今から130年前の1895年(明治28年)の今日 日本政府が尖閣諸島を日本領に編入する閣議決定を行った
尖閣諸島の名称は 日本政府からこの島を無償貸与された実業家の古賀辰四郎の依頼により 1900年(明治33年)5月に当地を調査した高知県出身の
教師黒岩恒が命名 島の尖っている形状とイギリス海軍水路誌にある The Pinnacle Islands の意訳に由来
そして沖縄県石垣市が2010年(平成22年)12月に 尖閣諸島の日という記念日に制定
経緯について我國は 尖閣諸島が無人島であるのみならず 他国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重に確認した上で 1895年年1月に
閣議決定を行って沖縄県に編入 これは国際法上 正当に領有権を取得するためのやり方に合致 その後日本の民間人が日本政府の許可の下 尖閣諸島に移住し
鰹節工場や羽毛の採集などの事業を展開
なお福建省の漁民が 尖閣諸島の魚釣島近海で遭難した際には 日本人が救助を行い 1920年5月に当時の中華民国駐長崎領事から
「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」と記載された感謝状が発出 第二次世界大戦の前は 最盛期には200人以上の住人が尖閣諸島で暮らし 税徴収も
行われていた また現在においても 警備・取締りや国有地としての管理等が適切に行われている
中華民国の感謝状
内容:感謝状
中華民国八年冬福建省恵安県漁民
郭合順等三十一人遭風遇難飄泊至
日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島
内和洋島承
日本帝国八重山郡石垣村雇玉代勢
孫伴君熱心救護使得生還故国洵属
救災恤鄰當仁不譲深堪感佩特贈斯
状以表謝忱
中華民国駐長崎領事馮冕 印
中華民国九年五月二十日 印
和訳:感謝状
中華民国8年目の冬 福建省の漁師
郭和順さんを含む31人が風に遭い
日本帝国八重山県の
尖閣諸島に流されました
災害救援と近隣住民への思いやり パテが
中華民国9年目の5月20日に長崎の中
華民国領事、馮綿中
華民国に感謝の手紙
を贈ったことに深く感謝しています
歴史的にも正式な日本國領土なのに 海底資源云々ちゅ~ことが言われた1970年代から 中華人民共和国が突如 尖閣は我が領土などと主張し始めた
日本の近海では 条約や約束事などちゃぶ台返しする国家が多くある 竹島しかり尖閣しかり さらに日本帝國陸海軍が降伏したのち北方領土を不法占拠
したロシアもしかり これらの国家は話合いできるほどの知性や教養など持ち合わせてない 人として最低の民度である
イノシシや野犬・鹿やカラスと話し合っても解決しないのと一緒 出来ることは防衛力を強大にし 経済的に追い込んでしまいことぢゃ
防衛力の強化は攻められにくいし 今は兵器を使わずとも経済力で国家にだげきを与えることが出来る 頑張れ日本