東北関東大震災

2011年03月30日 | 東北関東大震災

あいねの原 亮子と申します。
福島県郡山市の出身です。

震災が起きてから、駆けつけたい、助けたい、力になりないのに何もできずにくやしい思いをしながら、
毎日、実家と親戚たちの安否や所在などの情報を収集し、
とくに被災地同士で成り立っていない被災者同士の情報交換のお手伝いをしていました。

その中で、岩手や宮城について報道されているような物資や支援の手が、いまだに、
福島にはほとんど届いていないことを知り、これは非常に問題だと思っています。

報道では、地震と津波を受け大きな被害を受けたことよりも原発の状態に時間を割き、

とかく放射能汚染の問題を取り上げるにとどまっています。
そこで今も暮らす福島の人々の現実にもっともっと目を向けて欲しいと思います。

《双葉郡浪江町の親戚の話》
何かにつかまっていないと飛ばされるほどの強い揺れがきた。これほどの地震ならすぐに津波から逃げなければならない。
若夫婦と別れ、夫婦で避難。途中一人暮らしの妹を乗せ、本家の親族を連れ5人で車で非難。山に向かう。
その後、誰とも連絡のつかないまま、避難所を転々としながら、二本松市の避難所へ。このころ、原発の状態が悪化。
幸い息子たち家族は無事に山形へ行った模様。数日後、千葉県の親戚の家に行くも、再び二本松の避難所へ。
すると、数日まえまでもらえた食糧も半分ほどしかなく、いる場所もない状態に。長旅の疲れも。
おそらく家は流されていないが、20km圏内のため立ち入れず。いつまで帰れないのか。

帰れないならばせめて少しでも着替えや貴重品など荷物を取りに行きたいくらいだ。
津波から逃げられなかった姉夫婦は今も野ざらしのままで、きっと収容もされていないだろう。

私は、少しでも多くの方に福島にも目を向けていただきたいと思っています。
多くの生の声を情報を集めて何ができるか、具体的に考えていきたいと思って準備をしています。

今できること、継続してできること、それぞれができることをして助け合っていきたいと思っています。

原 亮子