ヨハネの手紙 第一 解説
ヨハネの手紙は,
ヨハネの福音書を書いた
使徒ヨハネによって書かれています。
これらの書物が
使徒ヨハネから同じ人々に
宛てて書かれたようです。
1ヨハネが書かれたのは
西暦85-95年の間です。
ヨハネの手紙第1(1ヨハネ)は
その読者が
ヨハネの福音書の内容を
知っていたようです。
キリストにある信仰を
確認させるために書いています。
○
いのちの言
(1ヨハネ1:1)口語訳
「初めからあったもの,
わたしたちが聞いたもの,
目で見たもの,
よく見て手でさわったもの,
すなわち,いのちの言について―
「いのちの言」とは,
イエス・キリストのことです。
ヨハネは,
このイエスにあっていました。
そして,交わっています。
この交わりを,伝えるといいます。
☆彡
(1ヨハネ1:1ー3)
「初めからあったもの,
わたしたちが聞いたもの,
目で見たもの,
よく見て手でさわったもの,
すなわち,いのちの言について―
このいのちが現れたので,
この永遠のいのちをわたしたちは見て,
そのあかしをし,かつ,
あなたがたに告げ知らせるのである。
この永遠のいのちは,
父と共にいましたが,
今やわたしたちに現れたものである―
すなわち,わたしたちが見たもの,
聞いたものを,
あなたがたにも告げ知らせる。
それは,あなたがたも,
わたしたちの交わりに
あずかるようになるためである。
わたしたちの交わりとは,
父ならびに御子イエス・キリストとの
交わりのことである。」
○
イエスの血,罪のきよめ
(1ヨハネ1:7)
「もし神が光の中におられるように,
私たちも光の中を歩んでいるなら,
私たちは互いに交わりを保ち,
御子イエスの血は
すべての罪から私たちをきよめます。」
キリストの血が,
わたしたちの罪をきよめます。
(ヘブル9:14)
「まして,
キリストが傷のないご自身を,
とこしえの御霊によって
神におささげになったその血は,
どんなにか私たちの良心を
きよめて死んだ行いから離れさせ,
生ける神に仕える者と
することでしょう。」
○
罪の赦しときよめ
(1ヨハネ1:9)
「もし,
私たちが自分の罪を言い表わすなら,
神は真実で正しい方ですから,
その罪を赦し,
すべての悪から
私たちをきよめてくださいます。」
ありのままの自分を主の前に出し,
罪を告白するなら,
神はその罪を取り去ってくださいます。
☆彡
(1ヨハネ1:5-10)
「神は光であって,
神のうちには暗いところが少しもない。
これが,私たちがキリストから聞いて,
あなたがたに伝える知らせです。
もし私たちが,
神と交わりがあると言っていながら,
しかもやみの中を歩んでいるなら,
私たちは偽りを言っているのであって,
真理を行なってはいません。
しかし,
もし神が光の中におられるように,
私たちも光の中を歩んでいるなら,
私たちは互いに交わりを保ち,
御子イエスの血はすべての罪から
私たちをきよめます。
もし,罪はないと言うなら,
私たちは自分を欺いており,
真理は私たちのうちにありません。
もし,
私たちが自分の罪を言い表わすなら,
神は真実で正しい方ですから,
その罪を赦し,
すべての悪から
私たちをきよめてくださいます。
もし,罪を犯してはいないと言うなら,
私たちは神を偽り者とするのです。
神のみことばは
私たちのうちにありません。」
○
キリストのように歩む
(1ヨハネ2:6)
「神のうちに
とどまっていると言う者は,
自分でもキリストが歩まれたように
歩まなければなりません。」
○
世と世の欲
(1ヨハネ2:15-17)
「世をも,世にあるものをも,
愛してはなりません。
もしだれでも世を愛しているなら,
その人のうちに
御父を愛する愛はありません。
すべての世にあるもの,
すなわち,肉の欲,目の欲,
暮らし向きの自慢などは,
御父から出たものではなく,
この世から出たものだからです。
世と世の欲は滅び去ります。
しかし,神のみこころを行なう者は,
いつまでもながらえます。」
○
聖霊の注ぎ,反キリストの現れ
(1ヨハネ2:18,19)
「彼らはわたしたちから出て行った。
しかし,
彼らはわたしたちに属する者では
なかったのである。
もし属する者であったなら,
わたしたちと一緒に
とどまっていたであろう。
しかし,出て行ったのは,
元来,
彼らがみなわたしたちに
属さない者であることが,
明らかにされるためである。
しかし,あなたがたは
聖なる者に油を注がれているので,
あなたがたすべてが,
そのことを知っている。」
反キリストとは,
イエスがキリストであることを
否定する者です。
(1ヨハネ2:22)
「偽り者とは,だれであるか。
イエスのキリストであることを
否定する者ではないか。
父と御子とを否定する者は,
反キリストである。」
○
イエス・キリストの約束
(1ヨハネ2:24-25)
「初めから聞いたことが,
あなたがたのうちに,
とどまるようにしなさい。
初めから聞いたことが,
あなたがたのうちにとどまっておれば,
あなたがたも御子と父とのうちに,
とどまることになる。
これが,彼自らわたしたちに
約束された約束であって,
すなわち,永遠のいのちである。」
○
聖霊
(1ヨハネ2:27)
「あなたがたのうちには,
キリストからいただいた
油がとどまっているので,
だれにも教えてもらう必要はない。
この油が,
すべてのことをあなたがたに教える。
それはまことであって,
偽りではないから,
その油が教えたように,
あなたがたは
彼のうちにとどまっていなさい。」
ここでの「油」は聖霊です。
この聖霊はわたしたちに
真理を教えます。
聖霊の内にとどまりなさいと言います。
○
キリストの再臨のとき
(1ヨハネ3:2,3)
「愛する者たち。
私たちは,今すでに神の子どもです。
後の状態は
まだ明らかにされていません。
しかし,キリストが現われたなら,
私たちはキリストに
似た者となることがわかっています。
なぜならそのとき,
私たちはキリストの
ありのままの姿を見るからです。
キリストに対する
この望みをいだく者はみな,
キリストが清くあられるように,
自分を清くします。」
キリストが再臨するとき,
キリストの姿を見ることが出来ます。
そして,キリストに似た者となり,
栄光ある姿に変わります。
イエス・キリストの再臨の
わたしたちが受ける恵みといえます。
パウロは次のように言います。
(1コリント13:12)
「今,私たちは鏡にぼんやり
映るものを見ていますが,
その時には顔と顔とを合わせて
見ることになります。
今,私は一部分しか知りませんが,
その時には,
私が完全に知られているのと
同じように,
私も完全に知ることになります。」
ペテロは再臨については
次のように言います。
(1ペテロ1:7)
「信仰の試練は,
火を通して精練されても
なお朽ちて行く金よりも
尊いのであって,
イエス・キリストの現われのときに
称賛と光栄と栄誉に
至るものであることがわかります。」
○
互いに愛し合いなさい
(1ヨハネ3:16)
「キリストは,私たちのために,
ご自分のいのちをお捨てになりました。
それによって
私たちに愛がわかったのです。
ですから私たちは,兄弟のために,
いのちを捨てるべきです。」
イエス・キリストが
「ぶどうの木」のたとえの中で
話された内容と同じです。
(ヨハネ15:17)
「あなたがたが互いに愛し合うこと,
これが,
わたしのあなたがたに
与える戒めです。」
○
行いと真実をもって愛する
(1ヨハネ3:18)
「子どもたちよ。
私たちは,
ことばや口先だけで愛することをせず,
行いと真実をもって
愛そうではありませんか。」
愛するとは,
その人の存在を喜ぶことです。
人は愛されて初めて,
愛されるにふさわしいものになります。
愛されることによって,
何かが出来,積極的になります。
愛されることによって
この世で何かが出来るのです。
○
人となって来たイエス・キリスト
(1ヨハネ4:2,3)
「人となって来た
イエス・キリストを告白する霊はみな,
神からのものです。
それによって神からの霊を知りなさい。
イエスを告白しない霊は
どれ一つとして
神から出たものではありません。
それは反キリストの霊です。
あなたがたは
それが来ることを聞いていたのですが,
今それが世に来ているのです。」
聖書はイエス・キリストは,
神であり,人であるといいます。
ヨハネも,
イエスは神の子
(人間の姿をとった神)であり,
完全な人間であると言います。
ここで,イエスを告白しない霊は
偽キリストだといいます。
偽キリストは,
イエス・キリストの受肉を否定し,
神は肉や血をもった肉体には
宿ることはできないといいます。
○
「ここに愛がある」
(1ヨハネ4:9,10)
「神はそのひとり子を世に遣わし,
その方によって私たちに,
いのちを得させてくださいました。
ここに,
神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく,
神が私たちを愛し,
私たちの罪のために,
なだめの供え物としての御子を
遣わされました。
ここに愛があるのです。」
十字架で神の愛が現されました。
「私たちの罪のために,
なだめの供え物としての
御子を遣わされ」
とは,
罪人である私たちの上に
下されるはずの
神の怒りをなだめるために,
ご自分の「ひとり子」である
イエス・キリストを
「なだめの供え物」
とされたということです。
罪過と罪との中に死んでいた私たちに,
いのちを得させてくださいました。
ここに,神の愛があるのです。
○
互いに愛しましょう
(1ヨハネ4:7-9)
「愛する者たち。
私たちは,互いに愛し合いましょう。
愛は神から出ているのです。
愛のある者はみな神から生まれ,
神を知っています。
愛のない者に,神はわかりません。
なぜなら神は愛だからです。
神はそのひとり子を世に遣わし,
その方によって私たちに,
いのちを得させてくださいました。
ここに,
神の愛が私たちに示されたのです。」
○
神の愛
(1ヨハネ3:14,15)
「私たちは,
自分が死からいのちに
移ったことを知っています。
それは,兄弟を愛しているからです。
愛さない者は,
死のうちにとどまっているのです。
兄弟を憎む者はみな,人殺しです。
いうまでもなく,
だれでも人を殺す者のうちに,
永遠のいのちが
とどまっていることはないのです。」
(1ヨハネ4:16)
「私たちは,
私たちに対する神の愛を知り,
また信じています。
神は愛です。
愛のうちにいる者は神のうちにおり,
神もその人のうちにおられます。」
○
全き愛
(1ヨハネ4:18,19)
「愛には恐れがありません。
全き愛は恐れを締め出します。
なぜなら恐れには
刑罰が伴っているからです。
恐れる者の愛は,
全きものとなっていないのです。
私たちは愛しています。
神がまず私たちを
愛してくださったからです。」
わたしたちは,不安,恐れから
エゴイズムにとらわれています。
この思いと取り除いてくださるのが,
神の愛です。
神に対する愛は恐れを締め出します。
(ヨハネ3:16)
「神は,実に,
そのひとり子をお与えになったほどに,
世を愛された。
それは御子を信じる者が,
ひとりとして滅びることなく,
永遠のいのちを持つためである。」
○
イエス・キリストについての証
(1ヨハネ5:5-8)
「世に勝つ者はだれか。
イエスを神の子と信じる者ではないか。
このイエス・キリストは,
水と血とをとおって
こられたかたである。
水によるだけではなく,
水と血とによってこられたのである。
そのあかしをするものは,御霊である。
御霊は真理だからである。
あかしをするものが,三つある。
御霊と水と血とである。
そして,この三つのものは一致する。」
「水」は洗礼と関係しています。
イエスは洗礼者ヨハネから,
洗礼を受けました。
(マタイ8:13-17)
「血」は十字架上での
イエスの死を想起します。
(ヨハネ9:34,35)
「霊」は聖霊のことです。
イエスが弟子たちから取り去られた後,
わたしたちのところに送られました
(ヨハネ16:5)
○
永遠のいのち
(1ヨハネ5:12,13)
「御子を持つ者はいのちを持っており,
神の御子を持たない者は
いのちを持っていません。
私が神の御子の名を
信じているあなたがたに
対してこれらのことを書いたのは,
あなたがたが
永遠のいのちを持っていることを,
あなたがたに
よくわからせるためです。」
著者のヨハネは,
イエスからイエスご自身が復活であり,
命であることを聞いていました。
(ヨハネ11:25-27)
「イエスは彼女に言われた,
『わたしはよみがえりであり,
命である。
わたしを信じる者は,
たとい死んでも生きる。
また,生きていて,
わたしを信じる者は,
いつまでも死なない。
あなたはこれを信じるか』。
マルタはイエスに言った,
『主よ,信じます。
あなたがこの世にきたるべきキリスト,
神の御子であると信じております』。
ヨハネは弟子たちと共に
復活のイエスに会いました。
(ヨハネ20:19,20)
「その日,すなわち,
一週の初めの日の夕方,
弟子たちはユダヤ人をおそれて,
自分たちのおる所の戸を
みなしめていると,
イエスがはいってきて,
彼らの中に立ち,
『安かれ』と言われた。
そう言って,手とわきとを,
彼らにお見せになった。
弟子たちは主を見て喜んだ。」
○
神への願い
(1ヨハネ5:14-15)
「何事でも神のみこころにかなう
願いをするなら,
神はその願いを
聞いてくださるということ,
これこそ神に対する私たちの確信です。
私たちの願う事を
神が聞いてくださると知れば,
神に願ったその事は,
すでにかなえられたと知るのです。」
イエス・キリストは
次のようにいっています。
(ヨハネ15:7)
「あなたがたが
わたしにつながっており,
わたしの言葉が
あなたがたにとどまっているならば,
なんでも望むものを求めるがよい。
そうすれば,与えられるであろう。」
○
イエスはまことの神
(1ヨハネ5:20)
「神の御子が来て,
真実な方を知る理解力を
私たちに与えてくださったことを
知っています。
それで私たちは,真実な方のうちに,
すなわち御子イエス・キリスト
のうちにいるのです。
この方こそ,まことの神,
永遠のいのちです。」
イエス・キリストは神であり,
人でもあります。
ヨハネは,
教会の誤まった教えにたいして
書きました。
「神の子」とは,
イエス・キリストが父なる神に
たいしての関係として
あらわしています。
イエス・キリストが
神性を備えていることを
あらわしています。
2021-01-18