EigenWolf

今度の東北大震災がきっかけでBlogを始めました.

愛子天皇論

2024年05月21日 16時11分54秒 | 報道/ニュース

政権内部及び有識者内部で未だに男系に強く執着する勢力があるらしい。国民の9割以上が愛子天皇に期待を寄せているという事実にもかかわらずである。国民の9割ということは、一部の集団の思いつきなどではなく、高度な教育を受けたインテリ層を包含する大部分の国民の総意と考えるしかない。国民から選ばれた政治家である以上、政府はこの事を深刻に受け止めなければならない。

本来ならば、天皇の直系が天皇を継ぐというのは極自然な形態なのである。秋篠宮が立皇嗣の礼を受けたというのは確かに一つの事実である。しかし、国民はこのときの天皇・皇后の無念さに思いを寄せた事があるであろうか。愛子様という立派な跡継ぎがいたにもかかわらず立皇嗣の礼は強行されたのである。

秋篠宮家が天皇家にふさわしいとは到底思えない。紀子妃の職員に対する激しい叱責や、堪え難い屈辱を受けた人も、更に職を追われた人もいる。また職務中に亡くなった人もおり、殆ど常軌を逸している。この様な人物は、到底、皇后として受け入れがたい。立皇嗣の礼を遂行したことはまずかった。しかし、立皇嗣の礼を盾に「すじを通し」秋篠宮家への皇統移譲に固執する事はそれ以上に大変危険であり、国を誤らせる。まず国民(エリート層を含む)の理解を全く得られない。同時に外交上も大きな不利益につながるであろう。

天皇の直系が天皇を継ぐという立派なテーゼがあるときに、愛子天皇に舵を切る事は決して恥ずかしい事ではない。政治的にも危険はないはずだ。まず、一億の国民が後ろ盾に控えている。「すじを通し」、国民になじみのなかった「儀式」に拘泥し、国を危うくするのか、それとも新たな未来を開き、国民を明るい明日へ導くのか、答えは明白である。


結婚会見:教祖様と信者

2021年10月28日 08時43分42秒 | 報道/ニュース

自分の能力を自分自身で発見する事は難しい。自分の能力は他人が教えてくれるものである。小室圭はようやく自分の類い稀な能力に確信を抱き始めただろう。確信の源となったのは、勿論、眞子様である。結婚会見は「教祖様」と「信者」の関係のようであった。教祖とはもちろん小室圭であり、信者とは眞子様のことである。

眞子様の激しいマスコミ批判を額面通りに受け取ってはいけない。眞子様の発言の全てが「小室圭」擁護に向けられていた事実に着目する必要がある。小室圭の行動の全ては自分が指示したものだと盲目的に弁護する姿勢にそのことは現れている。人は誰でも自分自身の弁明には躊躇するが、他人の擁護になると抑制が外れ、トーンが上がる。眞子様の激しい発言は命を賭けて「教祖様」をお守りするためのものである。眞子様は自分自身の利益につながる事を何一つおっしゃっていない事に注目する必要がある。小室家の新たな疑惑を、教祖様の一大事と悟った一信者の捨て身の反応のように映った。

眞子様は完全な被害者である。信仰と愛を区別する事は難しいが、私には「教祖」と「信者」の関係のように見えた。少なくとも小室圭は眞子様を全く愛していない。小室にとって眞子様は単に使える道具でしかない。「小室圭の口から眞子様を擁護する捨て身の発言が一度も出ていない」ことがその明白な証明である。眞子様への愛が少しでもあったなら「いいえその問題の全ては私の側にあり、結果と責任の全ては私が負います」と眞子様をお守りするための言葉が、どこかの段階で極く自然に小室圭の口から出たはずである。

加害者が被害者のように振る舞い、被害者が加害者のように映ることがしばしばあることに注意すべきである。二人の結婚がどのような未来に通じるのかは誰にも分からない。しかし仮に破綻に向かうことがあるとすれば、それは小室が「成功は失敗の元」という金言を忘れ自信過剰で傲慢に陥った時である。

 

追伸:小室圭の受賞論文に目を通した。すでに論文の要約もWeb上に出ているが、「Johnという架空の経営者のFordham Coffee Shopを登場させる。このShopがonline storeを立ち上げる時のwebsite作成の注意事項を取り上げる。訴訟の対象になりそうな紛らわしい類似の名称を使ったり、結果的に嘘になる表現(エチアピア産コーヒーをコロンビアコーヒーと名付けたりするようなこと)をすべきでない。常に最新のwebsite compliance lawsに注意を払い訴訟を回避すべきだ」と主張する。これでもかこれでもかというほど条例を事細かに例示しながら「訴訟回避こそが起業のための必須の事項である」と強調する。小室の異様な繊細さと執拗な用心深さがいつまでも頭に残った。一方、科学者である私にはつまらない凡庸なレポートに見える。中学生でも知っていそうなweb上の知見をくどくど述べただけの冗長な作文に感じた。上級の論文であるためには、着眼が新規であること、新たな発見があること、新たな理論を提唱すること、既存の定理の別の解法を発見すること、又は定理の一般化がなされていること、理論を実証あるいは反証する新(又は追加の)実験結果を提示すること、等いくつかの要件を満たす必要があるが、小室論文はそれらのいずれをも満たさない。小室論文は、全体を通じて、退屈で創造力を欠いており、不眠症の患者にピッタシの論文だと思った。


エネルギー政策論争

2021年09月21日 20時19分13秒 | 報道/ニュース

危険な原子力発電に代え、生命に優しい自然の代替エネルギーに頼ろうとする意見があり、政策論争にもなっている。安全なエネルギーの開発をすすめ健康で明るい国づくりを目指す、という考えはそれ自体すばらしいものであり、議論の余地はないように見える。

しかし、安全な代替エネルギーとはなんであろうか?「風力、水力、地熱、太陽光、...」その他色々挙げる事が出来るかもしれない。注意しておかなければならない事がある。基本的に、この太陽系には原子力エネルギー以外のエネルギーは存在しないのである。上に挙げたエネルギーは、その源は太陽(及び、その母体である超新星)のエネルギー、すなわち水素の核融合エネルギーからもたらされたものである。「石炭、石油」は地球が何億年という歳月をかけて蓄積した太陽の核融合エネルギーの化身に過ぎない。何億年という歳月が化石燃料を極めて質の高い燃料に変化させた一方で、上に挙げた「安全な代替エネルギー」はエネルギーの質と密度が低く、「石炭、石油」等の化石燃料の代用にはならない事はもうはっきりしている。

誤解しないでほしいのは、エネルギーとは技術革新によって作り出せるようなものではない。単にそこにあるものであり、我々はそれを利用出来るだけである。技術の進化によって開発・改良出来る工業製品とは全く質的に異なるずっとずっと根元的で基本的なものなのである。「石炭、石油」が使えない時代に進みつつある状況で、残されたエネルギーはただ原子力のエネルギーのみである。「安全な代替エネルギー」という夢の様な政治家の甘言に惑わされてはいけない。幸いにこの地球上にはまだ利用可能な若干の「核分裂物質」(超新星爆発の残骸であり、海水中に含まれるウラン同位体)や豊富な「重水素・トリチウム」等が存在する。文明的な社会を続けていくということが地球文明の避けられない道筋であるならば、我々はなんとしてでも核分裂、核融合の原子力を手なずける必要があるのである。《核兵器に転用出来るので原子力は危険である》といった政治の話とは全く次元の異なる「人類が文明を存続させるための」根源的で深淵な問題なのである。原子力の利用は我々の子孫に文明的な生活を続けさせるための残されたただ一つの道である。文明的な生活を持続させるという事が社会全体の同意であるならば、我々はこの道を進んで行くしか選択肢はないのである。


ワクチン接種と感染拡大の拮抗

2021年06月21日 11時43分41秒 | 報道/ニュース

報道によると6/21日現在、ワクチン接種は約3000万回となっている。日本の人口は約1億3000万であるので、全国民が免疫獲得するには2億6000万回の接種が必要である。割合を取ると、現時点で約11%、7月下旬で23%、8月下旬でも35%程度で、多く見積もっても50%に満たない。更に言えば2回接種の後、3週間以上経過しないと十分な免疫獲得が出来ないのであるから、オリンピック期間中はせいぜい全国民の30%程度しか免疫獲得していない事になる。

感染はスプレッダーと未感染者の接触によって起きる。既に感染して免疫を獲得している人口(約80万人)はワクチン接種による免疫獲得人口(数千万人)に比べ無視出来るから、一人のスプレッダーが他人にうつす確率は、「全人口」から「ワクチン接種による免疫獲得人口」を差し引いた分の約7割程度に減少する。しかし、この数値はオリンピック期間中の蔓延を防ぐには十分ではない。

感染拡大は自発的に起きる自然現象であるから、これを食い止めるには大きなエネルギーが必要なのである。ワクチン開発に注がれた膨大なエネルギー、日本における死にものぐるいの接種拡大の努力は大きなエネルギーであるが、時間的に間に合わなかった、ということである。「オリンピック開催の成功に向けて国民が一致団結するかもしれない」というもう一つの期待があったが、この期待も裏切られそうである。

「様子を見極めながら」有観客かどうかを判断する状況ではない。オリンピックは無観客の選択肢以外残されてはいないのである。物理的にほとんど有り得ないヤジロウベエのような均衡に期待するのではなく、どんな小さなエネルギーも感染拡大を阻止する方向に注ぐ必要がある。オリンピック期間中の感染が原因で亡くなる人も相当いるはずである。国民の健康と命を守るという気持ちが誠のものであるならば、結果がどうあろうとも保険の担保は出来るだけ多く取るべきである。最小の努力で多くの成果を期待してはいけない。注いだエネルギーに見合った分しか成果は返ってこないのである。


コロナ終息への道筋

2021年04月02日 22時01分14秒 | 報道/ニュース

先週、第一陣ということでワクチン接種を受けてきた。ワクチンはファイザーの「コミナティ筋注」である。注射そのものは痛みもなく、15分の経過観察も問題なく、無事に終えた。翌日に「経験した事のない様な激しい咳」に襲われた。喘息発作の様な激しい咳き込みに恐怖をおぼえたが、5分ほどで収まった。その後同じ症状は出ていない。この症状がワクチンのせいかどうかは証明出来ないが、これまで同様の発作を一度も経験した事がないので、ワクチンの副作用の一つかもしれない。

さて、4月1日現在、日本の感染状況は極めて悲観的である。全ての責任は「たび重なる専門家の警鐘にも耳を貸さず、Go to…を強行し、会食宴会を重ね、コロナを軽視した」政府にあるが、東京都の責任も同じ程度に重い。自分たちだけでやれるという錯覚があったのかも知れない。感染を抑えるためには「強い危機感」を国民と共有しなければならないが、対策は全くなされていない。国民を如何に導き、如何に協力させるかという視点からの真剣勝負の議論が政府内部でなされているようには見えない。これは医学というよりも政治の問題なのである。専門家は、医学や統計学の知識はあっても、政治の能力があるわけではない。我々が今頼るべき指導者は優れた政治能力の人物である。

ここまで書いて、昔学生時代に読んだドイツの宣伝相ゲッペルスの「総力戦演説」の一節を思い出した。「諸君は国民の一部である。諸君を通じて国民の意思決定が世界の前に宣言される」。ゲッペルスの訴えは演出されたものではあったが、「敗色濃い」ドイツ国民から熱狂的な「ヤー!」の歓呼で迎えられたのである。

コロナを抑えるためには真剣勝負をしなければならない。政府がこの問題を深刻にとらえているという態度を国民に示すことが最重要である。自民党内にもこの難題に最適な有能な人物がいるはずである。

もうすぐ、大型連休の季節がやって来る。過密を避けるために、連休の日程を職場・企業毎にずらすというのはどうだろうか? もともと入院患者を抱える病院職員には連休などというものはないし、盆も正月もない。勿論、五月の連休もない。公務員も連休を返上するくらいの覚悟があった方がよい。「全員が一斉に休めるわけではない」ということになれば緊張感も持続出来、過密も避けられる。可能な職場から休みに間隔をもうけるというのは悪いアイデアではないと思う。なにより政府が真剣にやっているという思いが国民に伝わるはずである。

空港からの陽性者の垂れ流しとも思える入国を見ていると政府の本気度に疑問が持たれる。終息という考え方はもう無理かも知れない。しかし、政府の最後の最後の本当の本当の「覚悟」を見せてもらいたい。