ハシちゃんの詩(うた)日記!

山郷の散策つれずれを
ペットのハシちゃんとつぶやきます。

皇帝ダリアの思い出

2012年11月23日 18時11分53秒 | 日記 

 この花の名前を知ったのは数年前佐賀県の波戸岬に旅をした時だった。まるで、木の幹のような丈と太さ。桃色の濃い大きな花はみな私をを見下ろしていた。その名は『皇帝ダリア』。あれから5年程経つが、最近は園芸店の店頭に並ぶようなって、あちこちで、天を突くように伸びきって大きな花をたわわに咲かせている。本当に奇麗だ。
 ところが、私の住むこの地は、標高550m程あるので、夏場に大きく成長しても花の咲く寸前に初霜に萎えて咲かずに冬を迎え地中に還っていかねばならない。花好きな人たちが挑戦するが『皇帝さま』はこの里山にはどうも住みにくいようだ。

落下してしまったカリン

2012年11月22日 18時08分11秒 | 日記 

 カリンの実は熟すまでに落ちてしまう数のほうが多いように感じる。まるまる成長した実が根方に転がっていたので二つ拾って石の上に寝かせた。緑色だった実は朽ちながらも黄色に変化して本来のカリンの実らしくなった。カリンの仄かな香りの良さに魅かれる生き物は人だけではない。アリ、蝶等の昆虫が足繁くやって来て来る。
 良く晴れた日のこと、この近辺を縄張りにしているノラネコがカリンの実を抱くようにして居眠っていた。トラ模様の立派な体格をしたネコだった。カリンの実に魅かれたのか、この石が陽だまりに程良い温もりがあったのか、ネコに聞いてみたい。
 秋のつるべ落としの夕陽が沈みはじめても、この石の上のカリンの黄色い実だけは暮れ残りしばらく夕陽に照っている。そして、危うく命びろいをしたカリンの実は、数枚葉っぱを残した梢の先っぽで少しずつ塾し始めた。

かくれんぼしましょう

2012年11月19日 18時21分22秒 | 日記 

 母がいて父がいて、就学前の幼い私がいる。父母は農作業に精を出していた。幾つも連なった稲わらの束のあちこちを走り回ってかくれんぼをした。父母はそこそこに鬼となり隠れ役の私を探すふりをして遊び相手をしていたが、その内に私が疲れたのか、あまりかまってもらえずスネてしまったのか記憶はおぼろげだが、わらこづみの中に眠ってしまった。
 夕闇せまる薄ら寒い田んぼのわらこづみの中で目を醒ました私が、父母に忘れ去られてしまったことに気づくのは簡単だった。心細さと恐怖を大声で泣きながら見えぬ父母に訴えた。
 すまなさそうに「ごめんごめん」と迎えに来た母。刈り入れが終わり稲わらが田んぼに行儀良く並ぶと当時のかくれんぼ事件を懐かしく思い出してしまう。

幹の窓の向こう

2012年11月17日 18時09分34秒 | 日記 

 種田山頭火が流転の旅をしながら詠んだ俳句が好きだが、その一つに『山のあなたへお日さま見送りご飯にする』という句がある。太いヒノキの又の間の向かいの紅葉(ももじ)の林立する少し向こうにお椀を伏せたような小ぶりのクヌギ林があるが。その遥か遠くにくじゅう連山が控えている。このヒノキの窓からは連山に沈む夕日を見る事は出来ないが、荘厳な夕陽はこの辺りまでも赤く染めてしまう。まして、周りの小山は紅葉の真っ盛りだ。楓、銀杏、ハデなど赤や黄をより一層輝かせながら夕陽は落ちていく。山頭火の句のように、お日さま見送り夕餉の支度に家路を急いだ。
 夕食後、パソコンに向かいながらふっと浮かぶ句。『障子しめて四方の紅葉を感じおり』星野立子。
 

夕秋のかりん

2012年11月14日 17時34分45秒 | 日記 

 カリンの実が青いときは天を突くように、尻を上にむけて梢の先っぽにくっついている。夏を過ごしやがて秋も深まってくると、やや水平に傾いてくるようだ。実ってきて実が少々重くなるのかも知れない。カリンの実は収穫期を迎えるまでに殆ど落下してしまう。
 運良く生き残ったカリンの実は黄色が増し始め、家からこぼれる明かりに照らされ、結構な大きさのわりには恥じらいながら浮きだされている。根方を取り巻く菊も寒さのためか、だんだんうつむきはじめ、庭にも冬の足音が忍び寄って来る。
 

ほうずき見つけた

2012年11月12日 17時26分00秒 | 日記 

 周りには民家もない。杉林とクヌギ林の拡がる野路の傍らに、真っ赤なホウズキを見つけた。いつもの散歩コースなのに気づかなかった。きっと、ホウズキの袋が赤く色づいたことと、周りの草が霜が降りてしおれてしまったためこの世に生き返ったのだろう。民家の屋敷や畑などに繁殖するホウズキは幼い頃より馴染みの風景だが、こんな山奥に自生したホウズキに出逢うのは初めてだ。
 よく考えてみれば、もともとホウズキは野生の植物だったのかもしれない。昔々、ホウズキの実を口でブーブー鳴らしたものだ。さあ、この二つのホウズキの可愛い実が冬にさらされるのが気の毒だが、そのまま、そっとして、時々ご機嫌伺いしてみようと思った

空はありがたい

2012年11月10日 18時03分51秒 | 日記 

 この空にこのピラカンサ、あっと心動かされない者はいないに違いない、とシャッターを押す。ピラカンサの実も朱色がかった色が極めに達していい見頃ではあるが、なんと言っても空の色もよろしかった。夏目漱石の文面に時折『空が見えるのはありがたい』と出てくる。
 四季を問わず空はどんな風景にも、人の心持ちにも大切な存在だ。このピラカンサもそう思っているに違いない。「青い空さんが、こんなにも私を輝かしいものにしてくれる」と溢れんばかりの生(せい)がみなぎっている。この空の下で、ピラカンサの実ほど輝けないとしても、日陰の南天の実ぐらいには、私自身も照っていたいものだと切実に願う
 

 

帰り花

2012年11月08日 17時02分26秒 | 日記 

 春に咲くはずのいや咲いたはずのツツジがこの時期に咲いていた。あまり珍しいことでもないが、春と勘違いして慌てて咲いてしまったのか。このように時期はずれに咲くことを「狂い咲き」とか「狂い花」というが、私は「帰り花」というほうが好きだ。
 野草の帰り花なんか良く見かけるが、強い植物ほど返り咲くような気がする。西洋タンポポなどちょっとした陽だまりに四季問わず咲いている。植物たちは春と小春日和の違いを察知出来ないのだろうか。つらつら思いながら、ふと気付く。私もそう言えばこの暖かさに誘われ散歩とあいなったのだと。
 一度は身請けされ堅気なったはずの遊女が再び遊郭に戻ることも「帰り花」というが、秋の陽だまりにぽちぽちと咲いたこのツツジに比べれば、何と切ないことだろう。
 

廃校跡の秋

2012年11月06日 17時19分34秒 | 日記 

 秋の雨は淋しい。野路を囲むクヌギ林はひっきりなしに落ち葉が舞い降りている。歩を止めて耳をすますと落ち葉の落ちる微かな音があっちこっちで途切れなくしている。緩やかな坂を登りきると、やがて廃校跡の校庭の樹木が見えはじめた。まだまだ緑色が大半を占める楓の大木の向こうに真っ赤な紅葉が目に飛び込んで来た。
 いち早く秋に捕まった楓と、まだまだ秋を拒む楓の色彩のコントラストに魅了された。校庭のあちこちに出来た水たまりに枯れ葉が遊んでいる。
 眠りの冬を迎える植物たちは色とりどりに染まり奇麗だ。とは言え何だか淋しいと思うのは歳のせいだろうか。陰暦の10月に出雲大社に全国の神様が集合するというが、この里の神々たちはもうお帰り遊ばせたであろうか。

1本の川

2012年11月04日 18時42分18秒 | 日記 

 実に行儀良く並んだ藁塚(わらつか)。この里では藁こづみと呼ぶ。田んぼと山の境界に1本の川が流れているが糸すじのように細く静かに流れている。田んぼの補助整備がされた今は小川もほぼ真っ直ぐに流れているが、幼い頃は、この小川自身が流れやすいように気ままに曲がりくねっていて、絶好の遊び場だった。藁こづみはもっと高く積み上げていた。
 この秋は刈り入れのプロセスを目にすることが出来なかったので、ことさらに藁こづみの出現に時の移ろいをかみしめたものだ。川岸のノジギクも黄色や白、紫と咲き競っている。
 里山に流れるたった1本の小川もやがて訪れる厳冬には、いよいよもって氷の下で黙りこくってしまうだろう。わずかながら生息する魚たちも我慢のしどころだ。
 仰げば木々の葉も落ちて空も広々見えるのは気のせいか。