関西で学生時代を過ごした後、東京に本社がある企業への就職を決めた。勤務地も東京だった。これも事後報告で、電話を入れると、母、スーちゃんが電話口に出た。
てっきり、北部九州へ戻ると思い込んでいたのだろう。実家は、政令指定都市をふたつ抱え、九州で最も吸引力のある地域にある。「世界景気は同時停滞を強めている」。経済企画庁の年次報告には景気停滞の記述が目立っていた頃である。しかし、1982年、地方都市では就職先候補は複数あった。
彼女は、いつしか涙声になった。もともと天然で喜怒哀楽の激しいひとである。
「帰ってきてほしい」「九州で就職できないのか」と言っていた。電話口のしおらしい声を聴いていたが、すでに東京行きを決めているため応えようがない。
後ろから大きな声がした。
「おかあさん、電話を切りなさい」
マコちゃんであった。
「娘を関西に出した時点で、彼女はもう離れている。もし、手放したくないと思ったのなら、関西行きを許してはならなかった。もう遅い。おかあさん、電話を切りなさい。」
二度めの方が声がさらに大きかった。
おっしゃるとおりである。
ほんとうにマコちゃんは、物事がわかったひとであった。そもそも、自律していた。子どもの人生は、子どものもの。親は、手助けはできても、何かを強要することはできない。その点が、徹底していた。長いことお世話になり育てていただいたが、その点が揺らぐことは一度もなかったように思える。
娘が後に出会う女性はこう言った。
「自分の子どもが自分のために動くのは当たり前でしょう?」
マコちゃんに育てられた娘にとっては、
「へっ!?」という話である。
この女性にとって、子どもは自分の所有物であり、自分のための道具だった。なんの疑問もはさまずに、そう信じて70有余年の時を生きてこられた方であった。
ひとは、他のひとを所有することはできない。ひとは、ひとのこころを所有することはできない。このもっとも単純な事実を時に忘れ、間違う。この女性のもとに生まれ、育っていたならば、どんなにか生きづらかったろうか。
娘は、彼女の言葉で、自身の親を知った気がした。
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