ち く ま ホーム Ⅲ (いわみ学)

  岩 美 町 の 先 人、文 化、史 跡 を尋 ね て!
   一緒に岩美町を楽しみませんか?

トレック in 桐山城!

2008-04-18 14:08:15 | Weblog

                     ~ 桐山城の春を満喫しませんかぁ ~ 

                  里 山 の 春 を 楽 し む ト レ ッ ク in 桐 山 城 ! 

                   4月29日(昭和の日) 【春の動植物観察会】 


この里山周辺には、歴史的に貴重な鹽治周防守(えんやすおうのかみ)が築城したとされる桐山城。 鳥取池田藩の家臣の 『鵜殿家墓地』 また、浦富漁業発展の要となった 『いわし山番小屋』 そして、里山の豊かな四季折々の自然と桐山頂上では、東は但馬地方、西は大山、北西は天気が良ければ遠く隠岐ノ島も見渡せます。
眼下には浜浦富~岩美駅前~本庄~大谷~鳥取砂丘~網代~田後と、遠く周辺の山々の展望の素晴らしさ。 是非、皆様方に春の里山動植物観察会と春の味覚会を満喫して頂きたいと思います。



                ―スケジュール― 

                  9:00 浦富海岸 荒砂神社前に集合 
                  9:30 いわし山登山口→桐山城山頂 
                 10:30 桐山城山頂で休憩 
                 11:00 桐山城山頂→奥市登山口へ下山 
                 12:00 奥市登山口広場にて里山春の味覚会 
                 14:00 解散 

 ◎ お願い ◎
 
下山後の里山春の味覚会に参加される方は一人/1000円(山菜弁当、保険代込み)でお願いします。 
また、その他の参加者は500円(保険代込み)でお願いします。
参加ご希望の方は4月25日までに下記の岩美町観光協会まで、氏名参加人数、山菜弁当希望の有無をご連絡願います。
尚、運営上の都合により先着50名で締め切らせて頂きます。 
山歩きの出来る服装で来てください。(お茶、おにぎり持参) 
持参できれば良い物(方位磁石、双眼鏡、望遠鏡、等)
雨天決行致します。(雨具等忘れないように!)
常識的マナー モラルは守ってください。 
駐車場は小栗浜駐車場をご利用ください。 


主催  いわみガイドクラブ “I・G・C“
    岩美観光協会(0857-72-3481)
後援  MiDの会 ・山陰海岸学習館

問い合わせ先  岩美観光協会(0857-72-3481)



桐山城の散策道とガイド  (画像はフォトチャンネル浦富海岸ガイド)      Midの会 代表 油浅郁夫

平成13年10月8日体育の日、「いわし山」から尾根伝いに桐山城への道は約二百五十名の人々が連なった。まさに桐山城築城以来の人数が登ったのではないかと思われた。地元の老人から、抱っこされた子供までいる。晴天の空には尾根に沿ってホコリが舞い立っていた。「いわし山」番小屋や山頂で予定していた「自然・歴史解説」は、次から次ぎと登ってくる人で全く出来なかった。

鳥取県の東北部、兵庫県と接する岩美町の浦富海岸は、山陰随一の海水浴場である。子供の頃の遊び場は海と砂浜であった。『向島』(むこうじま)まで100メートル、青々として深く、島まで泳いで渡る事は大いに自慢出来た。現在浜で遊ぶ子供達は殆どいない。年々観光客も減っている。地元の将来を担う子供達に、せめて浜で遊び、恵まれた環境の中で育ったのだと何時か気付いてほしいと「マイドの会」が発足した。『Mukojima is Dream』向島は我々の夢だ。頭文字のMiDはミッド。向島は浦富海岸の中央。我々の年は中年にも通じる。よって『M I Dの会』「マイドの会」と名付け20名余りが参加した。

 平成8年の春、「マイドの会」は浦富海水浴場の海の島「向島」と陸の「宮島」に二本のワイヤを張り、100匹のコイノボリを渡した。この時浦富港に突き出た山を「いわし山」と呼び、番小屋の跡が今も残っているとの話が出た。早速皆で登って見た。眼下には日本海が広がり、東は岩美駅前田圃、西は城原(しらわら)沖の「黒島」も見える。なるほどイワシ網漁の合図に使った場所であった。しかし山は荒れていた。毎年30本の山桜を植えよう。3年続ければ100本、花見の出来る場所にしよう。

 浦富には花見の出来る場所がなかったし、潮風山桜は強い。笹原を切り開き倒木を始末しながら進めた。五年間で250本以上の桜を植えた。古い桜も100本有った。以前に植えたとのこと。番小屋も木の電柱を担ぎ上げて再建した。作業していてタヌキや小動物の糞、林の中には小鳥の巣も有った。ノウサギも出てきた。毎月1日、15日の神棚や仏壇の花(マツ・センダラ)を取りに入る山でもある。何時しか山頂の桐山城へと皆の気持ちが向かっていた。

 平成12年、鳥取県景観自然課の「鳥取県身近な生き物が棲む ふるさとづくり」事業に打診、県の下見には地元老人会会長の澤田秀雄さんにも立ち会って頂いた。桐山城の歴史と山の利用、奥市川(おくいちがわ)のホタル等の昆虫や小動物の話。結果、漁村の里山として散策道整備を行うことになった。10月には浜浦富自治会にも協力要請をし理事会で事業内容と住民への周知をお願いした。特に自治会長の仲野寛さんには、関係地権者全員の承諾を取り付けて頂いた。作業は10月から尾根道の伐採に掛かった。

翌年2月、まだ雪の残る中を自治会や老人会の人達30名で山頂まで登った。木製テーブル設置と立木の伐採だ。途中コナラやヤマモミジなども植えた。何十年ぶりに登った人が殆どで、鳥を掛けに上がったことなど昔話と山頂から見る自分達の村の様子に話が盛り上がった。登り口の湿地の木道、道標、解説の案内板など資材を担ぎ上げたのは大変だった。特に直径67センチ長さ8メートルの丸太(階段用の松材)を70度もある傾斜の岩場で40メートルも上げる作業は命懸けだった。

ようやく3月に完成。麓の湿地にもハナショウブなどが咲いた。10月には完成記念を兼ねて皆で登ろうとてうことになった。「桐山城で山中鹿之助を探せ」のタイトルで実施した。地元の人達が多く関わったこともあり、250名の大行列となった。毎年体育の日に実施とし、翌年も150名の参加者が有った。鳥取市や八頭郡、県外からも有った。この間、湿地の植物はカキツバタ・オモダカ・ヘラオモダカ・ミズアオイ・セリ・アヤメ・カラー・ショウブ・クサソテツ。広場にはアジサイ・コスモス・カンナ・クルミなど老人会や有志人達が自主的に植えて管理している。特に西村勤さんには年間お世話になっている。「マイドの会」では畑にサツマイモ・ナスなど育て秋のイベントに間に合わせる。山頂までの散策道の草刈りは年間通してやり、町外の登山者でも何時でも山に入れるようにしている。山の手入れによって年毎にササユリが殖えていくのが判る。植えた木が成長いていく。周りの木の名前は、草の名前は、鳴いている鳥は何だろう。キツツキが木を叩いてる。なんというキツツキだろう、いろいろ興味が湧く。

 桐山城の歴史は中世以降の浦富の歴史である。桐山城は木山・紀伊が山、あるいは磯部の城とも言った。磯部は浦富の古名である。標高203メートル海辺に立地するが、地理的には付近の要塞である。丘陵の頂に南北150メートルに細長く城郭が築かれているので、遠望すれば屋根ような形に見える。山中鹿之助が一時立て籠もった山城だ。財宝伝説もある。

 代々の城主は何れも他所の土地から来た人だが、ここに生まれ育った我々の祖先は桐山城に対してどの様に思っていただろうか。桐山城整備の目的は三っつある。一点目は、城の歴史を通じて浦富の歴史を知って欲しい。特に結婚などで浦富に住み、子供を育てて行く若い女性には是非一度は登ってもらいたい。自分の生活している町を俯瞰し、子供達を育ててもらいたい。
                                    
 現在、女性の半数近くは登って頂いたと思っている。Ⅱ点目は里山の有効活用だ。健康維持・体力維持に登るのもよい。普段、アスファルトの道を歩くだけでなく、落ち葉の上を歩む心地よさを感じて欲しい。しかし何と言っても山には季節感がある。海にも空にも季節が有る。平地での生活では気が付かない感覚が目覚めて来る。整備後、年間を通して毎日健康のために山頂に登る人がいる。町内や町外の人でも2~5人のグループ或いは団体で山に入るのをよく見かける。なかには「山頂からの夕日が素晴らしい」と言って夏の夕方、毎日登る女性もいる。三点目は、責任感だ。地権者の人達の快諾と地元の人達の協力、そして県や町からの補助金があったから出来たのだ。責任を持って作業を続けていかなければならない。

 大きな目標の少しは達成したかなと思っている。桐山城に登って思うことは、ここは城山だ。むやみに整備といって手を掛けてはいけない。なるべく傷めないように整備したつもりだ。城の遺構や瓦・石垣などの調査を進めなければならない。城の置かれた環境と歴史をしっかりと研究し、伝えていきたい。
                                    
 守るに易く攻めるに難い城として、築城時いろんな所に手が加えられている。初めて登った人にはきつい山道だが、あくまで城山だ。山全体が城なのだ。散策道とは言いながら城を意識してもらう為イベントは「桐山登山」の名称だ。田後(たじり)と浦富との山中の古い道の整備。田後から「ホーロク坂」を通って岩本に下る鳥取への旧道もある。
浦富の「御陣屋」から桐山山頂への本来の道も整備したい。植物の名前やその活用、小鳥や小動物のこともある。そして何よりも大きな目標は国土地理院の地図に桐山城標高203メートルの記載復旧を求めたい。桐山城は鳥取県の「二百三高地」なのだ。

 現在、登り口は「イワシ山」と「奥市広場」の二つある。道は途中で合流している。どちらから登っても山頂まで約40分。慣れれば25分で登れる。お薦めコースは「イワシ山」からの入山。桜の並木を通ってイワシ山番小屋で一休み。そして海を眺めながら山頂までゆっくり一時間かけて登る。帰りは同じ道をゆっくり下り、分岐点の道標から奥市広場を目指して下山するコースだ。無理に山頂まででなくても、体調とか時間に合わせて楽しんで頂けたらよい。

 今年(平成18年)は11月26日に第六回のイベントを実施。初冬の散策道を山頂まで歩きながら植物や城の歴史を解説した。下山して広場でサツマイモを堀り、鹿之助焼き芋バーベキュウを行った。来年の春は里山の有効利用として山菜解説を計画している。年中楽しめる山だ。皆さんも機会があれば是非登って頂きたい。
 
ちくまホームより転載する。



但馬往来 道しるべ

2008-04-04 16:29:08 | Weblog
ちくまホームより転載しました。


                          国道178号線拡幅記念

                        但 馬 往 来 史 跡 ウォーキング
                                               町浦富自治会だより3月号より

この度、岩美町浦富地内の国道178号が拡幅されるのを記念して、歴史的ロマンあふれる旧山陰道 但馬往来沿線と城下町浦富の史跡 名所などを地元のガイドさんのお話を聞きながら散策してみませんか、新しい発見があること間違いなしですよ。

日時    平成20年3月20日 (木・春分の日) 午前10時~12時30分
集合場所  岩美町浦富公民館 岩美町浦富1903-1
主催     但馬往来 実行委員会(構成 町浦富自治会 殿町町内会
        岩美ガイドクラブ 岩美町 鳥取県東部総合事務所)


開催内容  〇但馬往来道しるべのお披露目会
      今から百年位前に浦富の「かまや旅館」前交差点に建てられていた但馬
      地方と鳥取を結ぶ往来(山陰道)の道しるべを復元しましたのでお披露
      目します
      〇史跡巡り
      城下町浦富の数ある史跡 名所の中でも陣屋跡などベストスポットをチョ
      イスし、地元のベテランガイドさんにお話を聞きながら散歩します。
      〇岩美町の新鮮な食材を使ったお昼ご飯
      おいしい岩美町の旬の食材がいっぱいのお昼ご飯を、歴史ロマンを聞き
      ながら「かまや旅館」で一緒に食べませんか。
        (自己負担 一人500円。事前に申し込みが必要です)

問い合わせ先 但馬往来実行委員会
       実行委員長 町浦富自治会長 赤坂清 (0857-72-0581)

画像はフォトチャンネル        


① 但馬往来道しるべの云われ                                 
    この道しるべは、明治中期ごろに、当時T字路であった今の「かまや旅館」
    あたりに建てられていたもので、正面に「左 鳥取」 左側に「右 但馬 左
    へ一丁 権現山」と刻まれている。                                                      
    設置時期については吉祥院(権現山)が明治12年(1879年)に、牧谷の
    金峰山から現在の浦富地内に移転されていることから、これ以降に建てら
    れたものと推測される。

    この道しるべは、高さ2メートル、幅は約40センチの柱状の自然石で造ら
    れており、岩美町に遺る道しるべとしては最大級のものである。

    もともと、但馬往来は、但馬地方と鳥取地方を結ぶ街道で、、蒲生峠を越え
    るルートと、海岸線の七坂八峠を通る二つのルートかあった。

    「因幡行日記(天保2年1831年)」には、七坂八峠を通り、浦富に宿泊し
    た旅人の記録も残っている。


     浦富は、江戸時代、鳥取藩の執政職(家老)を勤めた鵜殿氏の管地となっ
    てから、近郷の中心として発展し、商家・宿屋も増えて但馬から鳥取城下ま
    での旅の中継地になっていた。旅人は浦富に泊まり旅の疲れを取って、翌
    朝、駟馳山峠を越えて砂丘を歩き鳥取に向かったのである。

    江戸時代中期以降になると旅人の往来が増し、各地に道しるべが造られる
    ようになった。この道しるべは、交通事故により何度も破損し移転もしたが、
    町民の手で守られ現在に至っている。 

   熊野神社
    但馬往来の浦富の入り口に鎮座する。 江戸時代に入って鵜殿氏が浦富を
    管冶するようになってから勧請したものである。 それ以前は若一権現といっ
    た。 鵜殿氏の崇敬厚く、享保年間には、神幸祭礼を創設した。


   御陣屋跡
    現在、カスミ株式会社となっている土地である。ここに鵜殿氏が浦富を治め
    る役所があった。 この外、御武具蔵・御米蔵・鉄砲打ち場などがあり、自分
    手政治を行う五千石の鵜殿氏の政庁があったのである。 南の山には稲荷
    さん、西側の山には妙見さんが祀られていた。  山の麓に御陣屋の井戸が
    今に残ってわき水は尽きない。


   吉祥院
    浦富の権現山のことである。 明治の 「神仏分離令」により金峰山から泣く
    泣く山を降りた龍王寺が、ここに吉祥院として復活ものである。 権現とは仏
    が神に化身したものである。


   定善寺
    宗派は浄土宗、現在京都知恩院末、本尊 阿弥陀如来。 寺は最初広岡に
    あり、次に熊野神社の丘に移り、現在地が二度目の移転である。


②  井戸
    城下町の要所には、掘り抜き井戸が設けられており、生活用水として、また
    防火に備えた。


④  大師堂(木戸)
    浦富の入り口にあり、これを「一の木戸」といった。通行人を取り締まったも
    のであろう。木戸の右側には大師堂が今もある。


⑤⑧ 大名小路と仙龍寺  
    この名称が何時の頃出来たのか詳でないが、鳥取城下には家老小路とい
    うのがある。 細い道でここを北へ出れば海が見える。 南に小路をたどれ
    ば山の麓に本寺妙要寺末で仙龍寺という日蓮宗の寺がある。 領主 鵜殿
    大隅守の菩提寺である。


⑥  垣屋八幡宮
    定善寺入り口にある。鳥取藩祖 池田光政の頃、墓を移転し垣屋宗鑑の霊
    魂をここに祀った。元あった所は涼山の麓 「御陣屋」 である。


⑦  通幻禅師出生地
    町浦富を通る旧道筋にある。 ここは香林寺の旧跡でもあり、禅師出生の
    いわくを亥した土葬神を つげのさい という。丹波 永沢寺の記録に通幻寂
    霊は因幡国濃郡磯部(浦富)の人とある。


A かぎ形道路
    城下町の特徴であるかぎ形に構成された道のことである。 垣屋氏が領主
    であった時、上町、中町、下町の三町を中心に町が構成された。 4・5箇所
    のかぎ形道路は昔のまま残っている。 かぎ形の道は敵の浸入を防ぎ自ら
    を守る工夫から生まれており、御陣屋へと向かっている。


B お台場
    鵜殿氏によって文久三年(1863年)築造された。 外国船を迎え撃つため
    の砲が据え付けられ、民兵によって守備された。 二カ所あった。


C からつ山 または はなかじ(町指定史跡)
    安政二年(1855年)創始された浦富焼の窯跡のことである。当時、鳥取藩
    は殖産振興政策をはじめており、磁器窯をはじめて日用の雑器を焼かせた。


D 運河の開削
    垣屋氏の時代、浦富田圃を通る川より浜浦富に向けて運河が計画されてい
    た。 祖谷川と堀川との合流点から町浦富の中通りに沿って低くなった地形
    が浜浦富に向かって遺っているのが今でもわかる。 町道 女掘り線 として、
    その名を残しています


E 鵜殿家墓地
    奥市にある。約12碁。 鳥取藩執政職(家老となることができる着座家)と
    して江戸時代を終わった。

画像はhttp://blog.goo.ne.jp/photo/226509?fm=usch

                 ちくまホームより転載

    ちくまホームⅡより
    家の前の道、昔は但馬往来と呼ばれていて、昭和42~3年頃迄?はT字型の三叉路でした。   
    三叉路の右脇 あぶら屋 の前に「右 但馬 左 鳥取」の 道しるべ が建っていました。
    交通事故(その昔は荷馬車 ちょっと昔はトラック) なんやかやで傷だらけの人生?
    放浪している時?にバイパスが出来、十字の交差点となり国道178号線として整備されました。
    そして今、浦富地内の178号線は 道路拡張工事で大きく様変わり!
    拡張記念として 当時の 「 但馬往来 道しるべ 」 の復活です。
    20日に お披露目だそうです。
    でも 嬉しいやら! 懐かしいやら! 気恥ずかしいやら …!