内なるいやし

2018年02月06日 | 聖書にちなんだ話
『癒し』と聞くとき、音楽や、治療や、きれいな景色のことを思い浮かべるかもしれません。
今日紹介する内なるいやしとは、十字架です。昨日は神の意志が十字架であると伝えました。神の意志とは、いつも人が主イエスに祈り、主イエスと語り合い、主イエスと一つになって生活行動することです。この面から言うと、十字架とは、主イエスの死のことです。
主イエスの死だけが、復活に続く死でした。私達の内側には苦いもの、汚いもの、ストレス、重いものが無数に散在しています。それらすべてを終わらせ、甘くならせ、復活した主イエスと一つにならせるのが、内なる十字架のいやしです。

内なる十字架

2018年02月06日 | 聖書にちなんだ話
主イエスの十字架は、外側の出来事だけだったでしょうか?主イエスの地上での歩みは私達の考える幸いなものではありませんでした。実は、主イエスは内側で絶えず十字架につけられていました。どうして主イエスは、私達、罪人のために死ぬことができたのでしょう?私達は善人のために死ぬことを良いことと考え、そうする人もいるかもしれません。しかし、私達は罪人です。誰が罪人のために死にたいでしょうか?
主イエスの内側で、十字架が働いていました。それは、罪人に救いをもたらす『神の意志』でした。
十字架は罪人を救うためであり、私達もまた主イエスの救いを伝えていくために、内側で十字架を受け入れなければなりません。

私達は復活した

2018年02月06日 | 聖書にちなんだ話
私達は十字架上で主イエスと共に裁かれました。主イエスの死だけが、神による死でした。私達が死ぬのは、私達の体の中に罪があるからなのですが、主の中には罪がありませんでした。ですから、主イエスは復活の後、罪を赦す資格を神から受けました。主イエスの身代わりの死が、神を満足させました。
私達は、主イエスと共に死んだので、主イエスと共に復活もしました。救い主イエスは復活した後、私達から離れて行ったと思いますか?いいえ、今も主イエスは私達と共におられます。このような救いを、神に何と感謝することでしょう!

主イエスを見た

2018年01月23日 | 聖書にちなんだ話

主イエスは今日も生きています。私達は肉眼で主イエスを見ることはできませんが、心の目で主を見ることができます。
主イエスを見るとは何を意味するのでしょうか?それは、寝るときも、起きているときも、主イエスのことが忘れられず、自分の罪深さのために、十字架に付いてくださっているキリストの姿が心から離れない状態を言います。主イエスを見たクリスチャンは毎日、自然と主に感謝をささげる生活をします。
私達が心で見たものは、私達が得たものとなります。キリストが心から離れないのであれば、キリストを得たのです。

主はなぜ私達を愛するのか?

2018年01月23日 | 聖書にちなんだ話

私達は、自分には短所があり、主はそれらをご存じなのに、それでも私達を愛しておられます。救われる前の私達は聖書で、悪魔の子供たちとか、神の敵とか、この世と結合した人として書かれています。主は私達のどこが良くて選んでくださったのでしょう?
主はすべての人を愛していますが、私達は、その愛に応答した者、つまり十字架の死が『自分』のためだったことを信じる者です。ここに悔い改めと、罪の赦しの『仲直り』があります。ここに愛があります。
主の愛は、赦す愛であり、その愛は主へと戻ります。主はご自身のために、私達を愛しておられるのです。