ち く ま ホーム Ⅲ (いわみ学)

  岩 美 町 の 先 人、文 化、史 跡 を尋 ね て!
   一緒に岩美町を楽しみませんか?

但馬往来 道しるべ

2008-04-04 16:29:08 | Weblog
ちくまホームより転載しました。


                          国道178号線拡幅記念

                        但 馬 往 来 史 跡 ウォーキング
                                               町浦富自治会だより3月号より

この度、岩美町浦富地内の国道178号が拡幅されるのを記念して、歴史的ロマンあふれる旧山陰道 但馬往来沿線と城下町浦富の史跡 名所などを地元のガイドさんのお話を聞きながら散策してみませんか、新しい発見があること間違いなしですよ。

日時    平成20年3月20日 (木・春分の日) 午前10時~12時30分
集合場所  岩美町浦富公民館 岩美町浦富1903-1
主催     但馬往来 実行委員会(構成 町浦富自治会 殿町町内会
        岩美ガイドクラブ 岩美町 鳥取県東部総合事務所)


開催内容  〇但馬往来道しるべのお披露目会
      今から百年位前に浦富の「かまや旅館」前交差点に建てられていた但馬
      地方と鳥取を結ぶ往来(山陰道)の道しるべを復元しましたのでお披露
      目します
      〇史跡巡り
      城下町浦富の数ある史跡 名所の中でも陣屋跡などベストスポットをチョ
      イスし、地元のベテランガイドさんにお話を聞きながら散歩します。
      〇岩美町の新鮮な食材を使ったお昼ご飯
      おいしい岩美町の旬の食材がいっぱいのお昼ご飯を、歴史ロマンを聞き
      ながら「かまや旅館」で一緒に食べませんか。
        (自己負担 一人500円。事前に申し込みが必要です)

問い合わせ先 但馬往来実行委員会
       実行委員長 町浦富自治会長 赤坂清 (0857-72-0581)

画像はフォトチャンネル        


① 但馬往来道しるべの云われ                                 
    この道しるべは、明治中期ごろに、当時T字路であった今の「かまや旅館」
    あたりに建てられていたもので、正面に「左 鳥取」 左側に「右 但馬 左
    へ一丁 権現山」と刻まれている。                                                      
    設置時期については吉祥院(権現山)が明治12年(1879年)に、牧谷の
    金峰山から現在の浦富地内に移転されていることから、これ以降に建てら
    れたものと推測される。

    この道しるべは、高さ2メートル、幅は約40センチの柱状の自然石で造ら
    れており、岩美町に遺る道しるべとしては最大級のものである。

    もともと、但馬往来は、但馬地方と鳥取地方を結ぶ街道で、、蒲生峠を越え
    るルートと、海岸線の七坂八峠を通る二つのルートかあった。

    「因幡行日記(天保2年1831年)」には、七坂八峠を通り、浦富に宿泊し
    た旅人の記録も残っている。


     浦富は、江戸時代、鳥取藩の執政職(家老)を勤めた鵜殿氏の管地となっ
    てから、近郷の中心として発展し、商家・宿屋も増えて但馬から鳥取城下ま
    での旅の中継地になっていた。旅人は浦富に泊まり旅の疲れを取って、翌
    朝、駟馳山峠を越えて砂丘を歩き鳥取に向かったのである。

    江戸時代中期以降になると旅人の往来が増し、各地に道しるべが造られる
    ようになった。この道しるべは、交通事故により何度も破損し移転もしたが、
    町民の手で守られ現在に至っている。 

   熊野神社
    但馬往来の浦富の入り口に鎮座する。 江戸時代に入って鵜殿氏が浦富を
    管冶するようになってから勧請したものである。 それ以前は若一権現といっ
    た。 鵜殿氏の崇敬厚く、享保年間には、神幸祭礼を創設した。


   御陣屋跡
    現在、カスミ株式会社となっている土地である。ここに鵜殿氏が浦富を治め
    る役所があった。 この外、御武具蔵・御米蔵・鉄砲打ち場などがあり、自分
    手政治を行う五千石の鵜殿氏の政庁があったのである。 南の山には稲荷
    さん、西側の山には妙見さんが祀られていた。  山の麓に御陣屋の井戸が
    今に残ってわき水は尽きない。


   吉祥院
    浦富の権現山のことである。 明治の 「神仏分離令」により金峰山から泣く
    泣く山を降りた龍王寺が、ここに吉祥院として復活ものである。 権現とは仏
    が神に化身したものである。


   定善寺
    宗派は浄土宗、現在京都知恩院末、本尊 阿弥陀如来。 寺は最初広岡に
    あり、次に熊野神社の丘に移り、現在地が二度目の移転である。


②  井戸
    城下町の要所には、掘り抜き井戸が設けられており、生活用水として、また
    防火に備えた。


④  大師堂(木戸)
    浦富の入り口にあり、これを「一の木戸」といった。通行人を取り締まったも
    のであろう。木戸の右側には大師堂が今もある。


⑤⑧ 大名小路と仙龍寺  
    この名称が何時の頃出来たのか詳でないが、鳥取城下には家老小路とい
    うのがある。 細い道でここを北へ出れば海が見える。 南に小路をたどれ
    ば山の麓に本寺妙要寺末で仙龍寺という日蓮宗の寺がある。 領主 鵜殿
    大隅守の菩提寺である。


⑥  垣屋八幡宮
    定善寺入り口にある。鳥取藩祖 池田光政の頃、墓を移転し垣屋宗鑑の霊
    魂をここに祀った。元あった所は涼山の麓 「御陣屋」 である。


⑦  通幻禅師出生地
    町浦富を通る旧道筋にある。 ここは香林寺の旧跡でもあり、禅師出生の
    いわくを亥した土葬神を つげのさい という。丹波 永沢寺の記録に通幻寂
    霊は因幡国濃郡磯部(浦富)の人とある。


A かぎ形道路
    城下町の特徴であるかぎ形に構成された道のことである。 垣屋氏が領主
    であった時、上町、中町、下町の三町を中心に町が構成された。 4・5箇所
    のかぎ形道路は昔のまま残っている。 かぎ形の道は敵の浸入を防ぎ自ら
    を守る工夫から生まれており、御陣屋へと向かっている。


B お台場
    鵜殿氏によって文久三年(1863年)築造された。 外国船を迎え撃つため
    の砲が据え付けられ、民兵によって守備された。 二カ所あった。


C からつ山 または はなかじ(町指定史跡)
    安政二年(1855年)創始された浦富焼の窯跡のことである。当時、鳥取藩
    は殖産振興政策をはじめており、磁器窯をはじめて日用の雑器を焼かせた。


D 運河の開削
    垣屋氏の時代、浦富田圃を通る川より浜浦富に向けて運河が計画されてい
    た。 祖谷川と堀川との合流点から町浦富の中通りに沿って低くなった地形
    が浜浦富に向かって遺っているのが今でもわかる。 町道 女掘り線 として、
    その名を残しています


E 鵜殿家墓地
    奥市にある。約12碁。 鳥取藩執政職(家老となることができる着座家)と
    して江戸時代を終わった。

画像はhttp://blog.goo.ne.jp/photo/226509?fm=usch

                 ちくまホームより転載

    ちくまホームⅡより
    家の前の道、昔は但馬往来と呼ばれていて、昭和42~3年頃迄?はT字型の三叉路でした。   
    三叉路の右脇 あぶら屋 の前に「右 但馬 左 鳥取」の 道しるべ が建っていました。
    交通事故(その昔は荷馬車 ちょっと昔はトラック) なんやかやで傷だらけの人生?
    放浪している時?にバイパスが出来、十字の交差点となり国道178号線として整備されました。
    そして今、浦富地内の178号線は 道路拡張工事で大きく様変わり!
    拡張記念として 当時の 「 但馬往来 道しるべ 」 の復活です。
    20日に お披露目だそうです。
    でも 嬉しいやら! 懐かしいやら! 気恥ずかしいやら …!
                           

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