浪漫ー古(いにしえ)の彼方へ

歴史・哲学・自然現象を幅広く紹介しています。

人類と食の進化

2024-12-02 23:18:35 | 日記

概要

料理は、かなり前に

人類が誕生させた

革新的な技術である。

 

また、

料理は人類の生命と

発展に大きく関わり、

その結果、

火と共存する現代人に

必要不可欠な存在とも

なった。

 

転換

長い人類の歴史の

中で、

植物食から動物食

への移行が最初の

「食の革命」

と言われている。

 

そもそも、

ホモ・サピエンス

=(ラテン語で賢い

 人間)

の祖先である最初の

人類は

「猿人」

と呼ばれ、

森の果物や木の実が

主食であった。

 

ところが、

気候や大陸変動で

森が壊され、

余儀なく、草原で

暮らすことを強い

られた。

 

これは、必然的に

今までとは別の物を

食する環境へ移行

させられたことを

意味する。

 

そこで、

目をつけたのが

「動物の肉」

であった。

 

猿人は、次第に

共存している肉食獣

が、食べ残した死骸

を探して、石器で

その死骸の肉を剥が

して、食べるように

なる。

 

その影響から、

約180万年前に

脳が

「猿人」

の約2倍に大型化し、

原人である

「ホモ・エレクトス」

=(直立するヒト)

が誕生した。

 

専門家のA氏による

と、

肉は植物と違って

弾力性があるため、

何度も強く噛まなく

ても食べられる。

 

肉食への転換で

頭の側面にある頭部

を強く締め付ける

顎を動かす筋肉が

縮小し、脳が拡大

する機会に恵まれ

たのである。

 

また、

肉は植物より

栄養価が高い上、

消化しやすい。

 

それ故、

腸の長さが短く

なり、消化に

費やすパワー

を縮小して、

残したパワーを

脳に回す事となる。

 

これらの効果が

相乗して人類の

脳が大型化する。

 

大型化すれば、

自ずと知性が発達

するため、

人類は

「人間らしさ」

の追求に向けて

進化する大きな

一歩を踏み出す

事となる。

 

そんな中、

もう一つの

「食の革命」

が起こるので

ある。

 

それは、

「料理の発明」

であった。

 

歴史を振り返ると

79万年前の

イスラエルの遺跡

で、火を使用した

最古の調理の痕跡

が残っている。

 

では、

この時代の人類は

「肉を焼いて

 食べる」

という発想を

どのようにして

思いついたので

あろうか?

 

もしかすると

山火事で焼け

死んだ動物の

肉を偶然に

食した事が

原因かも

しれない。

 

A氏は

「50万年前以降の

 遺跡からは、

 多くの

   [炉の遺跡]

   が発見されて

 おり、

 人類は、約10万

 年前までには、

 火を制御して料理

 をする技術を確立

 していた」

と考えている。

 

言うまでもなく、

肉は生で食する

よりも加熱して

食した方が

合理的である。

 

その理由だが、

1つ目は

栄養学と解剖学に

ヒントがある。

 

聞き慣れた語句

だが、説明すると、

タンパク質が消化

しやすいように

変性するので確実

に栄養が摂取出来る、

という事である。

 

理由の2つ目だが、

加熱した肉は、

生肉と比べて

短時間で消化吸収

できるので、体の

負担が少ないので

ある。

 

このため、

肉食獣のように

食後に長時間休む

事なく、

即座に行動でき、

移動や狩りに充て

る時間が増える

など、

生存上の利点が

ある。

 

更に、

加熱料理は、

食材を柔らかく

して、

食べ物の幅を広げ、

食中毒のリスク

を減らした。

 

とは言え、

動物と同様に

火を恐れた人類が

この時代にも存在

したのではない

だろうか?

 

勿論、

存在したであろう

が、結果として、

恐れずに加熱料理

をした人類が生存

競争に打ち勝ち、

子孫を残せたため、

加熱料理をする

DNAが広がり、

人類の進化に

繋がったと言える。

 

初期の頃、

人類は男性が狩り

をして、女性は

子育てをする

という役割分担が

あった、

と考えられている。

 

その理由だが、

女性が乳幼児を

抱えて、

狩りに出れば、

子ども共々危険に

さらされ、生存率

が下がるからで

ある。

 

加えて、

人類が料理を開発

した事で

女性は洞窟などで

火を守る役目を

担った可能性が

高い。

 

言うまでもなく、

炉を囲む暮しは、

家族の絆を強く

したに違いない。

 

土器

もしかすると

現在認識されて

いるよりも、

さらに早い

時代に料理は

誕生していた

のかもしれない。

 

このように仮設を

立てた人物がいる。

 

それは、

米ハーバード大の

人類学者で

彼は、

180万年前に始ま

ったとする

「料理仮説」

を提唱した。

 

その仮設だが、

脳が大型化する

「ホモ・エレクトス」

=(直立するヒト)

への進化は、

生肉では説明でき

ないほど劇的で、

料理した肉により

達成された

とする主張である。

 

ところが、

火を使った痕跡は、

100万年前の

南アフリカ

の洞窟遺跡が最古で

料理に火を使用したか

どうかは不明である。

 

それ以前の明確な火の

使用痕跡が不明である

ため、

彼の「料理仮説」は、

考古学的には疑問が

残るのである。

 

一方で、

火の使用ではなく、

温泉など自然の

摂理で

肉などを煮たのが

加熱料理の発端

ではないか?

という

斬新な新仮設を

米マサチューセッツ

工科大などが最近

提唱した。

 

その内容だが、

アフリカ東部の

大地溝帯にある

170万年前の人類

遺跡の周辺で、

当時の地層から

温泉に宿る特殊な

微生物の痕跡の

発見が根拠、

という事である。

 

ただ、煮炊きした

証拠は見つからず、

加熱料理の起源を

巡る議論は

今後も続きそうで

ある。

 

そんな中、

30万~20万年前に

誕生した

ホモ・サピエンス

=(ラテン語で賢い

 人間)

は、火の使用を進化

させる技術を生み出

した。

 

では、その技術とは

何であろうか?

 

答えは、

土器の発明

である。

 

土器により

「焼く」

以外に

「煮炊き」

という本格的な

料理が出来る

ように進化した。

 

その土器だが、

最初に生産された

のは、

人類の誕生を促す

アフリカ

文明発祥地の

西アジア

ではなく、

意外にも

東アジア

であった。

 

土器の歴史だが、

中国南部の

2万年前の土器が

世界最古で、

青森県で出土した

1万6千年前の

縄文土器が

次いで古い。

 

そもそも、

土器がどのような

料理に使用された

のかは長い間、

謎であったが、

内側に付着した

「焦げ」

などに含まれる

有機物を分析する

手法が開発され、

科学的な解明が

進んでいる。

 

例として、

最初の縄文土器は

「ドングリの灰汁

 を抜くための

 煮炊き用に

 使用した」

推定されていたが

英ヨーク大などの

分析の結果、

主として

「海の魚を煮る

 ために使用した」

ことが判明した。

 

加えて、

朝鮮半島の最古

の土器も同様の

傾向がみられた。

 

そんな中、

奈良文化財研究所

のB氏は

「海産物を利用

 する頻度が

 増えたとき、

 それを加工する

 道具が必要と

 なり、土器が

 誕生したの

 ではないか」

と推定した。

 

一方で、

パンを焼く文化が

ある西アジアでは、

煮炊きをする意識

が小さかった、

と考えられる。

 

それ故、

この地域では

土器は9000年前に

ようやく現れた

のである。

 

そんな土器だが、

加熱料理とのコラボ

で、

栄養価の高いもの、

体に悪影響を及ぼす

類いのもの

を生かすことが可能

である。

 

例えば、

家畜の乳は生で飲む

と、お腹を壊すが、

土器を使って加熱

または発酵させると、

チーズやバターを

生産できるので

問題なく食せる。

 

B氏は

「食せない栄養豊富

 な資源が土器に

 よって食せるよう

 になったことは

 大きな革新であ

 った」

と指摘する。

 

加熱

食は、700万年前の

人類誕生にも深く

関わっている。

 

先ずは、

人類が直立二足歩行

を始めた理由だが、

男性が女性に

食べ物を運ぶ事が

目的であった

との仮説が有力視

されている。

 

と言うのも、

二足歩行すると

手で多くの食べ物

を持ち運べるため、

女性の選択や交渉

に有利だった

と考えられる。

 

次に

農耕が1万1千年

程前に始まり、

穀物が主食に

なると

加熱料理が

決定的に重要

となった。

 

その理由だが、

小麦や稲に

含まれる栄養素

である

デンプンは、

肉と違って、

生では栄養

として摂取

できない

のである。

 

この事は

料理をしなければ

生存できない時代

の始まりであった。

 

時が流れて

現代の食生活は

その延長線上に

あり、

我々はご飯やパン、

焼いた肉や魚など

加熱料理した食事

に大きく依存して

いる。

 

専門家のA氏は

「人類は火の力が

 無ければ、

 食事ができない

 上、

 木や石油、天然

 ガスなどを燃や

 してきた。

 

 火は、

 地球や生態系を

 考えると、

 厄介な存在だが、

 宿命的に、火を

 使用せざるを

 得ない進化の

 歴史が背景に

 ある」

と話す。

 

言うまでもなく、

料理は人類だけに

許された技術であ

り、生活や栄養面

を豊かにした半面、

環境やエネルギー

問題など、現代が

直面する地球規模

の課題と本質的に

関わりがある。

 

良くも悪くも他の

動物とは、一線を

画した社会的動物

である人類の所作

と言っても過言

ではない。

 

<データと資料>

 

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哲学シリーズ、人間の正体➁(道徳法則、善意志)

2024-10-22 21:12:44 | 日記

概要

哲学シリーズ、

人間の正体➀で、

二律背反、

純粋理性批判

について、

その意味を説明

した。

 

そこから得た

不完全な理性

について、

どのように

コントロール

していくのか?

 

その方法を

紹介していく。

 

人間の気質

不完全な理性

=理性の欠陥

から、

人間には、

悪に染まる性格

がある、

と推察できる。

 

生粋の善があった

としても、

教育する側の意思

にかかわらず、

劣悪な環境で悪意の

ある教育を受けると、

悪の心に染まる危険

がある。

 

その危険には、種類

がある。

 

以下に、例を示す。

 

<危険の種類>

①親友間において、

 嘘をつく危険。

 

➁友人の失敗を

心から分かち

合えない危険。

 

③恩人に対して、

感謝の気持ちを

抱けない危険。

 

早速だが、

➀~③に関して、

以下のような

感情を抱いた

ことがないか

を、確認して

貰いたい。

 

<チェック事項>

➀は、

親友間で、1度も

嘘をついたことが

ないのか?

 

➁は、

友人に対して

失敗して当然

と思った事が

1度もないのか?

 

③は、

恩を受けた内容に

不満を抱いたこと

が1度もないのか?

 

<チェック事項>

を確認して貰った

のだが、

思い当たる節は

ないだろうか?

 

思い当たる節が

無い、

と答えた人の方が

少ない、

と思われるが、

もし、

多い、

と答えた人は、

教育をする側の

意思に関係なく、

<危険の種類

 ①~③>

のように、

教育方法で、

悪の心が芽生えた

可能性がある。

 

では、どうすれば、

悪の心を抱かずに

済むのか?

 

その答えは、

人は、善の方向へ

向かうように学習

しなければならない、

ということである。

 

その学習は、

能動的でも受動的

でも構わない。

 

要は、ある法則を

学ぶことが大切

なのである。

 

そのある法則とは、

「道徳の法則」

である。

 

道徳法則とは?

人間は、

社会の中で

生きている。

 

その社会の

中で、

道徳、

倫理、

などに従って

生活している。

 

こうした

道徳、倫理

一体、

何に基づいて

存在している

のか?

 

この疑問を

紐解く

キーワードは

人間の本質

である。

 

多くの方が

学童期に

「嘘をついては

 いけない」

「感謝の気持ち

 を忘れては

 いけない」

と、教わった

はずである。

 

これらは、

当然のことに

思えるかもしれ

ないが、

当然だと思える

のはなぜか?

と問われた場合、

即答できる人は、

少ないかもしれ

ない。

 

その理由は、

人間の本質に

触れたとしても、

それに気づかない

からである。

 

では、

人間の本質とは

何か?

 

答えは、

義務や使命

=道徳法則

のことである。

 

勿論、

この答えでは、

納得しにくい

はずなので、

例をあげて

説明する。

 

例えば、

交通量が多い

交差点で、

足の悪い高齢者

が、横断歩道を

渡ろうとしてい

たとする。

 

ここで、

高齢者に手を

貸そうとした

とする。

 

これは、

道徳的な行動

をした、

と捉えられる。

 

一方で、

高齢者に手を

貸してあげれば、

自分の事を善人

と思うかな、と

心の中で思った

のなら、

それは、

道徳的な行動

ではない、

と捉えられる。

 

では、

前者と後者で

何が違うので

あろうか?

 

それは、

条件の有無

である。

 

前者には、

「もし~なら」

という条件が

無い。

 

翻って、

後者には、

「もし、

ここで高齢者

に手を貸した

なら」

という条件が

存在している

 

条件というのは、

自分への褒美を

想定した打算

あるので、

これは、

見返りを求めた

行動、

と見なされ、

道徳的ではない

のである。

 

では、

道徳的とは何か?

 

その意味だが、

抽象的には、

条件が無い状態で、

人としての義務や

使命のみを意識して

行動することである。

 

具体的には、

「もし、

ここで高齢者に、

手を貸したなら」

という条件ではなく、

「高齢者なので手を

貸さなければなら

 ない。」

あるいは、

「高齢者なので、

手を貸すべきだ

と考える事である。

 

言い換えれば、

見返りを求める

ことなく、

ただ、そうある

べきだ

と、自ら行動する

ことである。

 

この事を

自律

という。

 

また、

人としての

義務や使命

別名「善意志」

とも言われる。

 

善意志は、

それ自体が人間に

備わっているもの

なので、

「~しなければ

 ならない」

という

義務や使命

重なる。

 

ここで

学童期辺りに、

教えられた

「嘘をついては

いけない」

「感謝の気持ち

を忘れては

いけない」

に触れたいと思う。

 

➀➁共に、

条件の無い文面で

あるため、

善意志

=道徳法則

=義務や使命

と言える。

 

それぞれに、

条件をつけると、

「もし、

信用されたい

のなら、

嘘をついては

いけない」

「もし、

感謝されたい

のなら、

感謝の気持ち

を忘れては

いけない。」

となる。

 

これは、

見返りの心

あるので

道徳的ではない。

 

このように、

条件の有無で

道徳的である

のか、

道徳的でない

のか

が鮮明になる。

 

それ故、

この道徳の法則を

身に着けることで

人間は、

不完全な理性を

コントロールする

ことが可能となる

のである。

 

 

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大仏師、運慶

2024-10-18 11:59:47 | 日記

概要

平安時代末期

から

鎌倉時代初期、

貴族社会から

武家社会に移

行する大変革

の時代に卓越

した造形力で

斬新な仏像を

生み出してき

た大仏師がい

る。

 

その名は

「運慶」

=(?~1223年)

である。

 

東大寺南大門の

「金剛力士像

 (仁王像)」

に代表される、

リアリティーを

追い求める造仏

の新様式を打ち

立てた、

と言われている。

 

平氏による

南都焼き打ち

=(1180年)

で焼失した

東大寺、

興福寺

の復興造像に

貢献し、

 

また、

鎌倉幕府の

有力御家人

からの発注を

受け、次々と

名品を造像した

のも運慶である。

 

そんな運慶だが、

興福寺の僧侶で

もあり、仏教へ

の深く大きな理

解が、仏像彫刻

で頂点を極めた

要因であった、

とみられている。

 

仏教の信仰者

運慶は、鎌倉時代の

彫刻界をリードした

奈良仏師

康慶(こうけい)

の子として生まれた。

 

生年の記録はないが、

運慶の長男、

湛慶(たんけい)

承安3(1173)年の

誕生であることから、

運慶の生まれは、

12世紀中頃で

1150年前後

とみられている。

 

当時の

仏師の世界は、

奈良仏師(慶派)、

院派、

円派

の3つの集団に

分かれて活動

していた。

 

いずれの派も、

平安時代中期に、

宇治・

平等院鳳凰堂の

本尊、

阿弥陀如来像

を造ったことで

知られる

定朝(じょうちょう)

の系譜を引くもので

ある。

 

院派と円派は、

平安京を拠点とした

のに対し、

運慶が属する慶派は、

奈良興福寺を拠点に

活動していた。

 

運慶の父である

康慶は、

定朝との血縁関係は

無かったが、

弟子筋として力を

蓄え、

慶派を指導する

ようになった、

と言われている。

 

運慶は、康慶の

下で、修行して

いたが、

一方で、

熱心な仏教の

信仰者でも

あった。

 

その頃、

東大寺や興福寺

など

大寺院の僧侶は

学侶(がくりょ)

堂衆(どうしゅう)

という集団に分か

れていた。

 

教学や寺の

運営を行う

学侶

に対し、

堂衆は、

寺院の諸堂に

出仕して、

儀式への奉仕

や事務等を行う

役目があった。

 

更に、

堂衆は、

武士の関係者

などが多く、

武力を持つ者

らで僧兵を

構成する

事もあった。

 

そんな中、

運慶は、

興福寺西金堂の

堂衆であった

と、言われて

いる。

 

また、

運慶は、

「法華経」

8巻2部の写経を

志し、7・8年

かけて

寿永2(1183)年

に、完成させて

いる。

 

その奥書には、

 

執筆僧、

結縁者

=(けちえんじゃ

=信仰心を持ち、

仏教の教えや

修行に関心を

持つ人。

 

として

東大寺、

興福寺

の僧

のほか、

快慶ら

慶派の仏師

が、名を連ねて

いる。

 

作者署名の始まり

仏師としての

運慶の名が最初に

登場したのは、

奈良県

忍辱山町(にんにく

   せんちょう)

にある、

円成寺(えんじょうじ)

における

大日如来坐像(国宝)

の造像であった。

 

像高約98cm、

檜(ヒノキ)材の

寄木造

=(頭部と胴部が

 複数の木材で

 造られている

 彫刻)

である。

 

漆で金箔を接着

する漆箔が施さ

れ、

目には、

水晶の玉眼が

はめられている。

 

結跏趺坐(けっかふざ)

=あぐらをかき、

右の足を左の

ももの上に、

左の足を右の

ももの上に置き、

足の甲で押さえ

て、足の裏を上

に向けて組むも

の。

 

した両足が

たくましく

盛り上がり、

凛とした

横顔を見せて

いる。

 

この像を

大正10(1921)

年に

解体修理した際、

台座の裏側から

運慶が、

真筆(しんぴつ)

した

墨書銘(ぼくしょ

    めい)

が確認された。

 

それには

「運慶承

 安元元(1175)年

 十一月廿四日始之 

 給料物上品八丈絹

 肆捨参疋也

 己上御身料也 

 奉渡安元弐秊

 丙申十月十九日

 大仏師康慶 

 実弟子運慶」

とあった。

 

内容だが、

「康慶の実子で、

 弟子の運慶が

 受注し、1年

 近くかけて

 造像した。

 

それから、

 報酬は、

 上品八丈絹

 43疋

 だった」

となっており、

二十代半ばの

運慶の処女作

であることが

確定したので

ある。

 

加えて、

仏像に、

作者自らが署名

した最初の例、

とも言われてい

る。

 

作品への思いが深部に!

円成寺に運慶作の

仏像が置かれたの

は、なぜか?

 

その理由を

紐解いていく。

 

造像時期の少し

前のことである。

 

円成寺は、

東大寺別当も

務めた

京都・仁和寺

の僧、

寛遍僧正(かんぺん

   そうじょう)

によって、

 

伽藍(がらん)

=僧が集まり、

修行する場所。

または

寺院の建物。

 

の復興が始まっ

ていた。

 

その中で、

真言密教の教主

とされる

大日如来の造像

が、計画された

とみられている。

 

円成寺の住職は

「お寺は、

 (真言宗御室派

   総本山の)

 仁和寺の寛遍

僧正によって

中興

=(再度繁栄

 させる)

されたが、

寺内には

興福寺一条院の

 

塔頭(たっちゅう)

=大寺院の敷地内

にある小寺院や

別坊。

 

があった

と言われ、

興福寺との繋がり

も、深かったよう

である。

 

それ故、

大日如来の造像は、

興福寺経由で慶派

に発注され、運慶

が、担当するよう

になった可能性が

大きい。

 

造像された

大日如来は、

運慶の若い頃の

作品であるが、

仏教への思いが、

深かったので、

手先の表現にまで、

仏教に裏打ちされ

たものが表れて

いるように思う」

と話す。

 

円成寺の造像に

次いで

運慶による造像が

明らかになったのが、

興福寺に残された

「仏頭」

である。

 

所謂、

仏像の頭の部分

ある。

 

その由来は、

江戸時代の

享保2(1717)年に

焼失した

興福寺西金堂の

本尊、

釈迦如来坐像の

頭部

だという。

 

平安末期

から

鎌倉中期の

興福寺僧の日記

から記事を抜粋

した

累聚世要抄

 (るいじゅよ

 ようしょう)

の内容が、近年

明らかになった。

 

記されていたのは、

文治2(1186)年、

西金堂で行う

修二会の本行に

間に合わせるため、

新造の釈迦物

=(釈迦如来坐像)

を西金堂に搬入す

る指示が出され、

翌日、西金堂に

運び込まれた

釈迦仏の据え付け

を、大仏師・運慶

が取り仕切った、

という事であった。

 

作業終了後に

興福寺別当から

馬1頭が与えら

れたという。

 

上記のことから

釈迦如来坐像

造立に、運慶が

関わっていたこと

が明らかとなった。

 

運慶(略歴)

平安時代末期

から

鎌倉時代初期

に活躍した

仏師。

 

安元2(1176)年、

奈良・円成寺の

大日如来坐像

を皮切りに、

仏像制作を

本格化する。

 

治承4(1180)年、

平清盛の命を受け

た5男の重衡らに

よって南都焼き

打ちで伽藍が消失

した

東大寺、

興福寺

復興造像に腕を

振るった。

 

それ故、

仏師としての地位

を示す

僧綱位(そうごうい)

は、

最上位の法印

受けた。

 

また、

源頼朝らの

「鎌倉幕府」

と結びつきを

強め、

東国でも工房

を設けて造像

を展開した。

 

代表作には、

快慶と合作の

➀東大寺南大門・

 金剛力士像、

➁興福寺北円堂・

 弥勒如来坐像、

などがある。

 

写実的で重量感の

ある作風が特徴で、

力感に溢れた新様式

を確立した。 

 

<データと資料>

 

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哲学シリーズ・人間の正体➀(二律背反、純粋理性批判)

2024-10-12 15:05:53 | 日記

はじめに

哲学シリーズを

始めるに当たっ

て、断っておき

たいことがある。

 

このシリーズは、

哲学を分かりや

すく、紐解く事

のみに集中して

いく所存である。

 

それ故、哲学用語

は、解説も含めて、

数多く用いるが、

哲学者の名前には、

出来るだけ触れず

に、進めていくの

で、読者には、予

め、ご了承願いた

いと存ずる。

 

二律背反~アンチノミー

人間には理性がある。

 

理性は、通常、

正義・善・思いやり

など、

肯定のイメージを含

んでいる。

 

同時に、絶対的かつ

完全という条件が

必要不可欠である。

 

それ故、

「純粋理性」

と呼ばれる。

 

ところが、

「純粋理性」には

相反する意味が

存在し、人間は

困惑する。

 

この状態を

「二律背反」

という。

 

純粋理性批判

具体的な例を挙げる。

➀ある人が

「心霊写真」

は、見たくない、

と思ったとする。

 

ところが、一方で、

見てみたいという

欲求が出てくる。

 

これは、

「心霊写真=恐怖」

という法則に基づき

「恐怖だから、見た

くない。」

「恐怖だけど、見て

みたい。」

という、相反する結

果に辿り着いたこと

になる。

 

では、この結果は

両方とも真なのか?

 

それとも、

一方が、偽で

もう一方が、真

なのであろうか?

 

答えは、両方とも

偽となる。

 

理由は、

相反する結果という

矛盾が生じたためで

ある。

 

それ故、

心霊写真=恐怖

という、方程式は

成立しない。

 

矛盾が生じたのなら、

それは、絶対的でも

なく、完全でもない。

 

とすれば、絶対的で

完全であるべきはずの

純粋理性は、相対的で

不完全と言える。

 

即ち、純粋理性批判

成立する。

 

②よくある家族構成

だが、

夫(息子)、嫁、姑

3人の関係性につい

て述べる。

 

夫(息子)が

姑(夫の実の母親)

に対して、

「お袋の料理の味付

けに敵うものは、

いない。」

と言及した。

 

姑(=実の母親)は、

息子から褒められた

ので、とても喜んだ。

 

一方で、

夫は嫁に対して

「お前の料理は工夫

されていて、この

世に敵うものは、

いない。」

と言及した。

 

嫁は、毎日料理の

工夫をしていたの

で、認められて、

とても喜んだ。

 

ところが、ある日、

嫁と姑が会話をし

ている際、夫(息子)

が、それぞれに言及

した内容を、相手が

知ることになるので

ある。

 

この瞬間、夫(息子)

の言葉は、

「両方とも偽」

であると、嫁と姑は

思い、夫(息子)の

人間性に疑問符が

付いたと推察でき

る。

 

どちらにも、いい

顔をする人間の発

言は、

不信しかないから

である。

 

結局のところ、

「料理に関して、

この世に敵う

ものは、いな

い。」

という

夫の思いやり(理性)

は、矛盾という形で

粉砕されたのである。

 

この結果は、

人間の理性は、完全

ではない上、限界が

ある事を示している。

 

つまり、限界のある

理性に絶対的な信頼

を向けない事(批判)

が肝要だと言える。

 

➀の例と同様に、

この考えも

「純粋理性批判」

と呼ばれる。

 

では、絶対的でも

なく、

完全でもない

「理性」

を抱えている人間

は、どのように

生きればよいの

か?

 

この問いに対して

考えていくヒント

「哲学シリーズ

  人間の正体②」

で述べたいと思う。

 

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悲劇の長屋王

2024-08-29 19:47:15 | 日記

謀反の嫌疑

奈良時代前期、聖武天皇の

治世下で、政権首班として

権勢を振るった、

長屋王(676?~729年)

が悲劇に見舞われる。

 

謀反の嫌疑をかけられ、家

族ともども自害に追い込ま

れた、

「長屋王の変」

 

謀反の告発が偽りだった事

は、後に明らかにされ、長

屋王は謀略に巻き込まれた

犠牲者だったことが明確に

なった。

 

その謀略とは、一体どのよ

うなことであったのか?

 

政権争い?

 

と言ってみればそれまで

だが、皇位継承をめぐっ

て、有力候補になり得る

長屋王やその子ども達の

排除を狙った・・・。

 

と、多くの見方が出される。

 

とはいえ、長屋王亡き後に

政権を握った藤原氏が背後

にいた事は間違いないようだ。

 

軍による糾問

内裏等が集まる平城宮(宮殿域)

の、すぐ南東側にあった広大な

長屋王邸を、

藤原宇合(うまかい)

=<不比等の三男>

の指揮する軍勢が取り巻いたの

は神亀6(729)年、2月10日の夜

だった。

 

翌11日には、

舎人親王

=とねりしんのう

=天武天皇の皇子、

新田部親王

=にいたべしんのう

=天武天皇の皇子、

議政官の

大納言

=丹治比池守

=たじひのいけもり、

中納言、

=藤原武智麻呂

=ふじわらのむちまろ

=不比等の長男

らが、邸内に入り、長屋王

を謀叛の罪で糾問した。

 

「続日本記」によると、

長屋王邸包囲と同日、

左京に住む

従七位下の漆部君足

=ぬりべのきみたる、

無位の中臣宮処東人

=なかとみのみやこの

 あずまひと

らから

「長屋王はひそかに左道

 (妖術)を学んで、国家

 (天皇)を倒そうとして

 いる」

と密告があった。

 

糾問はその真偽をただす

ことだったが、長屋王は

翌日自ら命を絶った。

 

同居していた

妻の、

吉備内親王

=きびないしんのう

=元明天皇の次女、

=文武・元正天皇の妹

と、その子、

膳夫王(かしわでおう)、

葛木王(かつらぎおう) 

鉤取王(かぎとりおう)、

の3人らも自殺した。

 

平安時代初めの仏教説話集

「日本霊異記」

では、長屋王が妻子に毒を

飲ませて絞殺したあと、自

ら服毒したとしている。

 

冤罪が判明

「続日本紀」は事件後の

様子を描いている。

 

長屋王と吉備内親王を

「生馬山」(生駒山)に

葬る際、聖武天皇は、

「吉備内親王には罪が

  ないため通例通り埋

  葬せよ。

 

 長屋王は罪により

  (成敗)されたが、

   皇族なので丁寧に

   葬るように」

と指示した上で、

「長屋王の兄弟姉妹と

   子孫、長屋王の他の

   夫人や子どもらに全

 て罪を問わない」

としている。

 

この中には、別宅に住ん

でいた夫人の、

長娥子=ながこ

=藤原不比等の娘、

その子

=安宿王(あすかべのおう)

=黄文王(きぶみのおう)

=山背王(やましろのおう)

らも含まれていた。

 

事件から9年後、衝撃的

な事実が、

「続日本紀」

に記される。

 

天平10年(738年)7月の

条に、

「(以前長屋王に仕えて

 いた)従八位下の

 大伴子虫

=おおとものこむし

 が、

 外従五位下の

 中臣宮処東人

=なかとみのみやこの

 あずまひと

 を刀で斬り殺した。

 

 たまたま政務の間に東

 人と囲碁をしており、

 話が長屋王の事に及

 ぶと、激しく怒って

 刀を抜いた。

 

 東人は長屋王のこと

 を事実を偽って告発

 した人物である。」

 

長屋王は冤罪であった。

 

天皇勅に献言

あらぬ罪により死に追い

やられた長屋王だが、

その背景には何があった

のか?

 

長屋王の死から半年後、

聖武天皇の夫人で、

藤原不比等の娘

=光明子(こうみょうし)

が皇后に立てられた。

 

皇后は、天皇に万一の

ことがあれば、天皇に

即位する可能性がある。

 

4世紀、仁徳天皇の皇后

に豪族の、

葛城襲津彦

=かつらぎのそつひこ

の娘、

磐之媛=いわのひめ

が就いていたことが知

られるものの、臣下の

女性が皇后になること

は極めて珍しいのであ

る。

 

聖武天皇と光明皇后と

の間には、

神亀4年(727年)、

男子が誕生する。

 

まもなく皇太子とされ

たが、翌年に早世した。

 

この男子が皇位に就け

ば、藤原氏は天皇の外

戚になることができた

が、潰えたのである。

 

聖武天皇にはこの年、

別の夫人との間で男子、

安積親王

=あさかしんのう

が誕生しており、皇位

につく可能性が生まれ

ていた。

 

その中で、不比等の娘

が皇后に就いたことの

意味は、大きかったと

みられる。

 

聖武天皇は即位

(724年)と共に、

母親で、

不比等の娘

=宮子(みやこ)

「大夫人」の尊称

を与える勅を出して

いる。

 

これに対し、長屋王

は、

「公式令(くしきりょう)

 を調べると、

 皇太夫人

 と称する、となってい

 ます。

 

 先の勅によれば皇の文

 字を失い、令を用いる

 と違勅となる。

 

 どう定めればよいか。

 

 お指図を?」

と述べた。

 

聖武天皇は

「文書では、

 皇太夫人

 =こうたいふじん

 口頭は、

 大御祖

 =おおみおや

 とする。

 大夫人の号は撤回

 する」

との詔を出している。

 

こうした長屋王に対し、

光明子の立后を図って

いた藤原氏は、

「皇后は、

 内親王=天皇の皇女

     や姉妹

 とするという律令の

 原則があり、律令順

 守の長屋王は反対す

 るだろう」

との読みがあったとさ

れる。

 

「長屋王の変」の背景

 について、

奈良大学の教授は

「聖武天皇と光明皇后

 との間に生まれた子

 が亡くなり、次の天

 皇として長屋王、と

 いうより、

 (天皇家との血縁関係

 が深い)吉備内親王と

 の間の3人の子(膳夫王

 ら)がクローズアップさ

 れた。

 

 光明子の立后についても、

 長屋王の反対が予想され

 た。

 

 藤原氏と関係しない天皇

 の誕生を阻止し、光明皇

 后の誕生を図ろうとする

 思惑で、藤原氏が動いた。

 

 そんな中、聖武天皇はそれ

 にストップをかけなかった

 のではないか?」

と見ている。

 

 長屋王の死後、

 議政官は、

 武智麻呂

 房前=ふささき

 =不比等の次男

 の兄弟、

 中納言の阿倍広庭

 =あべのひろにわ、

の3人となり、まもな

く、参議6人が任命さ

れた。

 

その中に、

宇合=うまかい(不比等

        三男)、

麻呂=まろ(不比等4男)

がいて、議政官9人中

4人が藤原兄弟(藤原四子)

であった。

 

この後、政権をリードする

が、6年後には4人とも流行

していた天然痘にかかって

次々と世を去った。 

 

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