東京でカラヴァッジョ 日記

美術館訪問や書籍など

【後期】「篁牛人展ー昭和水墨画壇の鬼才」(大倉集古館)

2021年12月26日 | 展覧会(日本美術)
生誕120年記念
篁牛人展ー昭和水墨画壇の鬼才
2021年11月2日〜2022年1月10日
大倉集古館
 
 
 富山の水墨画家、篁牛人(たかむら ぎゅうじん、1901~84)の回顧展を再訪する。
 
 先日NHK日曜美術館が取り上げていた(私は観ていない)が、平日であるためか、鑑賞者数は、放送前の前回週末訪問時とそれほど変わらない印象。
 
 後期入り。
 序章のダイジェスト、第1章の初期作品(1940年(39歳)頃に画家としてやっていくことを決意し、召集され復員し、数年間渇筆画を集中的に制作した時代)、第2章の約10年間の放浪的生活時代の作品については、前期から展示替え無し。
 第3章の、パトロンを得てから病に倒れるまでの約10年間、大作を中心に怒涛の勢いで制作した晩年の作品については、その多くが展示替え。
 
 
 前回鑑賞時は、初物尽くしで、消化できないままで終わる。
 
 今回は、消化できたとは言えないものの、多少は落ち着いたのだろう。牛人の水墨画の特徴を楽しむことができた。
 
「渇筆」という技法
 (渇いた筆などで麻紙に刷り込むように墨を定着させる技法。)
  「渇筆」と「筆線」との共存
・中間色層が極端に少ない「白と黒」の画面
・「デフォルメ」された特異な形態表現
・「藤田嗣治の人物描写」スタイルの適用
・登場するキャラクターが皆、変わり種で、ふくよかでパワフル
 
 
 以下、後期のお気に入り作品3選。
 
《雪山淫婆》
1948年、65.5×60.0cm、富山市篁牛人記念美術館
山姥の姿で描かれた「雪女」。体格のよい10?等身。藤田嗣治の人物描写スタイル。
 
《金時と熊》
1947年、2幅、各62.7×59.8cm、富山市篁牛人記念美術館
 「渇筆」で描かれた熊。
 
《天台山富干禅師》
1948年頃、179.0×570.0cm、富山県水墨美術館
 「渇筆」で描かれた樹や石の台座。
 
 全て1940年代後半の初期作品となった。
 
 
 
 1901年、富山市に生まれる。
 1921年、富山県立工芸学校を卒業。東京の美術学校に進学したかったが、兄が医者を目指していたため断念。就職し、1年志願兵を経て、図案家として活動を始める。商工省工芸展覧会で受賞するなど活躍する。
 1940年(39歳)頃、画家としてやっていくことを決意し、絵画制作に専念する。
 1944年(43歳)、召集、南方へ。タイ、マレーシア、シンガポールを転戦。シンガポールにて英オランダ連合軍の捕虜となる。収容所は自給自足だが行動は自由であり、現地の風物のスケッチに励むこともできたという。
 1946年、赤痢となったことで前倒しで復員。
 終戦直近の富山大空襲で、家族は無事であったのが何よりであるが、かつて制作した作品は失っていた。
 復員後の数年間、渇筆画を集中的に制作するが、生活の困窮から高価な麻紙を購入できずに中断。約10年間にわたり日本各地を巡って半ば放浪的な生活を過ごす。
 1965年(54歳)頃、富山市の医師からの援助が受けられるようになり、大作を中心とした制作に怒涛の勢いで取り組む。
 1974年以降、病に倒れて作品制作ができなくなる。1984年、死去。
 
 
 孤独と酒を最良の友とした異色の水墨画家・篁牛人。
 特定の師につくことも美術団体に属すこともなく、芸術に至上の価値を置く自由奔放な生きざまを貫いた孤高の画家であった牛人は、「渇筆」という技法(渇いた筆などで麻紙に刷り込むように墨を定着させる)によって、独自の水墨画の世界を開拓しました。
 大胆さと繊細さを併せ持つ渇筆は、細くたおやかな筆線と共存し、中間色層が極端に少ない白と黒の画面の中で、デフォルメされた特異な形態表現が不思議な緊張感をみなぎらせます。
 本展では、牛人の画業を三章に分けて構成し、水墨画の大作を中心として、初期の図案制作に関連する作品なども含め、水墨画の鬼才・篁牛人の世界をあまさず紹介します。
 
【本展の構成】
序章 これが牛人だ!!
1章 工芸図案家から渇筆画の創出へ
2章 放浪時代の試行錯誤
3章 パトロンの出現から旺盛な制作へ

 



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