「老人を馬鹿にしとう」
マコちゃんを泣く泣く送り出し、ひとりになったスーちゃんは、娘の勧めもあってか、デイサービスへ通い始めた。しかし、ご不満である。
カラオケに、体操に、おやつ。幼稚園のようなところだと、本人は気に入らない。政治談議をしようにも相手がいない。スタッフには幼児語で話しかけられる。スーちゃんの自尊心は深く傷ついた。なにせ、吉川英治が好きだったというスーちゃんだ。平家物語に、三国志。雄大なテーマで繰り広げられる大衆文学の世界が大好きだった。若いころは、選挙の応援演説にも駆り出された。
スーちゃんの軌跡を勘案せずに画一的な<お子さま預かり所>然とするセンターのありようを腹立たしく思っていたが、唯一、スーちゃんにはそこに通う理由があった。
お風呂である。
スーちゃんは、言う。「お風呂場で亡くなる人が多いから、一人の家でお風呂に入るのが怖い。もし、亡くなったら恥ずかしい」
「亡くなった本人に、恥ずかしいもなにもないんじゃないの?」そう突っ込みたいところだが、スーちゃんはどうにもこの1点にこだわった。スタッフの気配を感じながら、なにかあればすぐにひとを呼べるという安心感の中で入らせてもらえる。入浴できるからこそ、お迎えの車に乗っていた。
さて、スーちゃんは、完全ではないにせよ、不満解消方法を考えた。考えて、
おやつを食べるのではなく、作る側に回ることにした。もちろんスタッフのお手伝いだろうが、世話好きスーちゃんだから少しは気もまぎれる。
スーちゃんを見ていて、思った。ケアのありようが、パターン化していないか。弱者のケアという前提にのみ立っていないか?むしろ、先人のケア、人生の先輩のサポートという視点が重要に思えるが、現場は対応できていない可能性はないだろうか。個々のひとに眼を向けて、いくつかのセグメンテーションをおこなったうえで提供プログラムを考える必要がありそうだ。人間、そして歩んできた人生というものをどのようにとらえるのか。介護を事業として展開する側の<人間観>が問われていると思える。ポジティブ、スーちゃんの不満には一理ある。次は、わが身と思えば、なおさら幼稚園には通いたくない。まして、おばあちゃんやらおじいちゃんなどという一般名称で呼ばれたくないと思うのである。唯一無二の個々人が薄れて消えてしまうような気がするのは筆者だけだろうか。
先輩方は、みなさん、よく我慢しておられる。
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