
海の底
1・「夏の出来事」
僕は小さい頃から海が大好きだった 海の底はどんなだろう?
父に買ってもらった海の生き物図鑑を飽きもせず毎日の様に眺めていた。魚 珊瑚
海藻すべてが新鮮だった。小学六年の時 父のお盆休みに北海道にある父の実家に
行った。その帰りのフエリーの上で それは起きた。
僕はデッキの上から海を眺めていた 夕食後の事だ。夏だったけど小雨が降って
いて肌寒く 人影は無かった。僕はふと手すりをよじ登り身を乗り出して海を覗き
込んだ。真っ暗で何も見えない 僕は手を伸ばしてみた。何かに吸い寄せられるみ
たいに、そのまま飛び込んだ。まるでプールに飛び込むみたいに。
水面に落ちる前、ほんの一瞬フエリーが見えた。父が何か叫んでいた 僕には何
も聞こえない。このまま落ちて行けば海の底に着けるのかな?そんな事を考えてい
た時、誰かに足を掴まれた 必死に泳いできた父は僕を片手に抱え海の上まで泳い
だ。救助艇が着いて男の人が僕の手を掴み引っ張り上げた。振り向くと後ろに居た
はずの父の姿は無く僕一人だった。すぐにライトを当てて捜索したが、暗すぎて続
行不可能とされた。次の日も朝日が昇るとすぐに捜索が再開されたが、父の遺体が
回収されたのはその二日後だったらしい。その時僕は熱を出して 病院のベットで
眠っていた。目を覚ますと白い天井が見えた そして母が僕の顔を覗き込んだ。泣
きはらしたような腫れた目で 父さんは?と訊くと母は涙をぽろぽろこぼしながら
首を横に振った。後で聞いたのだが、父の死因は水死ではなく心不全だったと今に
して思えば 父はあの日上機嫌で夕食の時ワインを飲んでいた。その状態で父は冷
たい海に飛び込んだのだ 自ら海に落ちた僕のために。
2・「母」
あの夏の日から二年が過ぎようとしていた。あれ以来海を嫌っていた母が来月、
海に行こうと言いだした 僕はちょっと嬉しかった。父の死後、気丈に振舞ってい
た母が 夜一人で泣いているのを知っていたから。
出掛けた先の宿はすぐ目の前に海が見えた。父の供養のためらしい。父が死んだ
海じゃないけど、海は繋がっているものねと言っていた。宿の横の道を上っていく
と海が見渡せる小さな公園があった。そのすぐ下は崖になっていてその端っこから
母は花束を投げた。
一旦宿に戻り、僕は辺りを散歩することにした。母を誘ったのだが、疲れたので
夕食まで部屋で休むと言っていた。
海に向かって歩くとすぐに浜辺に出た。僕はしばらく浜辺に座り海を見ていた。
夕日はまだ沈む気配は無かった。遠くの方でサーファーたちが波と戯れていた。
泳ぎたいと僕は思った。泳ぐのは好きだった 父の死後はしばらくプールも禁止さ
れていた。
僕はシャツを脱ぎ海に入った 夏とはいえ水は冷たい。それもすぐに慣れた 腰
の高さまで歩きそれから泳ぎ出した。しばらく泳いで潜ってみた だが何も見えな
い。もう少し沖の方へ行ってみようか?また僕は泳ぎ出した。その時、母の声が聞
こえた。止まって振り返ると母が何か叫んでいた。よく聞こえなかったが 戻れと
言っていることは解った。僕は「すぐに帰るからもう少しだけ」 と言ってまた泳
ぎ出した。母は膝のあたりまで海に入ったまま僕を見ていた。さらに泳いで水に潜
った 二、三度それを繰り返し諦めた。さすがに夕陽も沈みかけている 僕は浜辺
に引き返した。戻ると母の姿は無く 僕も風呂に入りたかったので宿に戻った。玄
関に入るとおかえりなさいと声を掛けられた。そしてお母様はご一緒じゃないの?
と訊かれた。心臓がドクンと鳴った!まさか、急いで部屋に戻り母のバックを確認
した財布も携帯電話もある。どこかの店に行った訳でもない。とっさに部屋を飛び
出し海に向かった 浜辺には居ない。
さっきまで沖の方に居たサーファーたちが浜辺で暖をとっていた。辺りは暗くな
り始めている。「女の人を見ませんでしたか?」
彼らに尋ねると首を横に振った 後から上がって来た一人が確かにいた、しばらく
海の方を眺めていたけどそのうち居なくなったよと言った。
「その人は浜辺に居たんだよね」と訊かれたので膝くらいまで水に入っていたと答
えた。すると彼らは顔を見合わせた。
「膝ぐらいなら大丈夫だと思うけど、ここら辺は急に深くなるんだ」と言った。
自分の顔から血の気が引くのが解った。彼らはすぐにあちこちに連絡を取り、一緒
に探してくれた。三十分程して離れた所から声が聞こえた 居たぞー!!
僕は走った 砂に足をとられ思うように進まない。 それでも走った。出っ張っ
た岩の向こう 母は居た青白い顔で横たわり誰かが人工呼吸していた。呆然として
いる僕の周りで、彼らはてきぱきと母を助けるため動いてくれていた。おかげで母
はすぐに搬送された。しかし、遅かった 遅すぎたのだ!僕がもっと早くに気づい
ていたら…。母は二度と目を開けることは無かった。
これで二度目だと思った。馬鹿なことをして父を死に追いやり、今度は母まで…。
どうしてもっと母の気持ちを考えなかったのか あの時の母の気持ちを。
母の葬儀の後、僕は母のお兄さんに引き取られた。叔父さんも叔母さんも、大学
生の従兄の健司さんもとてもよくしてくれた。僕は中学を卒業するまで居候させて
貰った 高校は寮のある学校を選んだ。
「高校は近いんだからここから通えばいいのに」と言ってくれたが、僕は家を出た。
「週末には泊まりに来るように」と言われ そうした。叔母さんはいつも笑顔で迎
えてくれた。
二年生の終わりごろ僕は健兄さんに進路の相談をした。就職か進学かすると叔父
さんは「やりたいことが見つからないのなら大学で色々やってみるといい」と「君
のご両親の残した遺産はちゃんととってあるから大丈夫だよ」と言ってくれた。本
当に叔父夫婦は父と母が残したお金を一円も使わずに僕を養ってくれていた。僕は
涙が止まらなかった。初めて人の優しさに触れて受け入れることが出来た気がする。
3・「海底」
大学は健兄さんが通っていた大学を選んだ アルバイトをしながら大学に通った。
父と母の遺産は僕が大学を出るのに十分な金額だったが 少しでも残したかったか
ら。いつか本当にやりたいことが見つかった時 使わせて貰おうと思っていた。
大学にもアルバイトにも慣れ始めた頃 校内の掲示板の前で僕は立ち止まった。
そこに貼ってあったポスターに目を奪われたからだ。そこには僕が見たいと渇望し
た景色があった。そう、海の底の世界が!それは僕の知る真っ暗な海の底では無く
色とりどりの魚や珊瑚そして白い砂、図鑑などで見る、明るい綺麗な世界 僕は
これが見たかったのだ!
「その写真、気に入ってくれたのかな?」
ふと、声がした方を無理向くと、大柄な男性が立っていた。学生じゃ無さそうだ。
「それは俺が撮ったんだよ」と言った。
彼はフリーの水中カメラマンで佐野雄二だと名乗った。この大学にあるスキューバ
ダイビングのサークルの指導もしていると付け加えた。さらにここの卒業生だとも
言った。
「とても綺麗ですね!いつかこんな景色を自分の目で見たいと思ってました」
「だったら今度、体験してみる?そっちは大学のサークルじゃないけど」
彼は別のダイビングスクールのインストラクターもしていると言った。
「僕、何も機材を持ってないですけど」と言うと
「大丈夫、体験レッスン料さえ払ってくれれば機材もスーツもあるから」と笑った。
そして、僕に名刺を渡して
「再来週の土曜日にやるから、興味があったら前日の夕方五時までに電話して。ま
あ免許を持っていない人ばかりだから、深くは潜れないんだけどね」
と付け加えてどこかに去って行った。僕はスキューバダイビングに免許がある事す
ら知らなかった。
帰り道、僕の心は久しぶりに昂揚していた。
その週の土曜日、いつもの様に叔父夫婦の家に行った。健兄さんは仕事からまだ
帰っていない様だったが、夕食後その話をした。最初は少し困惑していた様にも見
えた。当然の反応だ、両親を海の事故で失った家の息子が海に潜りたいなどと言う
のだから。が、叔父さんは言った。
「やってみると良い。だって興味があるんだろう?」
「うん。見てみたいんだ、海のなかを」
叔父さんも叔母さんもにっこり笑って頷いてくれた。月曜日の朝、叔父さんの家か
ら大学に行った。授業が終わってから、僕はあの佐野さんに電話をした。彼は僕が
参加することをとても喜んでくれて、
「君はまだ大学に居るの?まだいるならパンフを渡したいんだけど」と言った。
大学のカフェで四時に待ち合わせた。時間通りに現れた佐野さんは当日の予定の流
れと二枚の紙を僕に渡した。一枚は佐野さんが説明してくれたこととほぼ同じ内容
だった。そしてもう一枚は本人の同意書だった。
「同意書ですか?」と訊くと
「うん。もちろん俺たちインストラクターが事故が起きないようにしっかり見張っ
ているけど、百パーセント事故が起きない保証は無いんだ。だから参加者全員に提
出してもらう規則なんだ」と答えた。
僕はあの日の不安そうな母の顔を思い出した。おそらく母はあの時の僕の姿に父の
姿を重ねていたのだろう。だから泳げもしないのに僕を連れ戻すため、海に入った
のではないのか?僕の表情を見て佐野さんが訊いた。
「何か不安な事でもある?もしかしてご両親が反対しているとか?」
僕はあったばかりのこの人に僕の過ちを話していいものか、少し迷ったが思い切っ
て話した。僕の馬鹿な行動で父を死に至らしめたこと、母の気持ちも考えず、軽率
な行動で母を失った事すべてを。佐野さんは僕の話を聞いて少し考えていたようだ
が、やがてゆっくりと話し出した。
「君はまだ海の底の景色を見たいと思うかな?」
「はい。見てみたいです」
「なら君は見るべきだと思う。そこまでして見たかったんだろう?だったら一度で
も見るべきだ!」彼は強くそして優しく言い放った。僕は思わず目頭を押さえた。
泣きそうになったからだ。ああ、この人も叔父さんたちと同じく僕の気持ちを真っ
すぐに受け止めてくれている。母が亡くなった事を知った近所の人たちは、僕の家
は呪われているとか、何かに取り憑かれているとか言っていた。
「他にも何か心配とか不安なことがあれば言ってくれ。ダイビングの事だけじゃな
くても、俺で出来る事があれば力になるから」佐野さんは僕の目を真っすぐに見て
そう言った。
「ありがとうございます」僕はそれだけ言った。まだ僕にはそれ以上の言葉は見つ
からなかった。
4・「ダイビング」
当日の約束の時間に待ち合わせ場所に行くと、佐野さんはもう待っていた。
「おはようごさいます」と声を掛けると
「いい天気になって良かったね」と言った。あと二人来るから待っててと言って、
缶コーヒーをくれた。残りの二人は直ぐに来た。僕らは佐野さんの運転する車で港
へと向かった。そこからスクールの所有するクルーザーでポイントへと向かう。ク
ルーザーの中では簡単に今日のタイムテーブルを説明され、同行するインストラク
ターの紹介が行われた。
僕にとって初めての事だらけだった。ウエットスーツが着づらい事や、酸素ボン
ベの重たさも何もかも新鮮だった。
佐野さんは時おり声を掛けてくれた。そう言えばこんな風に沢山の人たちと何か
同じことをするなんて、学校以外では無かったなと思った。空はどこまでも青く、
海面はキラキラと光っていた。参加者の顔はみなワクワクしている。もちろん自分
も同じだ。いざ海に入る時にはワクワクがドキドキに変わった。
長い間憧れていたあの海の底の景色、それを目にすることは出来るのか?残念な
がらそこまで深くは潜れなかった。でも海の中を泳ぐという事それだけでも十分楽
しかった。そして僕にさらなる欲望を与えた。あの写真で見た本当の海の底、あれ
を見たいという強い想い。
あの日以来、僕は大学の勉強よりもスキューバーダイビングの免許を取るための
勉強を優先した。何としても大学に在籍中に上級まで取りたい!そしてあの海底を
散歩するんだ。大学でもサークルに参加して色々な事を教わった。初級のオープン
・ウオーター・ダイバーの免許を取得してからは、先輩たちに色々な場所へ連れて
行って貰った。父や母に後ろめたい気持ちが無かったと言えば噓になる。けれども
やっと好きなことに出合えた。だから許して貰いたいと思った。
二年かけて僕はディープ・ダイビングの免許を取得する事が出来た。
「おめでとうこれでかなり深くまで潜れるな!」佐野さんが言った。「次はどうす
る?」
「次は佐野さんみたいに水中カメラを持てるように、フォト&ビデオとピークパフ
ォーマンスボイヤンシーを習いたいと思ってます」
「へぇー。じゃあ俺と同業者になるな」
「いえ、プロのカメラマンになりたい訳じゃ無いんです。ただ写真が撮りたいなっ
て思って」
「いいじゃない、やろうよ一緒に」
「はい」
僕は佐野さんの言葉が嬉しかった。たとえ社交辞令でも一緒にやろうと言ってくれ
た事が。
5・ 卒業
今年の春、僕は大学を卒業した。今はアルバイトをしながら、佐野さんの助手兼
バディーとして一緒に潜っている大学を卒業したので学生寮も出なければならなか
ったが、佐野さんのマンションに居候させて貰っている。佐野さんの写真は本当に
綺麗で、特に光の使い方が印象的だ。僕も中古のカメラを買った。佐野さんに教え
て貰いながら取るのだが、なかなか上手くいかない。同じ場所で撮っても全く違っ
て見える。
「どうしたら佐野さんみたいに撮れるんですか?」僕は一度訊いたことがある。す
ると佐野さんは、
「君はどうして写真を撮りたいの?」と僕に訊いた。
「僕はみんなに知って欲しくて、僕の子供の時から憧れていた所がこんなに綺麗な
んだと証明したくて」
「そうだよな!今俺たちが海の中で見る景色が、素晴らしいとみんなに伝えたいよ
な。」
「はい。ダイビングの出来ない人たちにも、見せてあげたいです。」
「来月に入ったらモルディヴに行くけど、一緒に行くか?」
モルディヴ島と言えばまさに楽園。行きたいに決まってる!僕は出発までにパスポ
ートを作ったり、アルバイトのシフトを交代してもらえる様に頼んだり、バタバタ
と準備した。初めての海外旅行だ!日程は一週間、ワクワクする。
モルディヴでの一週間はあっという間だった。いくつかのポイントで海に潜り写
真を撮り、お互いに比べ合ったり、海の中だけでなく、地上でも僕は写真を撮った。
ようやくいい写真が撮れるようになって来た。もちろん佐野さんの足元にも及ばな
いが、それなりに撮れていた。
帰国する前の日、撮った写真の中からいくつか選びプリントした。お土産と一緒
に叔父夫婦の家に送ろうと思う。
僕が憧れ続けた、美しい世界を叔父さんと叔母さん、それから健兄さんにも見て
欲しいから。