謀反の嫌疑
奈良時代前期、聖武天皇の
治世下で、政権首班として
権勢を振るった、
長屋王(676?~729年)
が悲劇に見舞われる。
謀反の嫌疑をかけられ、家
族ともども自害に追い込ま
れた、
「長屋王の変」。
謀反の告発が偽りだった事
は、後に明らかにされ、長
屋王は謀略に巻き込まれた
犠牲者だったことが明確に
なった。
その謀略とは、一体どのよ
うなことであったのか?
政権争い?
と言ってみればそれまで
だが、皇位継承をめぐっ
て、有力候補になり得る
長屋王やその子ども達の
排除を狙った・・・。
と、多くの見方が出される。
とはいえ、長屋王亡き後に
政権を握った藤原氏が背後
にいた事は間違いないようだ。
軍による糾問
内裏等が集まる平城宮(宮殿域)
の、すぐ南東側にあった広大な
長屋王邸を、
藤原宇合(うまかい)
=<不比等の三男>
の指揮する軍勢が取り巻いたの
は神亀6(729)年、2月10日の夜
だった。
翌11日には、
舎人親王
=とねりしんのう
=天武天皇の皇子、
新田部親王
=にいたべしんのう
=天武天皇の皇子、
議政官の
大納言
=丹治比池守
=たじひのいけもり、
中納言、
=藤原武智麻呂
=ふじわらのむちまろ
=不比等の長男
らが、邸内に入り、長屋王
を謀叛の罪で糾問した。
「続日本記」によると、
長屋王邸包囲と同日、
左京に住む
従七位下の漆部君足
=ぬりべのきみたる、
無位の中臣宮処東人
=なかとみのみやこの
あずまひと
らから
「長屋王はひそかに左道
(妖術)を学んで、国家
(天皇)を倒そうとして
いる」
と密告があった。
糾問はその真偽をただす
ことだったが、長屋王は
翌日自ら命を絶った。
同居していた
妻の、
吉備内親王
=きびないしんのう
=元明天皇の次女、
=文武・元正天皇の妹
と、その子、
膳夫王(かしわでおう)、
葛木王(かつらぎおう)
鉤取王(かぎとりおう)、
の3人らも自殺した。
平安時代初めの仏教説話集
「日本霊異記」
では、長屋王が妻子に毒を
飲ませて絞殺したあと、自
ら服毒したとしている。
冤罪が判明
「続日本紀」は事件後の
様子を描いている。
長屋王と吉備内親王を
「生馬山」(生駒山)に
葬る際、聖武天皇は、
「吉備内親王には罪が
ないため通例通り埋
葬せよ。
長屋王は罪により
(成敗)されたが、
皇族なので丁寧に
葬るように」
と指示した上で、
「長屋王の兄弟姉妹と
子孫、長屋王の他の
夫人や子どもらに全
て罪を問わない」
としている。
この中には、別宅に住ん
でいた夫人の、
長娥子=ながこ
=藤原不比等の娘、
その子
=安宿王(あすかべのおう)
=黄文王(きぶみのおう)
=山背王(やましろのおう)
らも含まれていた。
事件から9年後、衝撃的
な事実が、
「続日本紀」
に記される。
天平10年(738年)7月の
条に、
「(以前長屋王に仕えて
いた)従八位下の
大伴子虫
=おおとものこむし
が、
外従五位下の
中臣宮処東人
=なかとみのみやこの
あずまひと
を刀で斬り殺した。
たまたま政務の間に東
人と囲碁をしており、
話が長屋王の事に及
ぶと、激しく怒って
刀を抜いた。
東人は長屋王のこと
を事実を偽って告発
した人物である。」
長屋王は冤罪であった。
天皇勅に献言
あらぬ罪により死に追い
やられた長屋王だが、
その背景には何があった
のか?
長屋王の死から半年後、
聖武天皇の夫人で、
藤原不比等の娘
=光明子(こうみょうし)
が皇后に立てられた。
皇后は、天皇に万一の
ことがあれば、天皇に
即位する可能性がある。
4世紀、仁徳天皇の皇后
に豪族の、
葛城襲津彦
=かつらぎのそつひこ
の娘、
磐之媛=いわのひめ
が就いていたことが知
られるものの、臣下の
女性が皇后になること
は極めて珍しいのであ
る。
聖武天皇と光明皇后と
の間には、
神亀4年(727年)、
男子が誕生する。
まもなく皇太子とされ
たが、翌年に早世した。
この男子が皇位に就け
ば、藤原氏は天皇の外
戚になることができた
が、潰えたのである。
聖武天皇にはこの年、
別の夫人との間で男子、
安積親王
=あさかしんのう
が誕生しており、皇位
につく可能性が生まれ
ていた。
その中で、不比等の娘
が皇后に就いたことの
意味は、大きかったと
みられる。
聖武天皇は即位
(724年)と共に、
母親で、
不比等の娘
=宮子(みやこ)
に「大夫人」の尊称
を与える勅を出して
いる。
これに対し、長屋王
は、
「公式令(くしきりょう)
を調べると、
皇太夫人
と称する、となってい
ます。
先の勅によれば皇の文
字を失い、令を用いる
と違勅となる。
どう定めればよいか。
お指図を?」
と述べた。
聖武天皇は
「文書では、
皇太夫人
=こうたいふじん
口頭は、
大御祖
=おおみおや
とする。
大夫人の号は撤回
する」
との詔を出している。
こうした長屋王に対し、
光明子の立后を図って
いた藤原氏は、
「皇后は、
内親王=天皇の皇女
や姉妹
とするという律令の
原則があり、律令順
守の長屋王は反対す
るだろう」
との読みがあったとさ
れる。
「長屋王の変」の背景
について、
奈良大学の教授は
「聖武天皇と光明皇后
との間に生まれた子
が亡くなり、次の天
皇として長屋王、と
いうより、
(天皇家との血縁関係
が深い)吉備内親王と
の間の3人の子(膳夫王
ら)がクローズアップさ
れた。
光明子の立后についても、
長屋王の反対が予想され
た。
藤原氏と関係しない天皇
の誕生を阻止し、光明皇
后の誕生を図ろうとする
思惑で、藤原氏が動いた。
そんな中、聖武天皇はそれ
にストップをかけなかった
のではないか?」
と見ている。
長屋王の死後、
議政官は、
武智麻呂と
房前=ふささき
=不比等の次男
の兄弟、
中納言の阿倍広庭
=あべのひろにわ、
の3人となり、まもな
く、参議6人が任命さ
れた。
その中に、
宇合=うまかい(不比等
三男)、
麻呂=まろ(不比等4男)
がいて、議政官9人中
4人が藤原兄弟(藤原四子)
であった。
この後、政権をリードする
が、6年後には4人とも流行
していた天然痘にかかって
次々と世を去った。
<データと資料>