(2)個の価値:皆違うから良いと言う個の価値を重視するなら、一度使われた素材は詩歌の対象として避けられる傾向になると考えられます。この場合には伝統や結社は派生しにくく進歩性を求めるようです。このスタンスはキリスト教文化の欧米の価値観に基づくものと考えます。一度使われた素材は詩歌の対象として避けられると言うことは過程としての結果としてのコミニュティより、結果としての作品が重要となります。そして作品の価値は鑑賞者それぞれの価値観に任せられるので指導者、選者、解説者など派生すると言うビジネスモデルは出来にくいようです。
知識は押し入れにしまって、一本の鉛筆とメモ用紙とそして良く消える消しゴムがあれば十分だと思います。不器用も個性ですから、自分の気持ちを心を込めて自分の言葉でと思います。 そして歌体を整えて着飾えるほど、人口知能に負けるのではと心配です。たった31音の言葉の組み合わせですから、本格的にソフトを作りさえすれば人は人口知能に負けるのではないかと思います。
【Albert Einstein(1879.3.14.~1955.4.18)】
教育とは、学校で学んだことを一切忘れてしまった後に、なお残っているもの。
ヨハネによる福音書 1章 1節~ 5節
初めに言葉(認識・論理)があった。 言葉は神と共にあった。言葉は神であった。 この言葉は、初めに神と共にあった。 万物は言葉によって成った。 成ったもので、言葉によらずに成ったものは何一つなかった。 言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 |
下記1項①②の構成要件を満たし③④の責任要件に満たす「本歌とり」等は盗作であると考えられる。
1.盗作の定義
*「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)より」
①作品の全部または一部を②そのままで③自分のものとして④無断で使う行為。
また、そうした行為によってできた作品を言う。
2.主に上記①②の観点から展開
(1)5句体中5句(5/5:全部)の複写
他人の作品を容易に認識でき、その作品と同一になる確率は極小なので盗作。
(2)5句体中3と4句(3/5と4/5:一部)の複写
他人の作品を認識でき、その作品と同一になる確率は小さいので盗作が疑われる。
(3)5句体中2句(2/5:一部)の複写
イ)非・常用語を使用しているため、他人の作品を容易に認識でき新規性、独自性が欠如して盗作。
*(万葉集)「うつせみの」「命を惜しみ」波に濡れ伊良虞の島の玉藻刈り食む
*(茂吉) 「うつせみの」「命を愛しみ」地響きて湯いづる山にわれは来にけり
ロ)常用語を使用しているため、他人の作品を認識できにくい場合には非盗作。
*(文明)けふのひと日「月の光に」「しづまりて」いよよ聞くべし谷ゆく水音
*(松尾富雄)冬の夜は「月の光に」「しづまりて」岬を占むる米弾薬庫
(4)5句体中1句(1/5:一部)の複写
単なる単語の組み合わせと意味が不明確な文の断片は、他人の作品を認識しにくいので非盗作
*「枕詞」「結句」
3.特記事項
(1)「自己流、、凌駕、」等の感情論での擁護は、論(理)外で盗作の免罪符にならない。
*この感情論を主張する段階で思考が停止し放棄される。
(2)知的所有権が欠如していた「過去の姿」を「伝統」の理由で「現在の姿」には出来ない。
*新古今人を宗祖として絶対視し、無条件に有難く受け入れないこと。
*過去の奴隷制度を現在の法令で許容するのと同じ。
(3)「本歌取り」は「教養(学び、技法など)、遊芸(優劣など)」
*「心の発露による感動」は芸術
(4)「皆違うから良い」という創作物の「新規性」を重視すれば他者の作品との被りは起きにくい。
*赤信号(盗作禁止)、皆(短歌村住人達)で渡れば(本歌取り)怖くない(著作権抵触)
歌意が心からのものでしたら例えボロボロな言葉で纏っても「それはそうだが、だから何」と他者に言われないと思います。人生の節目の経験の喜怒哀楽から生まれた感動と言う中身があれば、さざ波の様に他者に伝わると思います。それは自身の経験が時を超え場所を超え他者の経験として共有され共鳴されるに違いありません。その言葉は闇を打つ砕く光であり、見えないものを照らすと思います。(芸術)
しかしながら、歌意に心がないものでしたら豪華な言葉で着飾っても「それはそうだが、だから何」と他者に言われると思います。気づき、思い付き、閃きと言う写生は感動と言う中身が欠如していると思います。写生は五感で認識できますが、心は五感では認識でないので見えないのです。この様な作品は挨拶程度のもので、挨拶が済めば羽のように軽く消えてしまうと思います。(教養、趣味、お習い事、遊芸)
著名人の短歌集を拝見したことがありますが、どれも同じような作品が羅列しているため最終頁まで読むのが苦痛でした。確か500作品位ありましたでしょうか、これを10年で作ったとしたら1週間に1作品となりますから作成動機は感動であるはずもなく単なる気づき、思い付き、閃きたと判断されます。おそらく、作者さえご自身がどんな作品を作ったのか覚えていないと思います。
ゲーテ、ハイネ、島崎藤村、金子見みすず等の作品に夢中になったことがありますが、根底において上記の著名人の短歌集と相違すると思いました。
【例】「この三朝あさなあさなをよそほひし睡蓮の花今朝ひらかず」暇を持て余らした写生で無理やり短歌の素材を閃いたのでしょうね。この種の情景は山ほどあり普通人は気にもとめないでしょうね。昨今は世の中が騒がしくもっと重要な事が沢山あります。
「老眼鏡買ひ来て何をすることなく掛け外して二日三日すぎぬ」自身の日記に書けば良く、自己完結していますね。これも暇を持て余らし無理やり短歌の素材として閃いたのでしょうね。
【参考】伝統、権威、選評、how-to本などを無条件で絶対視して有り難がらない様にと思います。
見えるものは映像に任せて、見えないものを言葉で表せば良いと思います。映像技術が進歩していない時代においては見えるものを言葉で表さざるを得ませんでしたが映像技術が進歩した現在においてはその役目はが終わりました。今やでデジカやスマホによるSNSによって数十億人の人が膨大な情報量である写実の伝達手段を手にいれました。ですから
(1)写実はカメラの映像に任せて、短歌は現実より憧れを、そして理想をと思うのです。
(2)短歌は写実をとの考えがあるようですが根拠のない思い込みだと思います。写実以外にも大切なものがありますのでそれぞれの感性で良いと思います。
(3)今や言葉による写実より映像による写実の方が遥かに他者への影響が大きいのです。
(4)ただし、写実に感情を加えれば加えるほど、写実は見えないものとの距離を縮めると思います。
呼吸の吸うを1拍、吐くを1拍とすると、1呼吸で2拍になります。1呼吸を1区切りとすると、2拍の2拍子になります。ですから、呼吸と共に出す声も2拍2拍子の繰り返しで偶数拍が自然です。さらに呼吸しやすいように休みを設けると、奇数拍(音)+1拍で偶数拍(4拍子)になります。
下記の|は区切りで、タは2分(4分)音符で、一は2分(4分)休符です。
1拍・・・・|ター|
3拍・・・・|タタ|ター|
5泊・・・・|タタ|タタ|ター|2拍子≒|タタタタ|ターーー|4拍子=|ふるいけ|や休休休|
7拍・・・・|タタ|タタ|タタ|ター|2拍子≒|ータタタ|タタタタ|4拍子=|休かわず|とびこむ|
9拍以上・・呼吸し難いですね
[具体例]
1・・・・・・・・・・・・・・・感嘆詞:(例)嗚呼
337・・・・・・・・・・・・・応援歌、三本締め
575・・・・・・・・・・・・・俳句、川柳
57577・・・・・・・・・・・短歌
5757~577・・・・・・・・長歌
577577・・・・・・・・・・旋頭歌
575777・・・・・・・・・・仏足歌石
57575757~・・・・・・(例)月の砂漠
575757575757~・・(例)千曲川旅情
[参考] 七五三、桃の節句、七夕、三重塔、五輪塔、ご祝儀額、三々九度、ラキーセブン
言語(欧米語、中国語、日本語など)とジャンル(手紙、詩、歌など)に係わらず
文意を正確に伝えるため下記により表記される。
(1)所定の表記面内に文章が適切に配置されるように行数が決められる。
(2)1文で構成される場合は他文と区切る句点は省略できる。
(3)1文内の区切りには読点もしくは空白(分かち書き)が使われる。
(4)表意文字(漢字など)は読点と空白を設けなくても重大な誤解を生じにくい
が表音文字(欧米語と平仮名など)は重大な誤解を生じやすい。
なお重大な誤解を積極的に活用した掛け詞がある。
(5)慣例および表記統一のために短歌等は句読点と空白無しの一行書きにする場合がある。
誰でもが、障害を背にする時があると思うのです。その渦中には耐えがたいものがあります。でも、豊かな果実を得るためには、障害と言う代償が必要なのかも知れません。私の障害の経験が、水滴の波紋の様に広り、生かされることを願って作成しています。障害を持つたからこそ偶然に知り会えた奇跡の連鎖ような事を短歌に添えて感謝の気持ちで載せています。