年末年始でも1、2泊しかしないので、こんなに長く実家に滞在したのは初めてだった。
身体機能(肝機能)が低下し、体に黄疸が出て、腹水がたまるともう長くないということは後から知りましたが、そういう状態になっても即入院はせず、楽しみにしていた週2日のデイケアセンターにも出かけ、ときに外出も楽しんでいたという父。
今となってみれば、担当医ももう長くないことを察知して、入院するのは本当に持ち堪えられなくなってから―と入院を強いなかったのかもしれません。
私たちが病院に着いたとき、父は既に意識がありませんでした。
酸素吸入器のマスクを口にあてがわれ、呼吸のたびにマスクがずれてしまうほど、必死に呼吸をしていました。
私たちが到着して小一時間、そんな必死な呼吸が続いてきました。
母掛けがふとんをまくって見せてくれた脚は、黄色くなって、ゾウの脚のようにむくんでいました。
恐る恐る父の手を握ってみました。でも、なんの反応もなく、必死の呼吸が続いていました。
父は危篤状態にあり、個室で病魔と闘っていました。
その心拍数や血圧などは、離れていても看護士さんの待機する部屋でも確認できるようになっており、父の呼吸の力強さが弱まっていることも、この後次第に呼吸がまばらになっていくことも、すべてわかっているようでした。
なんといっていいのか、適切な言葉が見当たりませんが、
哀しいという感覚はあまりなかったように思います。
哀しくないわけではありません。
でも、とにかく、父の天寿が全うされる瞬間に、娘として、ちゃんと立ち会って、最期を看取りたい、そんな気持ちの方が強かったように思います。
次第に呼吸の感覚が開き始め、喉の動きが緩慢になります。
とまったか、と思うと再び動き出し、でもとうとう、完全に止まったかのようになりました。
担当医が病室にやってきました。
呼吸が止まっても、心臓はしばらく動くのだそうです。
いわゆる延命治療はこういった瞬間に始まるのかもしれませんが、私たちは父の天命に任せました。
そして呼吸が止まってから3分後、臨終の瞬間を迎えたのでした。
体をきれいに清めてもらい。白い浴衣に着替え、自宅へ。
亡くなった翌日、納棺。
通夜・告別式のために搬送される間3日間、ドライアイスを取り替えながら自宅に安置されました。
所要を終えて私が再び実家に戻ったのは亡くなってから3日目のこと。
明日、斎場に出棺されるという父の棺の扉を、恐る恐る開けてみました。
小さくやせ細った、でも眠るような父がそこに横たわっていました。
弔いに訪れる人々を迎える通夜・告別式の段になっては、こちらも迎える側で気が張っており、とにかく勤めを果たさなくては、そんな気持ちだったように思います。
さすがに火葬場に着いて、父が横たわった棺が火葬場に吸い込まれていくときは、あぁ、これで父の肉体は燃えてくなってしまうんだな…、そんな感慨に包まれましたが、同行の親族の接待や何やらで、めそめそしている時間もなかったように思います。
父は、1時間ほどで骨となりました。
頭蓋骨は思いのほか小さく感じました。
大腿骨骨折の手術で骨に装着していたボルトは、燃えずにちゃんと残っていました。
真っ白になった父の骨は、想像より大きくしっかりとしていました。
2人1組となってお骨を拾って骨壷へ収め、白い手袋をはめた係りの方が骨の粉をかき集めて骨壷へ収め、蓋をし、精進落としの昼食をとり、一通りの儀式が終わりました。
今となってはもう遅いのですが、
私は、あまり親のそばにいなかった娘だったなと改めて思い起こしていました。
兄が鬱病になって家族が大変なときも、自分のしたいことを優先して、本当であれば家族の力になるべきであったのに、家を出てしたいことをしてきたのでした。だから、せめてもと思い、経済力があったときは家に仕送りをしてきたのでした。
そのことを誰に何か言われたことは一度たりとも何もありません。
ないだけに、自分の中で、家族が私を必要としていたときに、その思いよりも自分の気持ちを真っ先に優先してきたこと=家族の苦境に目を向けず、目をそらして、逃げてきた自分というものを自分自身が感じて、今となっては遅いのですが、いろいろなことを思うのです。
幾多の困難を一人(といってよい)で闘ってきた母のために、娘としてできる限りのことをしたい、今そう思っています。
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