開館10周年記念
画家が見たこども展
ゴッホ、ボナール、ヴュイヤール、ドニ、ヴァロットン
2020年2月15日〜6月7日
三菱一号館美術館
本展のプロローグ〈「子ども」の誕生〉は、ナビ派に影響を与えた先輩画家が子どもを描いた作品を取り上げる。
ブーデ・ド・モンヴェル(1850-1913)、ポール・マテイ(1844-1929)、カリエール(1849-1906)、ルノワール(1841-1919)、ゴーガン(1848-1903)、メイエル・デ・ハーン(1852-95)、スタンラン(1859-1923)。
そしてファン・ゴッホ(1853-90)である。
展示風景:ブロガー特別内覧会にて主催者の許可を得て撮影。
ゴッホ
《マルセル・ルーランの肖像》
1888年
ファン・ゴッホ美術館
ルーラン家の末娘マルセル。生後4ヶ月。丸々した顔の元気な赤ん坊ぶりが実に好ましく描かれていて、ゴッホの子どもに対する愛情が感じられる魅力的な作品。
ゴッホ(1853年生)は、1888年2月20日、アルルに到着する。
しばらくして、ジョゼフ・ルーランと居酒屋で知り合う。
ジョセフは、1841年生まれとゴッホより12歳年上で、ゴッホが住むこととなる黄色い家(契約は5月だが、住むのは9月)から5分弱の所に一家で住んでいた。
ジョゼフの仕事は「郵便配達人」と紹介されることが多いが、実際にはアルル駅で郵便物の管理を担当していたとされる。
1888年7月末から8月初旬、ジョセフは初めてゴッホのモデルを務める。2点の油彩画が制作される。
ボストン美術館所蔵の椅子に座った全身像と、デトロイト美術館所蔵の胸から上の半身像である。
1888年7月 ゴッホから妹ヴィルあての手紙
今僕は黄色をつけた濃い青の制服姿の郵便夫の肖像と取り組んでいる。ほぼソクラテスみたいな頭部で、鼻はほとんどなきがごとく、大きな額、禿げた脳天、小さな灰色の目、血色のいい、ふっくらとした頬、ごま塩の大きな鬚、大きな耳。この男は大の共和主義者にして社会主義者、議論もなかなかりっぱで、博識だ。彼の細君が今日出産した。だから彼は大喜びで、満足に輝いている。
みすず書房『ファン・ゴッホの手紙』
1888年8月 ゴッホから弟テオへの手紙
先週はわが郵便夫の肖像を一点のみか二点も描いた。両手を入れた半身像と等身大の頭部だが、このおやじ金を受けとらないで、一緒に飲み食いしたので、かえって高くかかってしまった。それに彼にはロシェフォールの『ランタン』までやってある。でも結局彼が実によくポーズしてくれたことに比べれば、こんなのは些細なとるに足らぬことだ。それに僕は近く彼の生まれたての子も描こうと思っている。彼の細君が出産したばかりなのだ。
みすず書房『ファン・ゴッホの手紙』
ゴッホの思惑どおり、ルーラン夫妻とその子どもたちがモデルになってくれたのは、1888年11月末から12月初めの頃、ゴーガンとの共同生活中のことである。
この時期にゴッホが制作したのは、10点ほどであるようだ。
ジョセフ
1点
妻オーギュスティーヌ
(1851年生、ゴッホより2歳年上)
3点(うち2点がマルセルと一緒)
長男アルマン
(1871年生、当時17歳)
2点
次男カミーユ
(1877年生、当時11歳)
3点
末娘マルセル
(1888年7月生、生後4ヶ月)
2点(単独)
なお、共同生活中のゴーガンも、ルーラン夫人をモデルにした作品を1点制作しているようだ。
以下、末娘マルセルを描いた作品。
《赤ん坊マルセルを抱くルーラン夫人》
フィラデルフィア美術館
《赤ん坊マルセルを抱くルーラン夫人》
メトロポリタン美術館
《マルセル・ルーラン》
ゴッホ美術館(本展出品作)
《マルセル・ルーラン》
ワシントン・ナショナル・ギャラリー
1888年11月 ゴッホから弟テオへの手紙
しかし以前顔を描いた郵便配達夫の家族全体の肖像画は描き上げた--夫と妻、赤ん坊、小さな男の子と十六歳になる息子、みんな変り者で、一見ロシア人のように見えるが歴としたフランス人なのだ。大きさはいずれも十五号--きみはわかってくれようが肖像はぼくの本領だという気がするし、医者にならなくともこれで或る程度心が慰められる。ぼくはこの気持をまげないで、金を払ってもいいから肖像画としてもっと真剣なポーズをとらせることが出来たらと思う。あの一家をさらによく描けるようになれば、少くとも自分の好みにあった個性的なものが出来上るだろう。目下のところは習作また習作、明けても暮れても勉強で、こういう状態はまだつづくだろう。まったく目もあてられぬほど五里霧中だが、四十歳になればいくらか自分のものになると思う。
みすず書房『ファン・ゴッホ書簡全集』
その後、ゴッホは、ルーラン夫人の肖像画《ゆりかごを揺らすルーラン夫人》制作に着手するが、ゴーガンとの共同生活の破綻、耳切り事件&入院により中断。1月から4月までの期間、入退院を繰り返すなか、《ゆりかごを揺らすルーラン夫人》を再開・完成させ、さらに4点の計5点となる連作を制作。また、ジョセフの肖像画を3点制作。これらは本人を目の前にすることなくの制作である。
こうして、一家の肖像画は20点以上残される。
ルーラン夫妻は、精神的にもゴッホの支えとなる。ゴッホが耳切り事件の後入院した際も、ジョゼフはゴッホを定期的に見舞い、1月4日、外出が許されたときには、黄色い家で4時間を過ごす彼に付き添っている。パリに住む弟テオとも連絡を取り合い彼を支える。ジョセフは1月21日にマルセイユに転勤(単身赴任)するが、そののちも交流は続く。
1889年4月 ゴッホから弟テオへの手紙
ちょうど今日、そら、あの友だちのルーランがぼくのところへやってきた。きみに万々よろしくとのこと、それからおめでとうということだ。彼が訪ねてきてくれたので、ぼくは非常にうれしかった。いわば身に余る重荷を彼は度々背負わされているが、それでも根が百姓らしい丈夫な体質だから、いつみても元気そうでにこにこしている。それでもしょっちゅう彼から教わっているぼくにとっては、話のひまひまに、年を老いると若いときのようにはいかぬものだよなどといわれると、じっさいどれだけ将来の教訓になるかしれない。(略)
ルーランはぼくにとって、父親に相当するほどの年かさではないが、ぼくに対しては老兵が新兵にたいするような無言の貫禄といたわりの感情をもっている。
みすず書房『ファン・ゴッホ書簡全集』
波瀾万丈、トラブルメーカーのゴッホ。その伝記の中で、ルーラン一家との交流は、ホッとさせてくれるエピソード。実際のところルーラン夫妻はゴッホのことをどう思っていたのだろうか。