主イエスを見た 2018年01月23日 | 聖書にちなんだ話 主イエスは今日も生きています。私達は肉眼で主イエスを見ることはできませんが、心の目で主を見ることができます。 主イエスを見るとは何を意味するのでしょうか?それは、寝るときも、起きているときも、主イエスのことが忘れられず、自分の罪深さのために、十字架に付いてくださっているキリストの姿が心から離れない状態を言います。主イエスを見たクリスチャンは毎日、自然と主に感謝をささげる生活をします。 私達が心で見たものは、私達が得たものとなります。キリストが心から離れないのであれば、キリストを得たのです。
主はなぜ私達を愛するのか? 2018年01月23日 | 聖書にちなんだ話 私達は、自分には短所があり、主はそれらをご存じなのに、それでも私達を愛しておられます。救われる前の私達は聖書で、悪魔の子供たちとか、神の敵とか、この世と結合した人として書かれています。主は私達のどこが良くて選んでくださったのでしょう? 主はすべての人を愛していますが、私達は、その愛に応答した者、つまり十字架の死が『自分』のためだったことを信じる者です。ここに悔い改めと、罪の赦しの『仲直り』があります。ここに愛があります。 主の愛は、赦す愛であり、その愛は主へと戻ります。主はご自身のために、私達を愛しておられるのです。
罪のゆるし 2018年01月23日 | 聖書にちなんだ話 罪とは何でしょうか?ヘブル語原文では、的が外れていることを意味します。 矢は、私たちの生きる目標です。的の中心には、『神のために生きる』と書かれています。 的を外すとは、自分自身のために生きることです。それでは、自分のために生きてはいけないのでしょうか? 人は神のために造られましたが、罪人となってから、神のために生きることができなくなりました。ですから、神のために生きたくても、それができないのです。 主イエスは、全人類の罪を負って、十字架で死んでくださいました。それは、主イエスの死が『あなた』のための死だったことを信じ、その『あなた』が、的の中心に矢を刺すためです。 主イエスの血は私たちの罪を清めることができます。 私たちは主の愛の代価を無駄にしたいでしょうか?そうしないために、何度でも祈る必要があります、『主イエスよ、僕の罪をあなたの血で清めてください。あなたの死に感謝します。あなたを愛します。』
どのように救われるのか? 2018年01月23日 | 聖書にちなんだ話 今、私たちに救いは必要でしょうか?それとも、いらないでしょうか? 気づいていなくても、救われるべき点が誰にでもあるはずです。良心の絶え間ない訴えはどうすれば消えるのか…。 主イエス・キリストは今どこにおられるのでしょうか? 主イエスは今日、聖書の言葉の中におられます。私たちが御言葉の中で主イエスを探すなら、見いだします。その時、私たちは自分の罪を認め、主イエスに正直に話します。そうすれば、赦されたことを知ります。なぜなら、赦されたという信仰が与えられるからです。 若者は聖書を読むことがあまり好きではないかもしれません。しかし、主は御言葉の中で見いだされることを待っています。どうか私たちが聖書に向かうことができますように。
生まれながらの人 2018年01月23日 | 聖書にちなんだ話 聖書では古い人と言います。生まれたばかりでも、古い人です。 私たちの肉体は、神がお造りになった体に罪が加わったものです。私たちは神を表現し、さらには神の代理として地を治めるため、神のために造られました。 しかし、罪は私たちの生活を支配し、神に背を向けて生きさせるようにしています。その結果、人は自分のために生き始め、神を忘れてしまったかのようになりました。しかし、自分のために生きるようになっても、苦しみや悲しみは後を絶ちません。次から次へと付きまとってきます。 主イエスは復活後、信者の中に、命の霊として入りました。命の霊は法則を持っており、法則をつかんだクリスチャンは、瞬間ごとに救いを実感することができます。