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<<メディア時評>>=甘糟りり子・作家
「人生100年時代」は幸せか
私事だけれど、約4年前、自宅で父をみとった。
居間に医療ベッドを入れての介護だった。
次第に食が細くなり、最後の数日間、固形物はほとんど口にしなかった。
父は日本尊厳死協会の「リビングウイル宣言」にサインをして
あったので、訪問医療のドクターは栄養点滴などの治療は一切
しなかった。
栄養点滴をしていればあと数日もしくは数週間は父の人生が
延びたかなあと思うことがある。
しかし、床擦れがひどく、長く生きていたところで、
痛みで苦しんだのかもしれない、
とも思う。きっと、永遠に正解は見つけられないだろう。
9日の毎日新聞朝刊の「なるほドリ」は、「延命措置の中止とは?」
というテーマだった。
いまだに、延命措置という言葉を目にすると、ドキッとしてしまう。
記事によれば、父のような意思表示の書面作成に賛成の人は
7割に上るが、実際に作成した人は3%にしかならないという。
私は今のところ健康面に何も心配はないせいか、
書面作成をついつい後回しにしている。
「なるほドリ」の上の「クローズアップ」も終末期医療の現場を
取り上げていた。
2006年に発覚した射水市民病院(富山県)の「人工呼吸器外し」
問題に触れていた。
医師2人が殺人容疑で書類送検(後に不起訴)となった。
これを受け翌年、厚生労働省は「終末期医療の決定プロセスに関する指針」を策定した。
記事の見出しに「多死社会」とあった。
何をもって「生きている」とするのか、
どこからが「死」なのか。医療の発展と価値観の多様化で、
これからさらにむずかしくなるだろう。
そんなことを考えた時、政府が掲げる「人生100年時代」
という言葉がむなしく感じられる。
健康で経済的な不安がなければ、長生きも悪くない。
しかし、ただ生きながらえなければならないとしたら幸せな
状態とはいえないのではないか。
「1億総活躍」「女性活躍」に続き「人生100年時代」。
耳に心地よく一見キャッチーなスローガンの裏側をえぐる記事が読みたい。
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《私見》
私は本ブログの2017-12-18 カテゴリー[健康・食生活]に
記事「Living Will・・・」を掲載しているので
この種のテーマは厚労省役人の作文はどうでもいい。
完全に個人の自由判断の領域だと思う。
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