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朝の光(聖書の言葉)

第13問 「野鴨」 無門関から

第13問 「野鴨」 無門関から


馬祖が弟子の百丈と歩いていると,

野原から野鴨の一群が飛び去っていった。

それを見た馬祖が,百丈に尋ねた。

「あれは何だ」

「野鴨です」

「どこへ飛んでいったのか」

「わかりません。ただ飛んでいったのみです」

答えを聞いた馬祖は,いきなり百丈の鼻を強くつまみあげた。

「痛い!」

「なんだ,飛び去ったというが,野鴨はここにいるではないか」

百丈は悟りを開いた。

-碧巌録-





「私はキリストとともに十字架につけられました。

もはや私が生きているのではなく,キリストが私のうちに生きておられるのです。

いま私が,この世に生きているのは,

私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

(ガラテヤ2:20)



野鴨を罪と考えるならわかりやすい。

罪は一つづつ処理できるが,なくなったわけではない。

すべての罪をなくすためには,自分自身が死なければならない。


野鴨をキリストと見るなら,

十字架につけられたキリストは自分でもあったということである。


この真理を座禅だけで得るなら,凡人には100年座っても得られない。

聖書を寝転んで読んでも,この真理に出くわします。

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