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一人の人間を救済せよ!!

2005年12月04日 | 憲法
 タイトル、カッコイイって、思いません? 私、こんなんが好きなんです(笑)。

 裁判官の報酬の減額について書込みをしたいと思います。報酬の減額とタイトルがどう繋がるかは、読んでみてのお楽しみです(笑)。

 さて、裁判官の報酬が減額されましたが、これは憲法違反にならないのでしょうか? 憲法79条6項と同80条2項は次のとおり規定されています。

憲法79条6項
「最高裁判所の裁判官は、すべて定期に相当額の報酬を受ける。この報酬は、在任中、これを減額することができない。」

憲法80条2項
「下級裁判官の裁判官は、すべて定期に相当額の報酬を受ける。この報酬は、在任中、これを減額することができない。」

 このような規定があるにも関わらず、裁判官の報酬を減額してよいのでしょうか?

 憲法違反になるかどうかを検討する前に、なぜ、このような規定が設けられているかを考えてみましょう。国会議員については、49条に「両議院の議員は、法律の定めるところにより、国庫から相当額の歳費を受ける。」と規定がありますが、内閣については規定がありません。

 私は次のように考えます。まず、国会は、選挙で選ばれた国会議員によって構成され、その国会の多数の支持で内閣総理大臣が指名されます。つまり、両者は、国民の多数派の支持によって、その存立が維持されているといえます。これを、ここでは、多数派支配民主主義と呼びます。

 一方、裁判所(裁判官)は、選挙では選ばれていません。つまり多数派支配民主主義に依拠していないのです。
 それでは、裁判所や裁判官に係る憲法規定を挙げると、76条に司法権、77条に規則制定権、78条に裁判官の身分保障、81条に違憲審査性、82条に裁判の公開が規定されています。

 これらの規定をどう考えるかですが、憲法は前文と103条で構成されていますが、一括して、国民投票にかけられ、過半数の賛成により成立しています。ということは、憲法よりも上位の意思、つまり上位規範を想定せざるを得ないのではないでしょうか?

 私が思うには、国会や内閣は多数派の支持によって、その存立を維持されていますから、時として、少数派は迫害する可能性があります。この少数派を裁判官が擁護するために、裁判官の身分保障や報酬の減額禁止規定が設けられたのではないでしょうか?、もしそうであるならば、裁判官に課せられた憲法の上位規範は、“一人の人間を救済せよ”ということではないでしょうか?

 もしそうであるならば、報酬の減額が、この上位規範に反するのであるなら、憲法違反ですし、反しないのなら合憲だと考えてよいでしょう。では、違憲か合憲をどのように判断すればよいのでしょうか?
 私は、必要性と相当性の二つの概念をもって判断すべきだと思います。例えば、あなたが、友人と午後5時にある場所で待ち合わせの約束をしたとします。30分経過しても友人は現れません。友人の携帯にかけても繋がりません。あなたは、さぞかし憤慨されるでしょうし、絶交も考えられるかもしれません。

 しかし、後日、その友人が待合わせの場所に行く途中、交通事故に遭い、あなたが待っている時は、病院に搬送中だったことを知ったなら、あなたは、その友人を許されるのではないでしょうか。では、なぜ、破ってはならない約束(憲法)を守らなかったにも関わらず、友人を許されるのでしょうか? それは、交通事故という突発性による“必要性”と、負傷を負ったことによる“相当性”が存在すると、あなたが判断されるからではないでしょうか?

 人が、人生を生きていくためには、絶対に破ってはならない約束(憲法)であったとしても、必要性と相当性があれば、破ってもよいということだと思います。別の言い方をすれば、約束(憲法)を交わす時にあらゆる条件を付けて交わすことができないのです。私たちが生活をする上で、予測できない事態は必ず生じるからです。

 裁判官の報酬の減額を考えるためには、その減額のための必要性と相当性の検討が不可欠だと思います。ところが、それらを十分に検討されたと、私には思えません。このような憲法の明文の規定を安易に法律によって否定するのであれば、“法の支配”を維持することは不可能だと思います。




“死者”は“生者”を拘束することができない。されど・・・

2005年12月04日 | 憲法
 普段の日曜日の午後は、長男とサッカーの練習をしに公園に言ってるのですが、今日は、雨でしたからほとんど家にいました。昨日は、観戦に行っていたのですが、セレッソ大阪がFC東京と同点で優勝を逸しました。我が家の休みは、サッカー中心で動いています(笑)。

 さて、近畿大学の佐藤幸治教授の『憲法(第三版)』99頁(青林書院、平成7年4月15日発行)から、私が最も好きな箇所をご紹介します。この佐藤教授の著書は、私が法律書で知的興奮を覚えた二冊の内の一冊です。

「主権者(憲法制定権力者)たる国民が立憲主義憲法を制定する場合、そのときの国民は、個人の人格的規律が尊重される“良き社会”の形成発展という長期的視野に立って自己拘束をなし、また、後の世代がそれぞれの時代の状況に柔軟に対応しつつ“良き社会”の形成発展に向けて自己統治を行うことを容易にする政治システムを構築しようとするのである。過去の国民(“死者”)が現在の国民(“生者”)を拘束することが許されるのは、現在の国民(“生者”)が自由な主体として自己統治をなすことができる開かれた公正な統治過程を保障するという場合のみであろう。
 このような意味において、国民がその担い手である憲法改正権は制度化された憲法制定権力と解されるから(省略)、改正の場に登場する国民はそのものに擬すべき存在と解すべきであろう。これによって、主権者たる国民は、制度枠組自体をそれぞれの自体をそれぞれの時代に制度的に適応せしめる途が開かれている。」

 某保守系評論家から、現行憲法を制定した国民はほとんど亡くなっている。その“死者”によって、現在の国民が拘束されるのは、おかしいではないかと主張されていました。この主張には、一定の真理が存在すると思います。
 しかし、この見解を否定する憲法解釈を提示されたのは、私の知る限り、佐藤教授お一人だと思います。

要件事実論について

2005年12月04日 | 民事訴訟法
 私は要件事実論について、よく理解していませんし、現状で公表することに躊躇するのですが、取り敢えず、ここで公にすることが、私自身の勉強になるのではと考えましたので、書き込みしたいと思います。

 まず、要件事実とは、「実体法に規定された、法律効果の発生要件(構成要件)に該当する事実。通常、要件事実も主要事実・直接事実と同義で用いられるが、要件事実は法規範の構成要件要素としての類型的事実(例えば、「金銭の授受」)であるのに対し、主要事実・直接事実は要件事実を当該事件に即して具体化した事実(例えば、「○月○日に原告は被告に金100万円を渡した」)であるとして、両者を区別する見解もある。」と言われています(『コンサイス法律学用語辞典』(三省堂、2003年12月20日発行)から引用)。

 前者の見解が、最高裁判所の司法行政上の直属の下級機関である司法研修所の見解で、後者の見解が民事訴訟法学者の多数の見解だそうです。ここでは、司法研修所の見解を前提として、述べてみたいと思います。

 私は、要件事実論を将来の法曹のみならず、本人訴訟支援や争訟性のある法律事務、例えば、示談、代理に携わる方も学ぶべきものだと考えます。その理由として、
第一に、訴訟におけるルールとして、全国のどこの裁判所であっも、同様のルールに基づき民事訴訟における原告と被告との間において、民法、商法等の実体法を基礎にしながら、公平な“裁判”(競争)が行われることが、憲法の法の下における平等に取扱われる権利と裁判を受ける権利の実質性を担保するものだと考えるからです。

第二に、司法における訴訟は、基本的に国民に対する“司法サービス”(山本和彦一橋大学教授)だと考えますが、あくまでも、①裁判所の人員、②裁判所の予算、③1日は24時間であるという時間的制約(以上の三点を総称して、「訴訟経済」という。)に訴訟当事者は服さざるを得ません。ですから、原則として、原告と被告の両者が、競争のルール(要件事実論)を承知し、そのルールに基づいて競争が行われる必要があります。もし、このルールに従わなければ、非常に時間がかかり、当事者が不利益を被るのみならず、裁判所にとっても過重の負担を強いられることになるからです。

 この要件事実論に関して、創価大学の伊藤滋夫教授は、「裁判規範としての民法」を提唱されています。しかし、私には伊藤教授がどの程度の実践的課題を含んだ内容を提唱されているのかがよく分かりません。例えば、個人的に民法の要件事実論としてマニュアルを作成するという趣旨であれば、個人(伊藤教授)の自由ですし、民法等の実体法に立証責任の分配規定を記述せよと主張される趣旨ならば、立法論ですから、これも自由でしょう。

 しかし、伊藤教授の提唱はいずれでもないはずです。提唱者の真意が分からないため、これ以上、言及することは差し控えますが、私としては、伊藤教授の提唱には違和感を覚えます。

 ただし、伊藤教授は、私が前述した法的安定性の重視と訴訟経済を勘案した上で、激務にさらされている裁判官を少しでも救済しようとするお考えで、ご自身の見解を表明されているものと信じます。

 また、先ほど、法律実務家が要件事実論を習得することに賛同しましたが、それは一定の“基礎的なルール”として意味合いにおいてです。あくまでも、実体法の解釈は、一義的な解釈ができませんので、論者にって解釈が異なります。さらに解釈が異なれば、要件事実論の内実も異なることは当然のことだと思います。

 さらにいえば、最高裁判例の理解も論者によって異なる可能性がありますから、異なれば、要件事実論も異なる場合はあり得ると思います。ですから、それぞれの論者が主張する要件事実論を吟味するしかないのではないでしょうか。

(参考)
 司法研修所教官 村上正敏判事執筆「民法学への期待 ---日本私法学界シンポジム『要件事実論と民法学との対話』についての報告を読んで」(NBL No.815(2005.8.15))