古代史探訪 唐本御影の真実
~唐本御影は「聖徳太子」を描いた肖像ではない~
~唐本御影は「聖徳太子」を描いた肖像ではない~
「聖徳太子」の最古の肖像画、「唐本御影」
「唐本御影」は、「聖徳太子」を描いた最古のものと伝えられる肖像画。「聖徳太子二王子像」と呼ばれたり、百済の阿佐太子の前に現れた姿を描いたという「伝説」から「阿佐太子御影」とも呼ばれたりする。
帯刀して立つ「聖徳太子」の脇に描かれている二人の人物は、左が「聖徳太子」の弟の殖栗皇子(えぐりのみこ 用明天皇の第5皇子で母は穴穂部間人皇女)、右が「聖徳太子」の長子である山背大兄王と言われている。
こうした侍童を従えた三尊形式で描かれていることから、明らかに信仰の対象として描かれたものと見なされている。
「唐本御影」は、眉や目などの筆法から、八世紀の制作とするのが通説である。
なお「あご髭」は後世に、二度に渡って書き加えられたことが明らかになっている。
「唐本御影」は、「法隆寺伽藍縁起資材帳」を始め、平安時代時代以前の記録にはない。当初の伝来等、その由来が明らかでない。
聖徳太子・二王子像(唐本御影) 宮内庁蔵
「唐本御影」は中国渡来の画風」
衣文に沿って軽い陰影のあるこの画風は、西域から中国に流入した陰影法であり、六朝時代の肖像画に使われていた画風である。
また、中央に本人、左右に二王子が並ぶ構図は、7世紀に活躍した唐の宮廷画家、閻立本の描いた『帝王図巻』との類似性が指摘されている。
閻立本『帝王図巻』とは、前漢昭帝から隋煬帝まで13人の帝王を描いた伝閻立本《帝王図巻》(ボストン美術館蔵)で、勧戒の意や尊崇の意をこめたものでもあり,軸物は寺観など別に場所を設けて掲げ礼拝の対象とされた。
ちなみにボストン美術館蔵の『帝王図巻』は後代の模作である
流転「唐本御影」
明治維新になると、法隆寺を始め全国の仏教寺院は存続の危機にさらされた。
1868年(明治元年)、「神仏分離令」が発布されて、「廃仏毀釈」と呼ばれる仏教排斥運動が起きた。この結果、多くの仏教寺院が破壊され、仏像や寺宝の流出・散逸が相次いだ。
こうした中、1872年(明治4年)、明治政府は文化財保護と博物館建設を目指し、「古器旧物保存令」を出して全国の仏教寺院に調査官を派遣した。法隆寺にも寺宝は、調査官が派遣され、すべての寺宝の台帳を作成した。
当時、幕藩体制の崩壊で、日本の仏教寺院は、寺領や権力者の後ろ盾を一挙に失い、経済的に極度に困窮していた。
聖徳太子ゆかりの寺院である法隆寺も寺領を失って疲弊し、伽藍や寺宝の維持もできなくなっていた。
こうした中、法隆寺は苦渋の決断をする。
1878年(明治11年)、当時の法隆寺住職であった千早定朝は、主要な寺宝、三百余点を「法隆寺献納御物」として皇室に献納する決断をした。
明治政府は、伽藍の修理等の費用として、下賜金、1万円を法隆寺に与えた。当時の1万円は今日の数億円に匹敵する莫大な金額であった。法隆寺はこれによって堂塔の修復や寺院の維持が可能になった。
「献納御物」は、「帝室宝物」となり、東京上野に新設された博物館で保管、展示されることになった。(現東京国立博物館)
しかし、「唐本御影」や「法華義疏」など、特に皇室とゆかりの深い十二点は、「宮内庁のお持ち帰り品」として「御物」として皇室の保有となった。
「唐本御影」もこの中の一つで、「御物」となった。
第2次大戦後はマッカーサーの指令で「法隆寺献納御物」は「法隆寺献納宝物」とし、国有財産として国立博物館に保管されることになったが、「唐本御影」や「法華義疏」など七点は皇室関係のものとして宮内庁の侍従職が、「御物」として保管した。
現在、法隆寺は江戸時代に幽竹法眼が写した模写図(1763年)を所蔵する。
「お札」の象徴 「聖徳太子」
「唐本御影」の「聖徳太子」の肖像は、戦前から戦後にかけて7回にもわたり紙幣に採用されて、日本のお札の象徴であった。
初めて登場したのは昭和5年、兌換券百円券で登場した。戦後に日本銀行券に代わっても引き続き百円券に使用された。
戦後、GHQは、国家主義や神道など軍国主義を助長する肖像を通貨や切手に使用することを禁止した。「聖徳太子」は戦時中に忠君愛国の象徴とされたことで、パージ(追放)の方針を示した。これに対し、当時の日銀総裁の一万田尚登氏は、聖徳太子は「(和を以て貴しとなす、さからうことなきをもってむねとなせ」としているとし、平和主義者の代表であるとGHQを説得したという。
日本銀行券 百円札
昭和25年(1950年)には、千円札で登場し、昭和38年(1963年)に「伊藤博文に交代するまで14年間も使用され、「お札」の象徴は「聖徳太子」となり、「唐本御影」が最も国民に知られた「聖徳太子」の肖像となった。
昭和32年(1957年)には五千円札、昭和33年(1958年)には一万円札に登場し、常に最高額の紙幣は「聖徳太子」だった。
日本銀行券に採用された理由として、①国内外に数多くの業績を残し、国民から敬愛され知名度が高い。②歴史上の事実が実証でき、肖像を描くためのしっかりとした材料がある。という2点が挙げられたという。
疑念を持たれている「唐本御影」
「唐本御影」は「法隆寺伽藍縁起資材帳」を始め、平安時代時代以前の記録にはない。その伝来等由来が明らかでない。
法隆寺の「四十八体仏」など多くの寺宝は、1078年(承暦2年)に橘寺から移されたものと思われので、「唐本御影」もこの時、移管されたとする説や、飛鳥の衰退した寺院から伝わったという説がある。
そこで、古くから、「唐本御影」は、「聖徳太子」を本当に描いたものか、誰がどこで、いつ頃、描いたのか謎に包まれている。
「七大寺巡礼私記」に現れた「唐本御影」
「唐本御影」が初めて史料に現れるのは、平安時代末期の学者、大江親通が著した「七大寺巡礼私記」である。
大江親通は、1106年(嘉承元年)と1140年(保延6年)の二回に渡って、南都(奈良)の七大寺を巡礼し、「七大寺日記」と「七大寺巡礼私記」を著している。これらは12世紀の諸大寺の実情を伝えるうえで最も重要な資料とされている。
1140年、法隆寺を訪れた大江親通は、法隆寺東院夢殿の後方にある、当時は「七軒亭」(舎利殿)と呼ばれた建物の「宝蔵」で「唐本御影」見ていた。
「七大寺巡礼私記」には、「太子の俗形の御影一舗。くだんの御影は唐人の筆跡なり。不思議なり。よくよく拝見すべし」(俗人の姿をされた聖徳太子の肖像画一幅。この肖像画は唐の人が描いたものである。不思議である。心を込めて拝見しなければならない)と記されている。
「唐本御影」の「唐本」とは、作者が「唐人」の意だと、大江親通は思ったのに違いない。法隆寺の僧侶が大江親通にそう説明したかしれない。
大江親通は、なぜ「唐人」が太子を描き、またそれが法隆寺にあるのかに釈然としなかったと思われる。「よくよく拝見すべし」としたのは、子細に検討の必要があるという意で、親通の疑念が現れていると思われる。
なぜ「唐人」が聖徳太子を描き、その肖像を、法隆寺が大切に伝えたのか、大江親通は納得がいかなったと考えられる。
当時の「太子信仰」の言い伝えの中で造られた「聖徳太子」のイメージとは、冠帯で笏を持った姿は、余りにも違和感があったのであろう。
「聖徳太子」とはまったく関係ない、平安時代の朝廷に仕えていた王族や貴族を描いたものだろうとの推測も成り立つ。
一方、「太子信仰」が盛んになった平安時代頃の作で、当時の風俗を基にして「聖徳太子」の肖像を描いたという可能性も残されている。
しかし、誰がどこで描いたのはまったく解らないし、その由来も明らかになっていない。つまり「聖徳太子」を描いた肖像かどうか、まったく証拠がないのである。
法隆寺僧顕真が説く「唐本御影」の由来
鎌倉時代の13世紀半ばに、法隆寺興隆に尽力した、法隆寺僧顕真は「聖徳太子伝私記」を著し、この絵を「唐本御影」と呼んで、その由来についていろいろ説があるとして、そのうち2つを挙げている。
その一つ目の説は、渡来した「唐人」が、「唐人」の前に聖徳太子が「応現」したものを、2枚描いて、1枚を日本に残し、1枚を本国に持ち帰ったとする。
もうひとつの説は、顕真と同時期に法隆寺復興に尽力した西山法華山寺慶政による説を引用し、「唐人」ではなく百済の王族出身の画家、「阿佐太子」が、「阿佐太子」前に「応現」した姿を描いたものだとしている。
「阿佐太子」は、597年、百済・聖明王に遣わされて来朝した朝貢使である。
聖明王は、倭国に「仏教公伝」を行った人物で、仏教興隆の祖としている「聖徳太子」に関する逸話にとっては格好の登場人物である。
「阿佐太子」の名が「太子信仰」に登場するのは、「聖徳太子伝暦」(917年)である。「聖徳太子伝暦」は、平安中期に、流布していた説話や伝説、予言を集大成し、この「伝暦」で太子の伝説化はほぼ完成したとされている。
「伝暦」によると、「二十六歳、百済の阿佐太子が、太子を『救世観音菩薩』として礼拝し、その時に太子の眉間から光を放つ」という逸話が記されている。
この逸話を元に、「唐本御影」は、百済の王族出身の画家、「阿佐太子」が、「阿佐太子」前に「応現」した姿を描いたものだとする説を顕真が考え出したのであろう。
以後、「唐本御影」は、「阿佐太子御影」とも呼ばれるようになった。
「応現」とは「仏・菩薩 が世の人を救うために、相手の性質・力量に応じて姿を変えて現れること」で、顕真は、この絵は渡来人の画家によって描かれたもので、聖徳太子の服装が中国風である理由を「応現」で説明している。
■ 「聖徳太子伝私記」
聖徳太子伝に関する秘伝や法隆寺の寺誌を記したものである。別に『聖徳太子伝私記』ともいう。13世紀前半に法隆寺の復興に尽力した僧侶、顕真が上下2巻にまとめ、上巻では師匠隆詮から伝授された法隆寺や聖徳太子伝の秘伝を記し、下巻では聖徳太子の舎人(とねり)「調使麻呂(調子丸)」に関する秘伝と自らが「調使麻呂」直系の子孫であることを述べる。
「調使麻呂(調子丸)は「聖徳太子」の愛馬、甲斐の黒駒を飼養したと伝えられている。「聖徳太子」が馬に乗り、富士山を登ると伝説が残る。
「聖徳太子伝私記」は、顕真自筆の稿本が現存し、中世の太子信仰や法隆寺に関する貴重な史料である。重要文化財で国立博物館に所蔵されている。
「唐本御影」は聖徳太子の肖像か?
「唐本御影」で描かれている「聖徳太子」は、冠帯に笏を持ち、束帯(朝服)の姿で描かれ、飛鳥時代の人物を描いたものとは考えられない。
「笏」は、律令時代の官人が、束帯で儀式に参列するとき威儀を正すために用いたもので、長さ1尺2寸 (約 40cm)細長い板である。右手に持ち、読み上げる言葉を貼り付けておく「カンペ」として役割も果たしたという。
この絵の制作年代は早くとも、律令国家が成立した以降の八世紀頃(奈良時代)と考えられるが、平安時代に制作されたという説や、鎌倉時代の模本とする説も根強く支持されている。
また、当時の絵画の主流は、絹本で、紙本の「唐本御影」は、極めて異質なものである。救世観音の生まれ変わりとまで称された「聖徳太子」を簡素な紙に描くのは、極めて不自然だ。しかも、「聖徳太子」は侍童を従えた三尊形式で描かれ、明らかに信仰の対象として肖像である。
なお「あご髭」は後世に、二度に渡って書き加えられたことが明らかになっている。
広まった聖徳太子虚構説
1982年、東京大学史料編纂所長であった今枝愛真氏が「唐本御影」は聖徳太子とは関係の無い肖像ではないかとの説を唱えた。
唐本影御の掛け軸の絹地の表装の隅に「川原寺」と読める墨痕があり、もともと川原寺にあったものを法隆寺に移し、太子像としたというのがその主張である。
これをきっかけに、聖徳太子虚構説が広まっていく。
しかし、今枝説には矛盾点があり、掛け軸というのは巻いたり伸ばしたりするので傷みやすく、「表装替え」を時折、行うのが常識とされている。今枝説では、1200年もの間、「表装替え」をしなかったこととなり現実的でない。
歴史学者、武田佐知子氏によると、武田氏が掛け軸を京都の表具屋に調べてもらったところ、掛け軸は江戸時代中葉以降の、中国製の絹が使用されていたことがわかり、「川原寺」の墨跡は後世の書き込みであるとし、しかも、墨跡は、表装部分に銀糸で書かれた「国家安康」の「康」字の銀糸酸化による黒ずみと判明したとした。
唐本影御は、元々、法隆寺に保管されていたようである。
また、武田佐知子氏の「信仰の王権聖徳太子」によると、平城京の長屋王邸の遺構より発掘された「楼閣山水図木簡」に描かれている男性貴族の姿が、唐本御影の聖徳太子の衣装や木簡を持っている姿に似ているという点からも、唐本御影は奈良時代に聖徳太子を想像して描かれたものであろうとされている。
「唐本御影」は、観音、勢至菩薩の脇仏を伴った阿弥陀如来のように、三尊形式で描かれていることで、この肖像画が信仰の対象であったとされている。8世紀に盛んになった「太子信仰」の結果として、この肖像画が描かれたと武田佐知子氏は考えている。
歴史学者、大山誠一氏は、『唐本御影』を中国・西安にある永泰、章怀、懿德等の合葬墓の壁画にある男性人物像と比較すると,ありとあらゆる点で酷似しているとしている。
同時期の絵師が模範本として描いたものが日本国に渡来し,それを元にして後代に日本国内で作成されたものではなかろうか。それゆえ『唐本御影』との名があると解釈すると,非常にわかりやすい。唐から伝来した祖本を手本にした直接の模写本という趣旨に理解することができる。
中央の人物の左右に立つ者の髪型(みずら)が契丹の遺跡からの発掘品にもある。『唐本御影』の作成時期が8世紀以降だとすれば,矛盾はないとしている。
大阪歴史博物館学芸員、伊藤純氏によると、「法隆寺は正真正銘、聖徳太子の寺であることの証しとして唐本御影を利用した」としている。
法隆寺の記録「嘉元記」(1305~64年)によると、1325年、法隆寺領だったという播磨の国の荘園「鵤庄(いかるがのしょう)」を巡る争論の際には 「法隆寺の立場を通すため、幕府を威圧する道具として唐本御影を鎌倉まで持ち出した」。
江戸時代に入ると、唐本御影は1694年(元禄7年)江戸での出開帳に出された。「それが評判を呼んで閲覧希望が殺到したため、寸分違わぬ精巧な写しが幽竹によって作られたのではないか」。それ以降、唐本御影の原本、または幽竹の写しを参考にしたとみられる肖像が次々に描かれ、芸能の世界でも聖徳太子が登場する演目が作られた。
「江戸時代、唐本御影に描かれた太子像の絵柄はチラシなどにも使われ、随分活躍したに違いない」としている。
「唐本御影」は「聖徳太子」の肖像ではない
日本書紀崇峻天皇即位前紀(587年)によると、厩戸皇子はまだ14歳だったが、物部守屋討伐軍に参戦した。討伐軍が、物部守屋軍の激しい抵抗にあい、三度退却したあと、厩戸皇子は、髪を束髪於額(ひさごはな)に結い、髪を分けて角子(あげまき)にし、白漆木(ぬりで)を切って四天王像を作り、額につけて、「今若し我をして敵に勝たしめたまわば、必ず護世四王の奉為に、寺塔を起立てむ」と誓願して進軍し物部守屋に勝利したとしている。
太子信仰が盛んになって太子を称賛する目的で、こうした逸話が創作されたのであろう。
「束髪於額(ひさごばな)」の髪形は、年少の十五歳から十六歳までの間は、髪を額のところで束ね、まげの形が瓢箪の花に似ているので「ひさごばな」と呼ぶとしている。十七歳から十八歳になると髪を耳の上で結ぶ「美豆羅(みずら)」の髪形となるのが慣習である。
七世紀末から八世紀初頭にかけて太子信仰が盛んになり、各地で太子像が造られる。
「聖徳太子」「七歳像」や「十二歳像」はいずれも、この逸話に倣い、「束髪於額」の髪形をした童像である。
奈良時代には、聖徳太子を菩薩とする「太子信仰」登場する。
その後「聖徳太子伝暦」や「上宮聖徳太子伝補闕記」によって救世観音化身説が唱えられ、聖徳太子=救世観音とする信仰が定着した。
また平安時代に入ると,浄土教の布教とともに聖徳太子を極楽に往生した往生人の第一人者とする信仰が起こった。
「聖徳太子」は、仏門の解脱者であり、救世観音なのである。
こうした「太子信仰」を踏まえれば、平安朝に制作された「聖徳太子」の肖像は、仏門に帰依して悟りを開いた高僧のような袈裟の姿や観音菩薩像のような姿で描かれるだろう。
「唐本御影」のように、「笏」を持ち「冠帯」の「聖徳太子」は、「冠位十二階」や「憲法十七条」などの制定に携わるなど、王権内で「現役政治家」として活躍していた姿の肖像である。「太子信仰」からは余りにも異質な肖像であり、「聖徳太子」を描いたものとは、到底考えられない。
12世紀に「七大寺日記」を著した大江親通は、「唐本御影」を見て「不思議なり」とし、「聖徳太子」の肖像なのか、疑問を持った。
13世紀半ば、「聖徳太子伝私記」を著した法隆寺の僧、顕真も、この肖像には多くの解釈があり、意義があることも認めた上で、「唐本御影」と呼ばれている理由は、「唐人」が描いたからだとしている。そして、考え抜いた上に、苦し紛れに、「唐人」の前に「応現」した「聖徳太子」を二幅描き、その一つを倭国に留めたという苦し紛れの説明をしている。そして、慶政上人の説として「阿佐太子説」も記している。その真意は、「太子信仰」を広めていた顕真ですら、この肖像を「聖徳太子」の「真影」とすることに、相当な違和感を感じていたことの裏返しだろう。
筆者の結論は、(1)「唐本御影」の製作年代は、八世紀頃である。(2)その頃の「太子信仰」からは、「笏」を持ち「冠帯」の肖像は生まれない、
以上から、「唐本御影」は「聖徳太子」を描いたものではない。
「唐本御影」は、唐からの渡来人の画家が、平安時代に朝廷に仕えていた貴族を描いたものであろう。その出来栄えが余りにも素晴らしかったので、法隆寺に伝わり、当時の「太子信仰」の中で、「聖徳太子」の肖像とされるようになったと考えられる。
「あご髭」は後世に、二度に渡って書き加えられるなど、「唐本御影」を「聖徳太子」の「真影」とするために、「潤色」を懸命に行っていたことが窺えるのはその証拠である。
歴史教科書論争 「聖徳太子」か、「厩戸皇子」か?
歴史の教科書においては長く「聖徳太子(厩戸皇子)」とされてきた。しかし上記のように「生前で用いられていた名称ではない」という理由により、たとえば山川出版社の『詳説日本史』では2002年度検定版から「厩戸王(聖徳太子)」に変更された。
2017年4月、「新しい歴史教科書をつくる会」が4月に東京都内で開いた集会で、藤岡信勝副会長は、「聖徳太子をなきものにするのは、日本の自立国家としての歩みを否定すること」と語り、「聖徳太子は中国(隋)に従属せず、対等外交を展開しようとした。十七条憲法で『和』の精神を打ち出した」と述べて、聖徳太子が「日本人の精神の骨格をつくってきた」とし、聖徳太子と「厩戸王」の名を併記しようとした文科省を批判した。
集会には国会議員らの姿もあった。自民党教育再生実行本部長の桜田義孝衆院議員は「聖徳太子の名を変えるとはまかりならん。今までの教育を全部否定されるようなものだ」と語った。
文科省の調べでは、現在出版されている教科書では、小学校はすべて「聖徳太子」と表記され、中学では「聖徳太子(厩戸皇子)」や「厩戸皇子(後に聖徳太子と呼ばれる)」などと表記が分かれている。
2017年、文部省は10年に一度の指導要領の改訂を行い、歴史の授業では古事記や日本書紀の史料に基づいて学ぶことを明記することにした。これに伴い「聖徳太子」の名が没後の呼称であるとの史実を踏まえて2月に改訂案として、小学校は「聖徳太子(厩戸王)」、中学校は「厩戸王(聖徳太子)」に改めるという内容を公表した。
ところが、文科省がパブリックコメントを募ると、反対意見が多く寄せられた。一因と考えられるのが、つくる会がホームページなどでコメントを送るよう呼びかけたことだ。藤岡氏は「4千件以上のコメントが聖徳太子に関するもの」としている。文科省はコメントの詳細を明らかにしていない。
文科省幹部によると、寄せられた意見には「小学校と中学校で呼び方が違うと教えづらい」との教員からの声もあったという。パブリックコメントを経て、結果的に、小中学校とも「聖徳太子」の表記に戻った。
ただ、中学校については「古事記や日本書紀で『厩戸皇子』などと表記され、後に『聖徳太子』と称されるようになったことに触れる」とのくだりが残った。
「聖徳太子」の呼称が現れたのは8世紀中ごろ医以降で、推古天皇の下で政治改革や中国・朝鮮半島の外交関係、仏教興隆を推進した皇子は、「厩戸皇子」だという史実が明らかになっている。信仰の対象としての「聖徳太子」と史実の「厩戸皇子」は峻別して理解しなければならい。
初の女帝である推古天皇の王位継承者として大王を補佐し、国政に参加したのは「厩戸皇子」である。
未だに「神話」と「歴史」を分けることができない日本人の感性はあまりにも残念である。
いずれにしても「唐本御影」は、未だに、一体、誰を描いたものか、いつ、どこで、誰が作者か、決着はついておらず、現在は歴史教科書などで「唐本御影」を掲載する場合は「伝聖徳太子像」と記している。
(参考文献)
「蘇我氏の古代」 吉村武彦 岩波新書 2015年
「謎の豪族 蘇我氏」 水谷千秋 文春新書 2006年
「ヤマト王権 シリーズ日本古代史②」 吉村武彦 岩波新書 2010年
「蘇我氏 ~古代豪族の興亡~」 倉本一宏 中公新書 2015年
「蘇我氏四代 臣、罪を知らず」 遠山美都男 ミネルヴァ書房 2006年
「消えた古代豪族 『蘇我氏』の謎」 歴史読本編集部 KADOKAWA 2016年
「天皇と日本の起源」 遠山美都男 講談社現代新書 2003年
「飛鳥 古代を考える」 井上光定 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「飛鳥史の諸段階」 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「飛鳥 その古代史と風土」 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「大化改新 ―六四五年六月の宮廷革命」 遠山美都男 中公新書 1993年
「蘇我氏の古代史 ~謎の一族はなぜ滅びたか~」 武光誠 平凡社 2008年
「蘇我氏と大和王権」 古代史研究選書 加藤謙吉 吉川弘文館 1983年
「秦氏とその民~渡来氏族の実像~」 加藤謙吉 白水社
「日本史なかの蘇我氏」 梅原毅 歴史読本 KADOKAWA 2016年
「壬申の乱」 直木 孝次郎 塙選書 1961年
「古代史再検証 聖徳太子とは何か 別冊宝島」宝島社 2016年
「信仰の王権 聖徳太子」 武田佐和子 中央新書 1993年
「聖徳太子の歴史を読む 編著者 上田正昭 千田稔 文英堂 2008年
「日本史年表」 歴史学研究会編 岩波書店 1993年
2017年7月31日
Copyright (C) 2017 IMSSR
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Toru Hiroya
国際メディアサービスシステム研究所
代表
International Media Service System Research Institute
(IMSSR)
President
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