画家 田中恵子のブログ

画家 田中恵子の鎌倉七里ガ浜のアトリエから

師の教え「絵を描くことは自分の哲学を描くこと」

2017年05月25日 | 鎌倉七里ヶ浜アトリエ通信

師の教え「絵を描くことは自分の哲学を描くこと」
~田中恵子の鎌倉七里ヶ浜アトリエ通信 4~

偉大な哲学者は森の中を歩きながら思索したとか・・・
私は七里ヶ浜の海を見ながら、鎌倉山を歩きながら思索します。

我が絵画の師匠の教え「絵を描くことは自分の哲学を描くこと」
「自分の哲学」は偉大な哲学者の哲学を学ぶことではなく、
常日頃、自分の考えを理論的に深めること。

前に書いた師匠の教え「絵の勉強は絵以外のことをすること」
私はこの2つのことを常々実践している良い弟子(?)です。

常に学んで、常に考えるんですね・・・。
私は、絵以外のことをするのと、自分の思索にばかり時間を費やしています。

今日も居合の稽古と、鎌倉山での思索と、
アトリエでのヴィオラ・ダ・ガンバの練習で充実していたな~
写真は、先月の七里ヶ浜の夕景です。

江ノ島の右側に富士山もシルエットで見えています。

 

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私のアトリエは音楽室!?

2017年05月19日 | 鎌倉七里ヶ浜アトリエ通信

私のアトリエは音楽室!?
~田中恵子の鎌倉七里ヶ浜アトリエ通信 2~

趣味でヴィオラ・ダ・ガンバを弾きます。
ルネサンス~バロック時代に貴族たちに愛された古楽器です。
個展の前、忙しくてちょっと練習して弓を張ったまま放置していたら、
弓の毛が伸びてしまい、毛を張り直してもらいました。
個展が終わって、アトリエで久しぶりにヴィオラ・ダ・ガンバを弾きました。
気候がいいせいか、弓の毛が新しいせいか、いい音です。
ヴィオラ・ダ・ガンバは毎日弾かないと弓使いが下手になってしまうんだけど、
意外に怠けていると、音が良くなっていたりする・・・?
3月に挫折した、新しい曲を再度始めました。
フランス17世紀後半のヴィオル(ヴィオラ・ダ・ガンバ)の巨匠、
サント=コロンブの無伴奏のシャコンヌ。
サント=コロンブの曲は、私のような者には難解で、
初めての曲に取り組む度にナゾナゾされているようです。
300年以上の時を超えて、最愛のサント=コロンブの謎解きは、
とても楽しい取り組みです。

私の絵画の師匠は「絵の勉強は絵以外のことをやりなさい」と言います。
私はそれを常々実践する良い弟子です!
以前は古楽器をモチーフにした写実作品を描いていました。
今はその様な写実はあまり描きませんが、
音楽の取り組みが、絵画において新しいファンタジーを呼び覚ますこともありますし、
他の経験や、積み重ねてきたものと熟成され、
ある時、エスキースが生まれることもあります。

 

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「脊柱側弯症の手術について」~患者の立場から~

2017年03月14日 | 脊柱側弯症「46歳での手術まで30年間いかに生きたか !?」

「脊柱側弯症の手術について」~患者の立場から~
脊柱側弯症「 46歳での手術まで30年間 いかに生きたか!?」その2

特発性脊柱側弯症の患者さんやご両親の方々も、お読みになっていることと思います。
私の成長期(30年前) に比べ、現在では脊柱側弯症の手術方法も進歩しています。
30年前は1年間入院が必要でしたが、現在は1ヶ月程度だそうです。
(若い方の側弯症の手術の場合)

私は重度まで進行していたにもかかわらず、当時すぐに手術を薦められなかったので、
成長が止まると、病院に行くこともなく、
20代から30代前半にかけては、悪いなりに安定していましたが、
30代後半から痛みが酷くなり、40歳を過ぎてから目に見えて症状が進行しました。

45歳での中井先生の初診では腰椎変性側弯症と診断されました。
脊柱側弯症が原因となって、年齢を重ね、腰椎がねじ曲がり、
腰椎の椎間板の前の部分が3カ所つぶれて固まって、
側弯症より腰椎の後弯の方が深刻な状態でした。
手術方法は、腰椎変性側弯症、腰椎後弯症などに対する中井修先生の術式
「後方前方後方三段階矯正固定術」だったため、長時間の大手術となりました。
 若い方の脊柱側弯症の手術とは違いますので、
どうか誤解のないようにお願いいたします。

とは言っても、脊柱側弯症の手術は浸襲の大きな手術です。
脊柱側弯症の手術のことを知りたい方は、「脊椎手術ドットコム」
http://www.sekitsui.com/
をご覧ください。
ご本人もご両親も、手術について学んでおくことが大切です。
現在のところ、脊柱側弯症の手術は固定しか方法がありません。
固定範囲と固定の部位により程度は違いますが、
当然、固定された部分は動かなくなり、不自由を感じると思います。
背中の傷跡は、個人差がありますが、
私の場合は1年半くらいで、目立たなくなりました。

特発性脊柱側弯症の患者さん方が、信頼できる医師にめぐり逢い、
手術が必要な方は、ご本人にとって適切な時期に、
良い手術を受けられるように、願ってやみません。
私にとっては、46歳という年齢が、全ての面において、最も適切な時期でありました。

私としては、特発性脊柱側弯症の方も九段坂病院を受診されることをお薦めしたいと思います。
若い頃からの側弯症が悪化して、お困りの方は、是非、九段坂病院を受診してください。
九段坂病院も今は新病院となり、快適な空間で、
今までと変わらないスタッフの温かい対応に心が和みます。
九段坂病院のホームページは
http://www.kudanzaka.com/

九段坂のちょっとおかしな入院ライフより(2016年3月14日更新)

私の脊椎手術について知りたい方は、私の公式ホームページの
「九段坂のちょっとおかしな入院ライフ」をお読みください。

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この写真は、術後8年目


「私、絶対あきらめないので!」

2017年03月05日 | 脊柱側弯症「46歳での手術まで30年間いかに生きたか !?」

「私、絶対あきらめないので!」
脊柱側弯症「46歳での手術まで30年間 いかに生きたか!?」その1

ドクターXの決めゼリフが「私、失敗しないので!」なら、
私の生き方は「私、絶対あきらめないので!」です。
脊柱側弯症が重度まで進行し、
いずれ広範囲の脊椎固定手術を受けなければいけないと宣告された高校時代、
ならば、固定手術まで精一杯生きようと決心した。
小さい頃からの夢も、当時の夢もできる限り実現しようと決めた。
勉強も、仕事も、スポーツも、趣味も。
そして全ての夢を実現した46歳、手術の時が来た。
悔いは無かった。精一杯生きたから。
そして、希望だけがあった。
その希望は九段坂病院の中井修先生が与えてくれた。

 

私の脊椎手術について知りたい方は、私の公式ホームページの
「九段坂のちょっとおかしな入院ライフ」をお読みください。

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「術後8年目の診察」 続 九段坂のちょっとおかしな入院ライフ[その1]

2017年02月28日 | 続 九段坂のちょっとおかしな入院ライフ

「術後8年目の診察」 続 九段坂のちょっとおかしな入院ライフ[その1]

九段坂病院の院長 中井修先生に、腰椎変性後側弯症の矯正固定の大手術を受けて8年。
中井先生は脊椎脊髄専門で日本屈指の名医で、
九段坂病院は脊椎脊髄で日本トップの病院です。

昨年12月がちょうど術後8年目の診察でした。
思春期の脊柱側弯症の悪化によるもので、
腰椎全てとその上の胸椎を3つ、計8椎体が矯正され固定されています。
背骨は首(頸椎)以外、ほとんど動かないということです。
もちろん一生そのままです。

手術後1・2年は相当不自由だったけど、年々、固定された体の使い方が上手になって、
8年間たった現在では、不自由を感じることはほとんど無くなったので、
「術後、日が浅い患者さん方が心配されてると思うので、教えてあげてください」と
中井先生にお願いしたら・・・
「自分で伝えなさい。ブログ、みんな読んでるよ!」 というのが先生の答えでした。

私の公式ホームページの「九段坂のちょっとおかしな入院ライフ」は
18,000人を越える読者がいます。
私の「ブログを読んで受診しました」という患者さん、多い様です。
知らないで入院しても、同じ部屋の人やロビーで知り合った人が教えてくれたりして、
手術前は暇なので、ベッドでごろごろしながら皆さんスマホで読むのでしょう。
病院内で、読者に見つかって声をかけられることもあります。
私のそのページは通称「ブログ」と呼ばれていますが、ホームページの1つのページです。
この度、中井修先生の要請を受け(?)、
公式ホームページ以外に、ここで続編のブログを始めることにしました。
            
8年目の診察では、中井先生が私のイメージチェンジに、驚きが止まらなかったようです。
(左が去年の記念撮影、右が今年の記念撮影、イメージチェンジがわかるでしょ!?)
術前からお世話になっていた看護師さんとレントゲン技師さんは、
春の内科の検診で会っていたので、それほど驚かれなかったかな・・・
やっぱり驚いてたか・・・。
術後健康になって食が進み、少し太ってしまいましたが、
糖質制限を5年間続け、運動再開で急に成果が出て、成人して以来の最低体重を達成!
スタイルが良くなったので、ウェディングドレスデザイナーのケイスズキさんに
セミオーダーのドレスを作ってもらい、それを着て今回受診。
とてもスタイルが良く見えるドレスなんです!

前年の診察で中井先生に「筋力が落ちる年頃だからスポーツをして体を鍛えなさい」と言われ、
広範囲固定された背骨でも危険なく出来るスポーツを考え、
術前やっていた「居合」を提案。
即、許可されて、居合を再開して1年になります。
先生が許可したのに、居合をやっている写真を見たら、またまた驚きが止まらない様子。

とても元気に、健康的になったのですが、
脊椎の固定範囲が長く、背骨はほとんど曲がらないため、股関節で全て曲げるので、
「1年半前に、長時間右前方に重心をかけて絵を描いていて、
右股関節を痛めて以来、治りません」いう報告をしました。
パソコンのディスプレイの レントゲン写真を拡大して二人で眺めて検証・・・
固定部分の上と下が壊れやすいため、
術前から「第5腰椎と仙椎の間が壊れる可能性が確立が高いので、壊れたら再手術しましょう」
と言われていましたが、今のところ無事でした。

私の体の中では再手術の準備は万端整っているそうです。
その事は3年前に聞いて、
一昨年は、その手術に適したチタンの部品が発売になったと先生は大喜びで、
いつでも再手術はバッチリとの事で、喜んでいいやら・・・
先生が喜んでいるから、まあいっか・・・という感じでした。
今回は「一番下はいつ壊れても、体内で準備できてるし、いい部品が出たから、
いつ壊れても大丈夫なんですよね!」と私から言いました。
毎回、ふざけた診察で、先生の悪い冗談をいかに冗談で返すか、頭を使います。
今回は、私のイメージチェンジに驚きすぎて、悪い冗談は出ませんでしたが ・・・。

毎年一緒に、記念撮影をしてもらうので、診察前に看護師さんにお願いしておいたら、
診察後、診察室の奥の部屋の皇居の森が見える窓のところに連れて行ってくれて、
撮影してくれました。
ボロ病院から、きれいな新病院になっても、
病院スタッフのアットホームな雰囲気は変わらないので、とても嬉しく思いました。

中井先生は、患者に触られるのが苦手だそうです。
と、何かのインタビューに書いてありました。
ふつう患者さんは「どこが痛いですか?」と尋ねると、自分の身体の部分を示しますが、
時々、先生の身体の「ここ」と触る患者がいて、
患者を触るのには慣れているが、患者に触られるのには慣れていないので焦るとか・・・。
でも今回、思い切って初めて触っちゃいました。
腕を組んじゃいました!

 

「九段坂のちょっとおかしな入院ライフ」の本編は、田中恵子の公式ホームページへ

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「テンペラとは?」西欧絵画古典技法と私の技法について

2017年02月19日 | テンペラと油彩「絵画古典技法」

「洋梨の肖像」15×15cm

「テンペラとは?」

西欧絵画古典技法と私の技法について

この1ページを読むだけで、絵画技法の根本が全てわかる!

 

全ての絵の具の原料は、顔料と呼ばれる色の粉です。

その顔料を油で溶いたものが、油絵具、卵で溶いたものが、テンペラ絵の具です。

 

ルネサンス時代に油絵具が発明されましたが、それまでは、テンペラ絵の具が主流でした。

ボッティチェリの「春」や「ヴィーナスの誕生」はテンペラ絵の具による作品です。

ルネサンス時代の作品で油彩となっているものも、実はテンペラを併用している場合もある様です。

 

テンペラは不透明で速乾性、油絵具は透明で乾きが遅い特徴があり、

併用することによって、 より自由な表現が可能になります。

当然、当時の多くの画家が併用したと思われます。

当時の油絵具は自作、またはお弟子さんが師匠独自の調合で作ったわけですから、

今の油絵具と違って、乾きの比較的早い、緻密な描写も可能な調合であったと思われます。

レオナルド・ダ・ヴィンチは油彩を好んだようですね。

 

19世紀の産業革命により、油絵具は工業生産されるようになりました。

テンペラ絵の具は今でも画家が毎回自分で作ります。

私は白のみテンペラ絵の具を使用し、着色は市販の油絵の具を使用しています。

油絵具の油や、テンペラ絵の具の卵は、画面への接着の役割をしていて、転色剤と呼ばれます。

水彩絵の具の転色剤はアラビアゴム、アクリル絵の具の転色剤はアクリル樹脂です。

 

日本画では岩絵の具と言って日本独自の色の粉を使っています。

希少で高価なものも多く、転色剤は膠(にかわ)です。

 

西洋の顔料で特に高価だったのはラピスラズリー(青)で、

当時、金より高価でした。(現在もですよね? )

 

フレスコ画は壁画に使われるため、転色剤を使わずに描きます。

それは漆喰の壁が漆喰の機能を失わないため、また剥離を防ぐためです。

漆喰は湿度が高いと湿度を吸い、湿度が低いと湿度を放出します。

漆喰を部分的に塗り、水で溶いた顔料で、漆喰部分が乾かないうちに描き、

乾くと漆喰と顔料が一体になります。

部分的に計画的に描いていきます。

最終的にテンペラで加筆することもあったようです。

 

レオナルド・ダ・ヴィンチはフレスコ画の表現力に満足できず(たぶん)、

湿気の多い場所の壁面に、油絵具で描いてしまったため、

「最期の晩餐」は完成して10年以内に剥離が始まったとか・・・。

修復を重ねて現在に至っています。

 

私が、なぜテンペラと油彩を使用し、

下地から古典技法に近い方法を用いているかというと、

その伝統的な技法こそが、私が描きたいものを描きたいように描ける唯一の技法であり、

実際に500年の時を超える堅牢さを持っているからです。

 

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