よく、親子は似たようなことをする、又はカエルの子はカエルだよ。と言われることが多いと思う。
だが、私と夫は、親の職業とは全く、かかわりのない事をやっている。
夫も私の両親も、全く英語は話せない。それなのに、なぜか私たち2人は英語を使う仕事についてしまっている。
振り返ってみると、育った過程で私は、不思議と英語にかかわるような事件がよく起こっている。それも、自然とそうなっているような気がしてならない。
私たち二人は、特にToeicの点がいいとか、英語の成績がすばらしくいいとか、そういう事もない。
しかし、特にコミュニケーションには、困らない英語能力があるためにいい思いをした事がよくある。
私の方は、こうだ。
小学校の頃、小1だったと思う。近所のハーフの先生が英語の教室をしていたので、母が連れて行ってくれた。そのあと、引っ越しをしたので、そこは止めた。
そして、引っ越し先には帰国子女の友人ができ、彼女が持ってるものがアメリカのゲームだったり、グッズだったりしたのですごく興味が沸いた。アメリカっていいな、かわいい、面白いものがいっぱいあるんだと思った。それに、今思い出すと、節々に彼女は英語を話していた。
高学年になり、私は原田真二さんのファンになり、ファンクラブまで入る熱の入れようだった。彼が、英語の歌を歌うので、単語の意味を調べ出した。母も手伝ってくれた。そのうち、ゴダイゴのタケカワユキヒデさんが好きになり、また英語の曲が多いので、真似した。
小学校の終わりのころ、同級生のお母様で元高校の英語の先生が、自分の子供だけ教えれないからと言って、私を誘ってくれた。3人ぐらいで、英語レッスンを受け始める。結局、最後は5人になってしまったが、それでも少人数だ。
その先生は、ずっと他の子供を入れないで、中学2年生の終わりまで見てくれた。おかげで、英語は、常に5を取れていた。
お引越しをされるということで、母はフランチャイズの英語教室を探し当てた。電車で通う事になったが、私にとって意味のある場所となった。
高校に入り、担任の先生が英語の先生だった。その先生の紹介、(学校からだが)がなければ、高校で交換留学をすることもなかったと思う。
当時は、その1年のカウントがなく4年、私は高校に行くことになった。本人は、全く気にすることなく、英文科の短期大学に行きながら、もう一つ(高校から行っていた)専門学校に通う。
私は、夢が叶い、ずっと外資系企業で働くため。英語は必須だった。とくに、接客業だったので、話すことができれば仕事はできた。
そして、結婚して子供だ生まれて間もなく、その母が探してきたフランチャイズの塾を開くことになったのだ。また、同時に外資系企業にもすこし、復活をしたりしたので、英語を使う。
そんなに、がんばっていた外資系企業にお別れをしなければならない時がくる。だが、私と英語の環境は別れない。
つづく、、、。
(長くなるので、また明日)
だが、私と夫は、親の職業とは全く、かかわりのない事をやっている。
夫も私の両親も、全く英語は話せない。それなのに、なぜか私たち2人は英語を使う仕事についてしまっている。
振り返ってみると、育った過程で私は、不思議と英語にかかわるような事件がよく起こっている。それも、自然とそうなっているような気がしてならない。
私たち二人は、特にToeicの点がいいとか、英語の成績がすばらしくいいとか、そういう事もない。
しかし、特にコミュニケーションには、困らない英語能力があるためにいい思いをした事がよくある。
私の方は、こうだ。
小学校の頃、小1だったと思う。近所のハーフの先生が英語の教室をしていたので、母が連れて行ってくれた。そのあと、引っ越しをしたので、そこは止めた。
そして、引っ越し先には帰国子女の友人ができ、彼女が持ってるものがアメリカのゲームだったり、グッズだったりしたのですごく興味が沸いた。アメリカっていいな、かわいい、面白いものがいっぱいあるんだと思った。それに、今思い出すと、節々に彼女は英語を話していた。
高学年になり、私は原田真二さんのファンになり、ファンクラブまで入る熱の入れようだった。彼が、英語の歌を歌うので、単語の意味を調べ出した。母も手伝ってくれた。そのうち、ゴダイゴのタケカワユキヒデさんが好きになり、また英語の曲が多いので、真似した。
小学校の終わりのころ、同級生のお母様で元高校の英語の先生が、自分の子供だけ教えれないからと言って、私を誘ってくれた。3人ぐらいで、英語レッスンを受け始める。結局、最後は5人になってしまったが、それでも少人数だ。
その先生は、ずっと他の子供を入れないで、中学2年生の終わりまで見てくれた。おかげで、英語は、常に5を取れていた。
お引越しをされるということで、母はフランチャイズの英語教室を探し当てた。電車で通う事になったが、私にとって意味のある場所となった。
高校に入り、担任の先生が英語の先生だった。その先生の紹介、(学校からだが)がなければ、高校で交換留学をすることもなかったと思う。
当時は、その1年のカウントがなく4年、私は高校に行くことになった。本人は、全く気にすることなく、英文科の短期大学に行きながら、もう一つ(高校から行っていた)専門学校に通う。
私は、夢が叶い、ずっと外資系企業で働くため。英語は必須だった。とくに、接客業だったので、話すことができれば仕事はできた。
そして、結婚して子供だ生まれて間もなく、その母が探してきたフランチャイズの塾を開くことになったのだ。また、同時に外資系企業にもすこし、復活をしたりしたので、英語を使う。
そんなに、がんばっていた外資系企業にお別れをしなければならない時がくる。だが、私と英語の環境は別れない。
つづく、、、。
(長くなるので、また明日)