朱子学と陽明学に通じた佐久間象山
佐久間象山
(=1811~1864年)
は、
松代藩
(=現長野県)
藩士で、
昌平坂学問所の
学頭であり、
当時の大儒学者、
佐藤一斎
(さとう
いっさい)
に、師事した。
象山は
朱子学を学ぶ
傍ら、
同門の
陽明学者で
後に
備中松山藩
(=現岡山県)
の財政を立て直し、
西洋式軍備を整え、
老中となった藩主、
「板倉勝静」
(=いたくら
かつきよ)
を補佐して
維新期の幕政を
サポートした
「山田方谷」
(=やまだ
ほうこく)
と交流する。
方谷と象山は
激しく、互いを
批判しつつも
互いを認め合い、
理論と実践に
ついて
語り合った。
私塾「象山書院」と「五月塾」
その後、
昌平坂学問所を
辞した象山は、
江戸に出て、
私塾「象山書院」
を開くも
藩命により
アヘン戦争を
調査する際、
洋学の研究に
着手する。
象山の
学習スピードは
尋常ではなく、
10年を経ずに
大砲鋳造、
ガラス、
地震予知機
などの
製造に成功し、
種痘の実施まで
試みている。
更に、
新たに開いた
私塾「五月塾」
では、
洋学も教え、
勝海舟、
坂本龍馬、
吉田松陰らが
入門し、
盛況を博した。
象山の名声は
日に日に
大きくなり、
ついには
一橋慶喜の
顧問として、
時務の建策に
携わった。
しかし、
洋学を説く
象山を
「外国かぶれ」
だと誤認した
河上彦斎
(=かわかみ
げんさい)
によって
惨殺され、
その生涯を
終えた。
東洋道徳、西洋芸術
象山が残した
「理系の学問を格物
(=物事の「理」を
分析すること)で
処理するのは
簡単なことだ。
むしろ
掴み所のない
人情や俗世間に
対処する事の方が
難しいのだ」
という
原題の言葉
(=以下に示す)
は
「東洋道徳」に
対する責任感と
同時に、
いかにも
自意識過剰で
鼻持ちならない
朱子学者らしさを
感じさせる。
[原題の言葉]
格物の天地造化に
おけるは却って易く
人情世故におけるは
却って難し
朱子学の方法論と行動
象山の異様なまでの
学習速度は、
朱子学の方法論
「格物致知」
(=かくぶつちち)
によるものである。
*格物致知とは、
物事の本質まで
突き詰め(=格)、
知識を深める(=致)
事を意味する。
朱子学では
あらゆる事物には
「理」(法則)が
存在しており、
世の中は
そうした理が
組み上がることで
成立している
と考える。
したがって、
様々な事物について
「理」を丹念に分析
していく事が必要だ
と考え、
その基礎として
徹底的に
文字の機能を
たたき込まれ、
精密に読書する
訓練が施される。
読書力が
物事の最密な
分析力として
働くように
なると、
あらゆる
作業工程や
業務内容の
意味を
即座に理解し、
それを
応用できる
というわけで
ある。
象山は、
朱子学を基盤に
しながらも、
西洋の
学問や技術を
積極的に
取り入れ、
日本の近代化に
大きく貢献した
人物である。
また、
象山は
日本が西洋文明を
摂取する上で
「文化的植民地」
となる危機を
いち早く認識し、
それを回避する
ために尽力した
人物でもある。
それ故
象山の功績を
「和魂洋才」
(=わこん
ようさい)
の精神の体現者
として捉える
のである。
*和魂洋才とは
日本固有の精神を
失わずに
西洋からの優れた
学問・知識を
摂取し、
活用すべきである
という考え。
彼の思想と行動は、
現代の私たちに
とっても
示唆に富むもので
あり、
国際社会において
日本が
独自の存在感を
示すためには、
単に
外国のものを
模倣するのでは
なく、
自国の
文化や伝統を
深く理解し、
それを
基本にして
新たな価値を
生み出す必要が
あることを
教えてくれる
のである。
例えば、
現代の日本の
自動車産業は、
西洋の
自動車技術を
導入しながらも、
日本の独自の
技術や文化を
反映させることで、
世界的に競争力の
ある産業となった。
また、
日本の
ポップ
カルチャーは、
アメリカの
音楽や映画
などの影響を
受けながらも、
日本独自の
文化や価値観を
表現することで、
世界中の人々を
魅了する
コンテンツ
となった。
総合
佐久間象山の
「和魂洋才」
の精神は、
現代の日本に
おいても
重要な指針と
なる。
私たちは、
グローバル化が
進む世界に
おいて、
自国の
文化や伝統を
大切にしながら、
外国の
優れたものを
積極的に
取り入れ、
新たな価値を
生み出して
いく必要が
ある。