今から483年前 つまり天正15年(1587年)に天台宗の元僧侶であった 施薬院全宗の進言を受け 1587年
7月25日に豊臣秀吉はバテレン追放令を発布
豊臣秀吉が禁教令を出した理由には諸説ある 秀吉は国内の政治と宗教のつながりを恐れていたため 特に九州征伐の時
キリシタン大名が同じ信仰の絆で強く結ばれているのを見てキリシタンに対する警戒心が危機感へと発展していった考えられた
その後スペイン船サン・フェリペ号の土佐漂着が引き金となり フランシスコ会の宣教師らの無許可の布教活動が 当時の為政者である
豊臣秀吉の耳に・・・・・・・
秀吉は直ちに見せしめのため フランシスコ会宣教師や信徒ら24人を京都で捕らえる キリスト教信仰を理由にした日本最初の処刑
だった そしてキリシタンの町長崎で処刑を行うことになり 24人は約1カ月にわたって約1,000kmの道のりを歩く
道中2人が尊い犠牲になることを望みこれに加わった
殉教した26人は 特に貧しい人や病人たちの世話などを実践してきた人たち 人々に愛を与える信仰の灯を絶やしてはならないと
自ら尊い犠牲になることを受け入れた 彼らにとって殉教は信仰を生かすための生き方として喜びであった その後の迫害は信仰を
棄てさせることを目的にますます残酷さを極めていく
この出来事を「二十六聖人の殉教」というが 西洋諸国では「聖パウロ三木と仲間たち」とも呼ばれる 26人は後にカトリック教会
によって聖人の列に加えられたため 彼らは「日本二十六聖人」と呼ばれることになった カトリック典礼上の記念日は2月5日
である キリシタンの迫害は今後江戸幕府にも引き継がれ 後年に京都の大殉教や元和の大殉教が引き起こされている