橋浦泰雄は、明治二十一(1888)年十一月三十日、鳥取県岩井郡大岩村岩本(現在の岩美町岩本)に十人兄弟の六番目として生まれました。社会運動家、日本画家としても知られています。
橋浦は明治四十四年、岩美郡大茅村楠城(現在の鳥取市国府町)出身の野村千茅(後の野村愛正)から鳥取の文芸サークル・白日社に誘われ、吉村撫骨(秀治)、井上星蔭(義道、後の白井喬二)らと知り合います。
翌年、白日社は水脈文芸会と改称し、文芸誌『水脈(みお)』を発行。大正三(1904)年頃に廃刊となりますが『水脈』同人のうち、野村愛正、白井喬二は後に中央の文壇で活躍、吉村撫骨は『我等』を創刊するなどして鳥取で文化活動を続けました。『水脈』は鳥取の近代文学を確立した存在であったといえます。
橋浦は上京後も『水脈』同人と書簡のやりとりを続けましたが、その他にも涌島義博、尾崎翠、など多くの鳥取県出身の文学者と交流しました。また、東京では小説家の有島武郎と知り合い、大正十二年四月(有島死去の約一ヶ月前)、ともに米子・松江・鳥取で講演会を行っています。有島がこの講演旅行の際に詠んだ歌は、現在鳥取砂丘の歌碑となっています。
一方、民俗学者としては、日本民族学の創始者・柳田国男に師事し、昭和十三(1938)年より民間伝承の会(日本民族学会の前身)発行雑誌『民間伝承』の編集を担当しました。また、昭和十年に開催された日本民族学講習会の運営に携わり、鳥取から蓮佛重壽の参加を要請しました。蓮佛は、講習会参加をきっかけに、鳥取において雑誌『因伯民談』を発行し、講演会を開くなど民俗学の興隆につとめました。
橋浦泰雄は画家・民俗学者・社会主義運動家であり、また鳥取における文壇形成の先駆者・広辞苑第一版時の執筆者でもあった ~略~ 自らのめざす道を迷うことなくひたすらに歩んできた橋浦泰雄のバックボーンの強さは、風雪に耐え抜いた九十年の人生でもわかるにちがいない。 数々のエピソードに包まれたその生涯は今や伝説化しつつあるものさえあるが、その広くて深い業績はわが国の文化史のなかでもっともっと評価されるべきであろう。
五塵録 解説 橋浦泰雄その生涯と業績 より‥‥ 竹内道夫
橋浦泰雄略歴
明治二十一年、岩本に十人兄弟の六番目として生まれる。十六歳で「平民新聞」に接し、幸徳秋水訳の「共産党宣言」に共鳴、二十一歳の時上京し幸徳と会う。「回覧」を創刊。二十三歳頃より郷土の新聞に短歌・新体詩などを発表、同人誌「水脈」を発刊。 二十七歳頃より絵を始める。
大正十四年、下北半島を訪れ、原始共産等制の遺制に驚き、柳田国男を訪ねる。その後、民俗学の論文を続々と発表。 昭和二十五年、日本民俗学会で柳田国男・折口信夫とともに名誉会員に推される。 昭和五十四年没。享年九十一歳。
写真は 左から橋浦泰雄 尾崎翠 秋田雨雀 (昭和五年)
図書館出会いの広場 (鳥取県立図書館学芸員、渡邉仁美) より抜粋
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