義経公の悲劇ばかり、とりあげられますが
奥州平泉(現在の岩手県)に落ち延びた藤原家に
『義経を差し出せ

』
再三、警告…手紙を送りつけた頼朝
再三…(~_~;)
本当に罰するためなら、書状など送らずとも
攻めればいいもの
『逃げろよ

早く逃げないと、こちらから(頼朝自身が)攻めなくちゃ、ならなくなる

』
逃げる時間を与えていたのでは
一説では義経公は北(蝦夷地→北海道、中国)に、
逃げたと伝わっています
宮城県栗原市には、義経の妻と娘
義経の身代わりになった
『福島城主・杉ノ目太郎』の墓があります
自害した義経の首を
かなりの時間をかけて鎌倉・頼朝公のもとへ…
変だと思いませんか?
頼朝公が義経公の首を…
『死』を望むのであれば
側近たちは一刻も早く届けるはず
やっと届いた首も確認しない頼朝公
実際は、腐敗がひどく
『誰のもの(頭)かわからない

』
状況だったそうです
岩手県に逃げる義経公
『畠山重忠』という頼朝公の側近が
放った弓矢が奉納されている神社があります
弓矢の名人だった彼が何度も外す
『当たるな

当たるな…。お逃げくださりませ…。(T_T)

』
弓を外しながら、義経公が逃げるのを
サポートしていたのではないかと…
もし、義経公が平泉で果てていたら…。
重忠の足跡が岩手県の各地にあるのは不自然
逃がす…誰の命令か

もちろん頼朝公
頼朝公=弟に非道なイメージですが…
武家の世を夢見た平家がなぜ滅んだか…

血筋で馴れ合ってはならぬ
源氏のプリンス義経公…。
頼朝公の弟君、義経公ではない振る舞いをされればこんな悲劇にはならなかったと…。
義経公の『雄の児』を産んだ静御前から子を奪い
由比ヶ浜に沈めたと言われていますが…
実際はかくまったとの諸説あり
記録と伝承・伝書は
必ずしも合致するとは限らない…
源義経公…。
貴方の魂が癒されますように…。
時を越えてお祈り申し上げます…。