家柄、学歴、職業。マコちゃんは、すべてのラベルを外して、まず、人物を観た。多くの患者さんとじかに接し、ひとの弱さ愚かさ、強さ賢さを熟知していたからだろうか。あるいは、自分自身がそれらを捨てたり、諦めたりしてきたからだろうか。
ひとの心根の良し悪しを観ていたように思う。我が家には、いわゆる世間体という言葉はほぼ存在しなかったように思う。ひとさまがどう思うかよりも、本人がどう思い、どう考え、本人に恥じないかどうかが大切であった。
孫のひとりが或る日、物静かで素直そうな男性を連れてきた。聞けば、高校を卒業して、製パン会社に勤務しているという。孫は、その地域で名高いミッションの短期大学を卒業していた。
「あら、旦那さんの方が学歴が低いんやね」そう言った人もいた。
マコちゃんは、穏やかそうな青年を歓迎した。そして、ふたりを心から祝福した。
のちに、孫が子育てに奔走する時には、自分たちの家を提供し、マコちゃんとスーちゃんは小さな治療院で暮らした。保育園で働いていた孫娘も自身の子育てに時間を使いたいと仕事を一旦離れた。そうなると、学歴社会でもあるこの国では、高卒の青年ひとりでは、決して十分といえない収入だろうと思いはかってのことである。スーちゃんがゆっくり住むために建てた念願の家だったにもかかわらず、孫家族を住まわせた。また、なにやかやとこの新しい家族を経済的にも精神的にもサポートしていた。
或る日、マコちゃんは、娘にこう言った。
「いい青年だよ。いろんな事情があって、大学へは進めなかったんだろう。でもね、毎日毎日店頭に立って、100円のパンを買ってもらい、『ありがとうございました』と心から頭を下げるということはすごいことだよ、たいしたことだよ」。
曇りなくひとを観るということ。心根を探し、その1点に焦点を当てるということ。どこまで、できているのだろうか。隙あれば、驕りのこころが入り込んでくる。こころが曇れば、見える世界も曇ってしまう。本来ありもしない壁を自らの心の中に作ってしまう。
できることは、逆に100円のパンを求めた時に、包んでくれるそのひとに、お金を受け取ってくれるそのひとに、心から「ありがとうございます」と声に出す。マコちゃんの言葉を思い出すことだ。