈ができる』」という記述があるが、判決で「請託」に関してどう判断したか分からない。
 仮に「請託」があったことが認定されたとすれば、藤井市長の政治責任は厳しく問われるべきではないか。「現金接受」があろうがなかろうが、公共事業を巡って「請託」があった相手の「会社社長」とレストランで飲食し、これに関連した会話をしたとすれば、政治家として余りにも軽率である。単に「陳情」を聞いたと釈明するのだろうか。
 この問題は、贈収賄事件として立件できたたかどうかと別問題である。藤井市長は、美濃加茂市のトップ、政治倫理を率先して守らなければならい一人である。「無罪」判決で喜んでいる場合ではない。
 この判決の報道を巡って、藤井市長の政治責任に言及した記事は見当たらない。
 司法の問題だけに収斂したメディアの報道姿勢にも問題があるのではないか。



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2015年3月6日(2017年1月30日改訂)
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廣谷  徹
Toru Hiroya
国際メディアサービスシステム研究所
代表
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大川小学校の悲劇 検証・大川小学校事故報告 検証はまだ終わっていない 東日本大震災4年

2016-10-23 20:17:56 | 評論
大川小学校の悲劇 検証・大川小学校事故報告
検証はまだ終わっていない 東日本大震災4年


 それは悪夢のような一瞬の出来事だった。

 宮城県石巻市大川地区。悠々と流れる北上川、田園と周辺の山並み、豊かな自然に育まれたた穏やかな光景が広がる。女川町から、海岸線沿いに南三陸町抜ける国道398号線が通る交通の要所でもある。北上川を架かる新北上大橋はこの河口付近で唯一の橋である。
 日本海の河口までは、約4キロメートルだ。
 この地区の中心になっていたのが、石巻市立大川小学校。円形のモダンなデザインの2階建の校舎で、在校生108人。地域の人々に愛着を持たれ、見守られてきた学校だったという。
 小学校のある場所は、北上川の右岸の堤防のすぐ脇の低くなっている平地で、大川地区釜谷の集落の真ん中にある。学校からは、堤防に遮られて北上川は見えないし、海岸線も見えない。

 あの日、この小学校に、北上川を遡上してきた大津波が襲った。10メートルを超える巨大津波、地震発生の約50分後だった。

 学校の校庭に集合していた子供たちは、近くの「三角地帯」と呼ばれる小高い場所に避難を始めていた。その最中、子供たちの列を巨大津波が襲った。子供たちは瞬時に津波にのまれ、そして74人の児童が犠牲になった。あまりにも悲惨なできごとだった。
 東日本大震災で、これだけの大きな犠牲が学校でおきたのは大川小学校だけである

 大川小学校には、震災から四年を過ぎた今も、犠牲になった子供たちに手を合わせようと訪れる人が後を絶たない。県外から震災の教訓を学びに訪れるグループや視察に来る防災関係者が、大型バスでやってくる。
こうした人たちに対する案内役は、津波で子供を失った親が努めることが度たびあるという。
 遺族たちが伝え続けたているのは「命の大切さ」である。
 「今 生きているこの日々は、震災で亡くなった2万人の人たちが生きていたであろう、生きたくてしかたがなかった、生きたかった日々を私たちは生きている」(NHKスペシャル 『悲劇をくり返さないために ~大川小学校・遺族たちの3年8か月~』)と語っていた。

 「なぜ多くの子供たちが犠牲になったのか。なぜ50分の時間がありながら逃げられなかったのか。なぜ大川小学校だけなのか。」
 その原因の解明が、必ずしもすべて済んでいるとは言えない。まだ多くの点が分かっていない。
 二度と同じ悲劇を繰り返さないために、原因解明をさらに進めて、大川小学校の悲劇を教訓として語り継ぐべきである。それが、犠牲になった子供たちの命に報いることになるのではないか。

■ 校庭に避難した子供たち
2011年3月11日14時46分、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の地震が発生した。大川小学校ででも、激しい揺れに襲われ、教室にいた児童や教職員は大駆け足で校庭へ避難した。余震で建物の倒壊の危険もあった。校庭で教師の点呼を受けて、児童は整列して待機したが、中には、はだしでのままの子供や、頻繁に遅い余震の恐怖で泣いていたり、気分が悪くなって吐いていた子供もいたという。学校に子供たちを迎えにきた保護者に、子供たちを引渡し、27名が学校を離れた。ほかの児童は、校庭に並び、寒さと恐怖に襲われながら、指示を待った。
地震発生後、3分後には、気象庁は「大津波警報 予想津波高6メートル」を出した。その3分後、防災無線で「大津波警報」が流される。この時点で、学校側も「大津波警報」が出されたことを知ったと思われる。大川小学校には、防災行政無線の子局が設置されており、聞こえたという証言もある(大川小学校事故検証報告書 2014年2月)

 一方、学校には、周辺の釜谷の住民も駆けつけていた。中には、学校の体育館に避難をしてきた釜谷の住民もいた。石巻市の「防災ガイド・ハザードマップ」では、大川小を地区の住民の避難所として「利用可」としている。学校側は体育館が地震で被害を受け、避難所としては危険で使用できないと説明し避難者は受け入れなかったという。

15時14分には、「予想津波高10m」に変更された。当初は。テレビだけで放送、その後ラジオでも放送された。但し、防災行政無線では伝えたかどうか分からない。
また、河北消防署の消防車や石巻市役所河北総支所の公用車が「大津波警報」を伝えながら大川地区を通行している。
 こうした「大津波警報」を、学校側がどこまで把握していたか定かではない。


■「裏山」になぜ逃げなかったか
 教師たちは、何度も校舎内へ再び入って、寒さに震える子供の上着や靴などを持ち出し、子供に配ったり、お手洗いに連れて行ったり子供たちの世話に奔走していた。
この日は、大川小学校の校長は休暇で休んでおり、教頭が緊急対応の指揮をとっていた。
学校に駆け付けた住民や、助かった児童など複数の証言で、「校庭では危ないから、裏山に逃げよう」とう声が子供たちからも上がったという。「俺たちいつも裏山に上っている。ここにいたら死ぬ」と訴えていたという。実際、裏山に上ろうとして、教師に連れ戻された子供もいたという。これに対し、教師側は、「裏山に逃げよう」という声や、その一方で「学校にいた方が安全だ」という意見も出ていたという。教頭は、「この山に子供たちを上がらせても大丈夫でしょうか?」「崩れる山ですか?」と、住民に問いかけていたという。住民たちは、「ここまで津波が来るはずがないよ」「大丈夫だから」と答えていた様子だったという。学校側と住民との間で裏山への避難を巡って口論になったという証言もあるという。
 こうした混乱状況の中で、緊急対応の責任者の教頭は、何も答えず、新たな指示を出さなかったと思われる。
裏山には登る道がなく、登るは危ないと考えたかもしれない。しかし、事故後の調査委によれば、「体育館の裏手の山には登ったことがある」とか、「登っている様子を見たことがあるので登れると思っていた」と答える子供たちがかなりいたのである。
また震災の前の年には、3年生の社会科授業で、教師と子供たきが裏山に上っていたり、授業の一環として裏山でシイタケ栽培をしていたこともあったという。子供たちが「山に逃げよう」と言ったのも、極めて信用性が高いと思われる。
 一方で、激しい揺れで、裏山の木が倒れていたという証言もある。
 しかし、事故調査員会が実施した「現地調査において確認された多数の倒木は、震災以前から倒れていると考えられるものも含めて、強風等を原因として発生したものとみなされる」(大川小学校事故検証報告書 2014年2月)としている。地震による地割れ、土砂崩れの形跡も見当たらないため、地震による倒木はなかったと思われる。
 要は、津波襲来の危機感をどれくらい認識していたかだろう。
 裏山に「大勢の子供たちを登らせて、怪我をさせたらどうするのだ」とか「ドロだらけになって服が汚れたらどうするのか」、「津波がこなかったら誰が責任をとるのだ」という思いが教頭や教師の頭をよぎり、判断を迷ったのは容易に想像できる。子供たちの安全を守ることは重要だが、緊急時は違う。日ごろの「事なかれ主義」が「とっさの」判断を躊躇させたと言えるのではないか。「命」に係わる問題なのだ。
 その一方で、スクールバスは、なんと学校に待機していたのである。

■ ただ一人生き残った教師の手紙
 現場でどのような議論が交わされたか、学校側は何をしようとしたのか、住民は何を主張したのか、関係者のほとんどが犠牲になっているため、今となっては、完全に明らかにするのは難しい。
 その時校庭にいて、一部始終を知っているのは、奇跡的に生き残った教師1名と児童4名だけである。
 生き残った教師は、子供たちの保護者と大川小学校校長あてに書いた手紙(2012年6月3日付)が新聞に掲載されている。
この教師は、裏山にとっさに避難して奇跡的に命を取り留めたが、現在は休職中だという。
 手紙の中で、「何を言っても、子供の命を守るという教師として最低のことが出来なかった罪が許されるはずはありませんが、本当に申し訳ございませんでした。今はただただ亡くなられた子供達や先生方のご冥福をお祈りする毎日です。本当に申し訳ございません」と犠牲になった遺族や関係者に謝罪した。
 また、校庭で避難を巡ってどんなやりとりがあったのかその一部が明らかになった。
 「サイレンが鳴って、津波が来ると言う声がどこからか聞こえて来ました。私は校庭に戻って、教頭に『津波が来ますよ。どうしますか。危なくても山へ逃げますか』と聞きました。でも、何も答えが帰って来ませんでした。それで、せめて、一番高い校舎2階に安全に入れるか見て来るということで、私が1人で2階を見て来ました。戻ってくると、すでに子供たちは移動を始めていました。近くにいた方に「どこへ行くんですか」と聞くと「間垣の堤防の上が安全だからそこへ行くことになった」ということでした。どのような経緯でそこへいくことになったかは分かりません」
そして、最後に、「最後に山に行きましょうと強く言っていればと思うと、悔やまれて胸が張り裂けそうです」と綴っている。

■ 津波に襲われた74名の子供たちと11名の学校関係者
 15時32分、ラジオで「大津波警報 予想津波高10m」が伝えられた。多分、学校関係者はこの情報を聞いて、校庭から約200メートルほど離れた新北上大橋のたもとにある「三角地帯」と呼ばれる小高い丘に避難を決断した。小高いとはいっても、大川小学校の屋上程度の高さしかなかった。
北上川では、巨大な濁流がすでに猛烈な勢いで遡上して様子が住民に目撃されている。
 先導の教師を先頭に児童74名が列を組んで、釜谷地区の集落の中を進んでいった。
 出発して間もなく、「ゴーッ」というすさまじい轟音とともに、北上川の堤防を越えて巨大な津波が子供たちを襲い、濁流が渦巻いた。
 濁流は、大川小学校の屋上を超え、「三角地帯」もゆうに越えていた。
 列の後ろにいた児童4人と教師1人は、裏山に駆け上って、奇跡的に助かった。
 児童70名、学校関係者1名が犠牲となる悲劇だった。

 6年生の息子を失った母親は、「ちゃんとそれを知りたいだけなんですね。そうするとたぶん亡くなった息子に対してもちゃんと報告して供養になるじゃないかと思って。誰が悪いとかそういうわけじゃなくてどういう過程でそういうふうになったか、その理由なんですね。だから決して人を責めたりするのは息子も喜ばないと思うんで」とインタビューに答えていた。(NHKスペシャル 『悲劇をくり返さないために ~大川小学校・遺族たちの3年8か月~』)
 多くの遺族が、なぜわが子が犠牲になったのか、納得のいく説明を得られないままでいるのだ。


■ 「まさか、津波に襲われる………」 欠如した津波への危機感
 釜谷地区には、地震発生時、住民や働いていた人、来訪者など232人がいた。このうち197人が死亡した。死亡率78%にも及び、大きな犠牲をだした。
 大津波に襲われるとは、思ってもいなかったのであろう。
 地元にある釜谷交流会館に避難した人や大川小学校に避難しようとした人がいたという。住民が地元に留まっている様子は、大川小学校の教頭や教職員も知っていたと思われる。「地元の人も避難しないのだから、ここにいれば安全」、そんな根拠がまったくない思い込みが学校側の関係者に生まれていたもの無視できないのではないか。
 事故調査員会では、2013年8月から10月にかけて、大川地区・北上地区住民を対象に津波についての意識についてアンケート調査を実施した。
 その結果、「あまり心配していなかった」と「まったく心配していなかった」が70%以上を占めた。
また、震災の前年の2010年2月28日に南米チリで発生した地震に伴う「大津波警報が発令された際に、避難場所へ避難したかどうかについて尋ねた。大川地区では「自宅にいた家族は誰も避難しなかった」が70%前後に及んだ。
 この地区の住民の意識の中に、津波の脅威を認識している人はほとんどいなかったと考えられる。
 また教職員に対する調査でもほとんどが、「あまり心配していなかった」と「まったく心配していなかった」だった。
(以上 大川小学校事故検証報告書 2014年2月)
 こうした意識調査からは、学校側、住民、ともに津波に対する警戒感がほとんどなかったと思いわれる。「ここがまさか、津波に襲われるとは……」、正直な本音であろう。
 大川小学校の事故原因の最大のポイントは、こうした津波に対する危機感の欠如、「まさか……」という意識だったと考える。そして「空白の50分」が作り出され、避難が決定的に遅れて、悲劇が生まれたと思う。

■ 学校にいた全員が助かった門脇小学校
 大川小学校の悲劇と対比されるのは門脇小学校である。
 門脇小学校は、同じ石巻市の旧北上側の河口付近の海岸線沿いにある児童数約300人の学校である。
 この門脇地区は、東日本大震災発生の約15分後津波の第一波が押し寄せ、その約30分後には高さ6.9メートルの大津波に襲われた。
門脇小学校は、地震直後の津波警報発令の一報を知ると、すでに下校していた児童を除き、約240人を誘導し、学校の裏の高台の日和山公園にいち早く避難させた。かねてから訓練していた通りの避難行動である。児童が避難するに際しては、児童を引き取りに来た保護者も同行させた。
海岸線が近いため津波到達時間は早い。一刻の躊躇も許されなかった。高台に全員避難すると、間もなく「ゴーッ」という轟音と共に、濁流が街を覆い、電柱をなぎ倒し、住宅を押し流していたと関係者は証言する。
 地震発生時、校内にいた児童は全員が助かったのである。
地震発生2日後の13日、児童は別の場所に避難していた親や家族と再会し、抱き合って無事を喜んだという。
しかし、避難前に保護者に引き渡した児童9人の安否は確認できなかった。
また、学校に避難して来る住民のために校舎に残った教職員も、住民約40人と校舎裏側から間一髪で脱出した。
  門脇小学校の校舎は、濁流で流されてきた自動車がぶつかる音が鳴り響き、漏れたガソリンに引火したとみられる火災が起き全焼した。
 門脇小学校では、海岸線からわずか800メートルという場所にあるため、日頃から津波への備えを行い、避難訓練もしっかり実施していたのである。

■ 問われる津波への備えの甘さ 行政の責任
 石巻市の地域防災計画では、宮城県の「第三次地震被害想定調査」に示された宮城県沖(連動)を想定地震とし、この想定に基づいた津波浸水予測図を用いてハザードマップが作成され、地区の住民に配布されていた。大川小学校は、津波の予想浸水域からまったく外れており、むしろ津波災害時の避難所に指定されていた。
 このことが、津波災害に関して、逆に「安心情報」となってしまった懸念が生まれる。ハザードマップは一定の想定のもとに作成されたもので、想定した地震の規模を上回る地震が発生した場合にはまったく意味がないことをしっかり理解しなければならない。「まさか……」という思い込みが生まれ、避難行動などに遅れが生じる。「想定を超える自然災害」はいつでも起きる可能性があるのだ。
 また大川小学校の立地・校舎設計に際しては、洪水や津波は想定されていなかった。
 大川小学校では、事故の約1年前のチリ地震による津波警報(大津波)発表時に避難所が開設され、事故2日前の地震の際には児童・教職員が校庭へ避難した。教職員間で地震・津波の際の対応が話題となっていた。

■ 大川小学校の校長と石巻市教育委員会の対応が問題
 大川小学校が津波に襲われた日に休暇で不在だった校長が大川小学校の現地に初めて入ったのは3月17日、震災発生から2か月後だった。余りにも遅い。
 地震当日は、校長は、釜谷地区に入ろうと試みてはいる。しかし、北上川堤防に向かう道路は大渋滞で、通行不能と判断してあきらめる。釜谷地区の対岸にある石巻市河北総合支所総合センター・ビックバンに向かい、教育委員会に連絡をとろうとした。しかし、電話は通じなかった。ビックバンで一夜を明かし、情報収集を行った。その後も、ビックバンや河北総合支所、警察署、遺体安置所を回り、情報収集をしたという。事故調査員会報告書によれば「ビッグバンには、子どもの安否が不明の中で待ち続ける保護者が多数いたが、校長は、生存児童には話しかけるものの、これら保護者にはほとんど声を掛けることもなかったという証言がある」と記されている。教育委員会への電話は、相変わらず通じなかったという。初めて事故について報告があったのは、3月15日、2か月以上経ってからである。生存者の数だけ記された簡単な報告だった。3月16日、初めて校長が石巻市教育委員会を訪れ、翌日、初めて大川小学校を訪れる。
(大川小学校事故検証報告書 2014年2月)

 犠牲者や行方不明者の把握、救助活動の支援に全力を挙げるのは校長として当然の責務である。勿論、石巻市教育員会にいち早く報告するのは必須だろう。余りにもお粗末である。
 教育委員会の報告が適切にされていたなら、教育委員会の認識も違うものになり、事故に対する対応策が違ったものなったかもしれないという期待は残る。

 震災当時、教育委員会の体制も問題があったと思われる。教育長が病気休暇中で、教員出身ではない事務局長が教育長代理を務めていた。「各学校の状況の把握、迅速な意思決定、学校現場への指示などに一定の否定的な影響を及ぼした可能性がある」と事故調査員会の報告書では指摘している。また「震災の約1週間後には大川小学校の被害状況が特に大きいことが明らかになってきたのであるから、石巻市教育委員会はその被害状況に対応した対策本部を立ち上げ、対策を打ち出すべきであったと考えられる。そして石巻市教育委員会がそのような対策をとっていれば、遺族・保護者との関係ももっと変わったものになっていた可能性がある」とも指摘している。


■ 立ち上がった遺族 石巻市教育員会の第一回説明会
 犠牲になった子供たちの遺族は、「なぜ逃げられなかったのか」疑念がどう。しても残る。
「あの日、何があったのか知りたい」、学校側に説明会の開催を求めた。

 2011年4月、石巻市教育員会は、初めて「保護者説明会」を開催し、教育委員会からは事務局長と学校教育課長等が出席した。
 説明会の狙いは、今の時点で把握している情報を説明することと保護者の要望を聞くということだったという。直前になって、急遽、ただ一人生き残った教師も出席することになった。教師は、当日の状況について自ら説明したが、「『裏山』で木が倒れているのを見た」とか「『裏山』に逃げた際に、波を被り、靴もなくなった」、「一緒にいた児童は水を飲んで全身ずぶぬれだった」と証言したが、他の証言という食い違う内容なので、遺族たちから証言の信ぴょう性について疑惑を招いた。また「説明会終了後は、言葉を発することもできないほど憔悴していたという。

■ 助かった児童への聴き取り
 2011年5月、助かった児童に聴き取り調査が行われた。また大川小学校の用務員、山へ避難した支所職員、地区住の中学生へも聞き取り調査が行われた。
 児童の聴き取りに当たっては、子供たちへの心の負担には配慮したとしているが、聴き取り後、体調を崩した児童が複数いる。
聴き取りに際して、聴き取り担当者は手書きでメモをしていたが、報告書作成が終わると、手書きメモは廃棄したという。また、聴き取りの際に録音は行われていなかった。「その結果後に聴き取り記録の正確性や質問項目について疑問が呈されただけでなく、意図的な廃棄やねつ造まで疑われることになった」(事故検証委員会報告書)
 かなり杜撰な聞き取り調査だったことが伺える。大川小学校の悲劇の真相を解明しようとする熱意がまったく感じられない。70人の尊い犠牲を無駄にしない、事故の検証をする最も重要な狙いなのではなかろうか。

■ 立ち上がった遺族 石巻市教育員会の第二回説明会
 2011年6月4日、第2回の保護者説明会が、石巻市長も出席して行われ
た。石巻市教育委員会は、この説明会で多くの児童が犠牲になったことを謝罪した。しかし、最大の疑問である「なぜ校庭に50分間も留まり続けていたのか」についての明確な説明はなかったという。
 またこの説明会では、市長による「自然災害における宿命」、発言が問題になった。遺族からの「失敗と認めろ」、「人災だと言え」との追及に対しての一連の答えの中で発せられた一言である。
 また、終了時、保護者からの「今後説明会はあるんですか。これで説明会は終わりですか。」との問いに対し、主催者側が「説明会は予定しておりません。これで終わりです。」と発言した。
 説明会終了後、石巻市教育員会の責任者は、記者団に囲まれて「説明会は終わりですか。3回名はない?」と聞かれ、きっぱりと「終わりです。ありません。」と答えた。また「参加者はそれで納得しているのか?」という問いには、「その後、なにもなかったので……」と話した。(NHKスペシャル「悲劇をくり返さないために ~大川小学校・遺族たちの3年8か月~」)

■ 聞き取り調査メモ廃棄問題

 8月21日、聴き取り調査のメモを廃棄したことが報道された。第2回説明会で、口頭で、「山への避難を訴えた男子児童がいた」という説明があったにもかかわらず、その根拠となる記録がなくなってしまったという事態が発生した。遺族の間に都合の悪い事実を隠蔽しているのではないかとの不信感が生まれた。

■ 遺族たちの自主調査
 教育委員会の説明に納得できない遺族は、定期的に集まるようになった。
 「50分も時間があったと言っているが、50分間、一体何をやっていてのか」という疑問は解き明かされないままだった。
 「空白の50分間」を自分たちで調べ始めた
 調査していくと、津波を恐れて「裏山に逃げよう」と発言した児童や教員が複数いることが分かった。動けなかった理由がきっとある それが分からないと教訓にならない、遺族たちの思いである。

■ 説明会の再開
 その後、遺族たちの求めに応じて説明会を再開、しかし、核心の「避難がなぜ遅れたのか」「裏山になぜ逃げなかったのか」についての説明はない。
 2012年8月 6回目の説明会での教育員会の対応に、遺族たちは大きな不信感を抱く。
 問題となったのは、助かった児童や保護者から話を聞いてまとめた報告書。
 「裏山に避難したがっていた子」がいたという助かった5年生の証言が記載されていなかった。
 教育員会は、「記憶は変わるものだとは私は思っている」とし、当時、児童からの聞き取ったメモを処分したのでその事実は確認できないとした。
 結局、裏山に避難しなかった理由はうやむやになった。

■ 大川小学校事故検証委員会発足
 2013年8月、平野文部科学大臣(当時)が大川小学校を訪れて慰霊し、捜索現場などを視察すると共に、遺族とも直接対話をした。その後、文部
科学省としても事故検証をサポートしていくことを表明し、児童遺族と文部科学省・宮城県教育委員会・石巻市教育委員会の4者で円卓会議が開催された。
 2014年2月、国が関与して、第三者の専門家による「大川小学校事故検証委員会」が作られた。大川小学校の事故原因究明は新たな段階を迎えた。
 委員長は、室崎益輝氏。ひょうご震災記念21 世紀研究機構の副理事長で神戸大学名誉教授である。
 第三者機関として、原因究明を進め、再発防止への提言をまとめることになった。

■ 大川小学校事故検証報告書
 2015年2月、大川小学校事故検証委員会は最終報告書を発表し、遺族に説明した。
 報告書では、避難開始の意思決定が遅かったことと、津波を免れた裏山ではなく、危険な河川堤防近くを避難先に選んだことを「最大の直接的な要因」と結論づけた。また、学校の防災対策の問題点や、同校が避難所に指定されているのに行政からの災害情報の伝達が不十分だったことも指摘した。
 最終報告書案には、唯一助かった教諭から聞き取った結果も盛り込んだが、遺族らは、避難決定がなぜ遅れたかが明らかになっていないと批判。調査資料の公開などを求めている。
 そのうえで、防災関連の教育を教職課程の必修とすることなど24の提言を示した。
報告書をまとめた室崎委員長は、検証委が震災から2年近くたった昨年2月に発足したことなどを踏まえ、「調査に一定程度の限界があったことは否めない」ともしている。室崎委員長は記者会見で「再発防止のあり方を提示するのが目的。市教委などの対応を見届けたい」と理解を求めた。
(朝日新聞 2014年2月23日)

 しかし、遺族は納得しなかった。
 これでは、「死の恐怖でずっと50分待っていた子供たちが浮かばれない」   
 室崎氏は、原因を明らかにするには限界があったとしている
 検証を進めても十分な証言を得られなかったとし、その背景には率直に証言することには難しい構造があるとした。
 「いくら責任追及につながらないといってもそこで発言することが、たとえば市の教育員会だとか、学校の先生を責めることにつながるのではないか思われた時にその部分については明確に発言すること控えることがあるのではないか。それは日本の社会全体がこういう時に“犯人を捜さないといけない”、誰か悪者にしなないといけない、そういう風潮がある中で自分たちが悪者にされるのではないかという危機感があるとなるべく自分たちを守ろうとする」
と語った。(NHKスペシャル「悲劇をくり返さないために ~大川小学校・遺族たちの3年8か月~」)
 こうした重大な事故検証を行う際に、証言者の責任を問わない「免責」の制度を日本でも導入し、積極的な証言を促すことも必要だと提言している。

■ 学校側の責任を裁判で追及へ
 震災3年目の2014年3月、遺族の内23人は、学校側を裁判で訴えることを選択した。
県と市に総額23億円の賠償を求める訴訟を仙台地裁に提訴。地震から津波の到達まで約50分あったのに適切に避難させなかったと主張し、「明らかな人災」として災害時の学校管理下での犠牲の原因を問いかける
 訴状によると、2011年3月11日の地震発生後、教職員らは児童たちを裏山などの高台に避難させず、防災行政無線で大津波警報が流れる校庭に待機させた。近くの川に異変がないか確認するなどの情報収集もしておらず、注意義務を果たせば児童は助かったと指摘。国家賠償法などに基づき、設置管理者の市と教職員の給与を負担する県に、児童1人当たり1億円の賠償を求めている。
(朝日新聞 3月11日)
 訴訟には、奇跡的に生き残った「あの日何が起きたか」を証言している5年生男子の父親も加わった。
石巻市は、裁判の答弁書で「予見できなかったのもやむを得なかった」としている。
訴訟になったことで、当事者である学校側との遺族との対話は途絶えた。
 「今後、訴訟に影響があるので、コメントは差し控える」、学校側の姿勢は変わった。

 東日本大震災からあっという間に4年。3月11日、遺族は4年の歳月を経て、未だにわが子の最後に迫ることができない。
 震災の検証はまだ終わっていない。







2015年3月10日
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廣谷  徹
Toru Hiroya
国際メディアサービスシステム研究所
代表
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President
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