2024/11/10

2024年11月10日 | 聖書にちなんだ話
キリストは復活であり、また一粒の麦です。私たちは復活と一粒の麦としてのキリストをどのように経験し、享受し、表現するのでしょうか?
私たちが復活を経験することができるのは、キリストが「復活の命」となられたからです。キリストは十字架の死を経験し、また経過されました。もし私たちがキリストの復活の命を持っておらず、さらには適応することがないなら、たとえ苦難や困難を通っても、それは十字架の経験とはならず、キリストを復活の命として経験することもできません。私たちが信じる必要のある事は、救われたと私たちの遭遇する、すべての事は、神を愛する私たちにとって、「すべてが共に働いて益となる」と言うことです。それは、神を愛する者たちには全てがプラスに働いているということです。神を愛するとは、神の御心の完成を愛することであり、それは神の長子としてのキリストと同形化されることであり、また、団体的にキリストの体の実際となり、新エルサレムに構成されていくということです。
復活の前提にあるものは、十字架の死です。そして私たちは、復活の命としてのキリストと一つとなり、キリストの十字架を経験した結果、復活の領域にもたらされます。私たちは自分が耐えることができないと思う苦難、困難、試みを前にして、動揺したり、慌てたり、諦めたりしてしまうかもしれません。しかし、私たちはただ、「主イエスよ」と、主を呼び、静まり、霊の中で、復活としてのキリストに触れるまで「落ち着く」必要があります。そのような時、主イエスの御名を呼び、御言葉を祈り読みすることが、私たちに十字架を経過させ、天然の命と力を終わらさせ、復活にもたらさせます。
一粒の麦としてのキリストを経験すると言う時、私たちが「多くの麦粒」であると言う事と、彼の命の継続、また複製であることを思い起こさせます。それは、私たちが彼と同じ表現を持つことを暗示しています。
私は特にヨハネによる福音書に啓示された、三一の神について印象づけられました。それは一粒の麦が生み出した神性と人性の合併が、御父の家、真の葡萄の木、その霊の子供であるということです。
御父の家として、私たちには存在するルーツがあり、私たちの源は父なる神です。私たちが源ではなく、御父が私たちの源です。
真の葡萄の木として、私たちはその枝として接ぎ木されました。ですから私たちは、今実を結ぶために存在しています。
その霊の子供として、私たちは成長する必要があります。私たちは神・人の種族として、日毎に内なるキリストの命を成長をさせる必要があります。
成長する過程で、私たちには聖書に書かれている、多くの教えが与える、多くの課題、多くのレッスンがあります。もちろんそれを成就してくださるのは内にいます、復活における、一粒の麦としてのキリストです。しかし、私たちは主に協力する必要があります。
私たちは1つ1つ、自分ができなかったことを主の光で照らされ、尊い血によって洗い清められ、自分ができないことを主の御前で認め、告白し、何度も何度も主に来て、供給され、満たされるというやりとりを続ける必要があります。その結果は、御父を源とすること、ぶどうの木の枝として実を結ぶこと、キリストの命が成長して神の相続人となり、神の嗣業となることです。
主を賛美します。


主からの語りかけを受ける

2024年10月28日 | 聖書にちなんだ話
主は命を与えるために、その霊となられました。
ですから、今日、主は命を与える霊として、私達に語られます。
そして、彼の語る言葉は、霊であり、命です。
主は私の言葉は、魂であるとは言わず、霊であると言われました。
主のの語られる言葉が、「霊」であるとは、どういう意味でしょうか。
主は、私達の最も深い部分である霊に触れることができるということです。
人が何か言葉を語るとき、その人の語った言葉は、その人そのものを表しています。
主が語られた言葉が「命」であるとは、主が命そのものであることを意味します。
どのようにして、私達は、主からの語りかけを受けるのでしょうか。
私達は、御言葉に来て、その言葉を語られた主、復活の中の、その霊となられた主に触れる必要があります。
ある人は、「主は私達の霊の中に生きておられるので、その主に聞き従えすれば十分である」というかもしれません。
しかし、私達の中に生きておられる主は、どれほど私達を通して生きておられるでしょうか。
もちろん、私達のうちにいますキリストは、私達と一つです。
それでは、キリストは私達を通して、どれほど生きておられるでしょうか。
私達が食べるキリストは、命のパンであり、命の供給のためであり、彼が私達を通して生きられるためでもあります。
私達は内なるキリストの命を顧みて、命で構成されることに協力しなければなりません。
もし、私達が、内にいますキリストを顧みないなら、キリストの命は私達の内側で制限されたままであるかもしれません。
ですから、私達も自動的に、自分自身を、自己を生きてしまいます。
キリストはご自身の言葉を既に語られ、それは聖書の中に書かれています。
しかし、キリストは私達の中で、再びご自身の言葉を語ることを願っておられます。
それは、私達の内側で、キリストの命が供給され、私達を通してキリストが生きられるためです。
私達が祈りの中で、主の御名を呼び求め、御言葉を短く区切って読み、また主の御名を呼び求めて、また、御言葉を短く区切って読むことは、本当に私達を養います。
私達は、聖書の言葉に来るとき、命を得るために、主に来る必要があります。
なかなか御言葉に触れられないときや、思いや感情が強く働いてしまい、御言葉を読む気さえ起きないとき、私達は、短く祈ることによって突破することができます。
「主よ、御言葉を読む気さえ起きないほど、私はイライラしています。」、あるいは、「主よ、あなたの、この御言葉は、受け入れることができません。」
その祈りの後、主は入ってきて、私達を命で養ってくださいます。
詩歌210番の2節後半は言います。「吐き出すなら、なが命は満ちる」
空にされた私達を満たそうと、主はいつも待っておられる故に、主を賛美します。

十字架の勝利(更新)

2023年10月16日 | 聖書にちなんだ話
主イエスは十字架上で死なれたとき、神は御子イエスを青銅の蛇として裁きました。その裁きは、実は悪魔が裁かれたことを意味しました。イエスは何の罪も犯さず、罪を知らない方でした。それゆえに私たち罪人の「身代わり」となる資格がありました。神の目に、罪を償うことができるものは、唯一、罪を持たない者でした。イエスが死んでくださった時、悪魔は裁かれました。悪魔は主イエスの肉体の中で何もすることができませんでした。主イエスはすべての面で、神に対して義であり、忠信でした。
主イエスの勝利は復活において証明されました。罪のない方が、そのまま死の中に倒れていることはふさわしくありませんでした。神はイエスを復活させたことにより、私たち罪人があの「信仰による義認」、信仰によって神に義とされる道を用意してくださいました。イエスは復活して、今日、神の永遠の命を与える聖霊となっています。
信仰とは、イエスが私たちの中に入ってきて、永遠の命を与えてくださることを信じることです。

主イエスの血の効力

2018年02月06日 | 聖書にちなんだ話
私達の罪を洗い清める主イエスの血は、永遠の効力があります。なぜなら、主イエスは人であり、神でもあるからです。神が流された血の効力が永遠であることを、私達は信じなければなりません。
私達は、主イエスの血によって毎日洗い清められるべきです。
心の中で、悪いことをしてしまったと感じる時はいつも、『主イエスよ、罪を教えてくださり感謝します。僕は汚い心のままでいたくありません。僕がしてしまった事は罪でした。あなたの血で洗い清めてください。』と祈ることにしましょう。その時、主イエスの血が私達の心の中を洗い清めてくださるので、主イエスをもっと愛したくなります。試してみましょう。

十字架の代価

2018年02月06日 | 聖書にちなんだ話
主イエスの死の価値はどれほどだったのでしょうか?
旧約時代に神のためにささげられた羊や牛には、傷がありませんでした。旧約の教訓から見てわかるように、主イエスには傷がなく、完全でした。私達の主イエスは、神の満足のためにささげられた『神の小羊』でした。
罪のゆえに、本来は神のものであった私達は悪魔の子供たちでした。主イエスの血は、神に対して完全であったことを証しし、神の満足となりました。神の小羊の血のゆえに、私達と神の間の問題はすべて解決することができるようになりました。
主イエスは、完全に神のためであったので、神の目に、無傷で、誰にも触れられないまま、十字架で神のために殺されました。
今、私達は彼の命を、信仰によって受けています。